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AI 人口知能に任せてひきこもろう

AI 人口知能の弊害はすでに侵攻中。
おいらのブログは「BMI 思考制御」でググってもスマホで出ない。
物事には、肯定的なことでも悪い・否定的なことは包含しているし、逆に否定的なことでも良い・肯定的なことも包含している。
それをAI 人口知能がその「人間が求めることに沿う」、つまり、その人が求めたい嗜好に取捨選択すれば、現実との齟齬・乖離で炎上・無視になって当然だし、人が情報を求めるときに、否定的・肯定的に偏ることで、理解や思考がチープになる。
というところでAI 人口知能の弊害、つまり人間が取捨選択の捨をすることがいかに理解とは隔たることかを、「ひきこもりをなんとかしよう」の否定論で愚痴ろう。

「ひきこもりをなんとかしよう」は社会側の要求としてならしょーがないことだが、「ひきこもり」当事者にすればしょーもないこと。
「社会に出ている人」が「社会から遠ざかってる人」を考えるってな、180°立場が違うことなのでもともと無理な話。
「ひきこもりをなんとかしよう」と言ったって、当事者やしようとする人、さらにさらに周辺の問題をピックアップしていったらてんで話にならん。
「肯定的」だけでなく、「否定的」なことも付き合わせにゃ「問題解決」にはならん。
結局のところ「AI 人口知能」は、「使用者の求めるに沿うものでなければならない」ということで、「ひきこもりをなんとかしよう」ということの否定的な面の情報をAI 人口知能側と、その「ひきこもりをなんとかしよう」としている人双方で弾いてしまうのがそもそもの致命的な欠陥。
というところで、「ひきこもりをなんとかしよう」の否定的な面を愚痴愚痴列記する。
当然、「ひきこもりをなんとかしよう」と言う人には論外役立たずなことだが、そのことで当然「ひきこもり」をなんとかできることはない。

すでに愚痴っているが、「ひきこもりをなんとかしよう」は社会側の要求としてならしょーがないことだが、「ひきこもり」当事者にすればしょーもないこと。
まず、専門家とかが対応していることだけれども、自閉症とかアタマノオカシイ人はそれこそ専門家任せということだが、残念ながら、「ひきこもり」の人でも「専門医」で診断をあおいだ人しか「病名」は分からん。
しかも「専門医」の専門性と言うかその能力で計るところの診断というものが必ずしも適切ではないというのが、かかる専門医によって診断も治療方針も違うとか。
それを、そういうビョーキの人を素人が「ひきこもりをなんとかしよう」とどう対処しようってんだい?。
で、そういう「アタマノオカシイレッテル」を張りつけられればまだしも、「コミュ障」やその他「アタマノオカシイレッテル」を張りつけられたことに嫌気がさして「ひきこもり~♪」とか。
つまり、「ひきこもる」というのは、それぞれの人の事情があるということだ。

「ひきこもり」と言っても様々な状況・理由がある、のは当然。
だがその様々な状況・理由なんて「ひきこもっている者」であることで理解するに役立つ情報の質や量もなかろうに。
「ひきこもりをなんとかしよう」と言う時には、そういう人は上から目線ということになろうが。
事例として出した「頭のおかしい人」が相談する人というのはそれこそ勉強をしてモンノスゲ~頭の良い人ということになる。
が、そういう人が相談される立場での注意事項と言うか能書きというか、そういう「頭のおかしい人は、相談してくれる人の力量を計っている」ということだ。
当然のことだが、母親が子供を医者に連れていくとか、下手なことをすれば医者の力量なんて母親はこてんぱんに評価するのが常だろうに。
会社に平で行ったって、上司だろうがCEOだろうがこてんぱんに評するだろうに。
それこそ日常だが、親のことであろうが、近所の人であろうが、会う人身近にいる人、関わりのある人、それこそ実際のことなど知りもしないマスコミから流れてくる人を計るのは人間としての常だろうに。
で、「ひきこもりをなんとかしよう」と言う人はその「ひきこもり」を計ることはするとしても、「ひきこもりをなんとしよう」と言う人たちは「ひきこもり」に計られていることは意識しているのかい?。
「自分達はひきこもりをなんとかしてあげようとしているのに、なんでひきこもりに計られていなければならないんだよ」ってのは、そもそも「人間を相手にする」ことの理解が欠如しているんだよ。
そういう輩はそもそもそういうことには向かん。
大人が子供を相手にするにしても、子供は相手にしている大人を計っているのは常識・当然ごと。
まして大人の「ひきこもり」なんて大人の知恵を持って相手を計っているということだ。
押し入れに押し込んだ人形を引き出して話しかけるのとは分けが違う。
今まで生きていて、少ない経験にしろ他者を計ってきた物差しで計って見ているということだ。
で、その「ひきこもり」が「ひきこもりをなんとかしよう」として来ている人を計っていることが分からないなら、その人の人となりが分からないということだから、一方的に言っているだけのこと。
まして「ひきこもり」が持つ計りを否定するのは、その人の、生きてきた事実、を否定することだから拒否されて当然ごと。
だいたい、「自分が人を計っている」ことが理解できていない者が、人に関わろうってのが整合性が無いと言うか食い違いごと。
食い違っているのだから、コミュニケーションが成立しないのは当然。
「自分が人を計っている」のはだいたい「多分に否定的見方」であって「自分自身を見るのは大部分肯定的」ならばそれこそ食い違いごと。
いや、「ひきこもる」、まぁその一部の人ということになろうが「自分のことに否定的」というのであれば、「自分を見るのは大部分肯定的」の人が相対すれば、それこそ食い違いごとだろう。
加山雄三が森田童子の歌が理解できんと言っていたが、逆に、森田童子は加山雄三の歌は理解できんといったところか。
要は、自分の立場の考えを押しつけたって理解してもらえない。
「ひきこもっている」ことが理解できん、というのが一般論のはずなのに、その「理解できていないことをなんとかしよう」、というのがそもそも食い違いじゃん。
その食い違いを前提にせんのに、「ひきこもりをなんとかしよう」、分かりもしていないことができるわけないじゃん
抜けた、「ひきこもりをなんとかしよう」と言う者は「ひきこもり」を計る術はもちえてないが、「ひきこもり」は「ひきこもりをなんとかしよう」と来た者を計っている、ということだ。
うがった見方をすれば「計られるのが嫌になった」として「ひきこもり」になったとすれば、「ひきこもりをなんとかしようとひきこもりを計りに行く」とすれば、それこそ相入れないだろうに。

「明るい」「社交的」は子供の頃から求められるもので、そういう性格・人間性で無いのであれば、子供時代ず~と友達もいないで仲間に馴染めず、とかすれば、社会に出て社会が馴染めないのは当然。
そのために学校で集団生活してる、とかではなく、子供は様々の性格の集団をその時々で造っていくもので、その様々な性格になる集団に臨機応変に馴染むことが「子供の社会性」ということだ。
が、そういう子供集団ってのは情動的に激しいとか躍動的だとかで、物静かな子供にすれば取り残されごと。
だけど、社会に出ると、逆に情動的に激しいとか躍動的なことは爪弾きごとで馴染めないわけだ。
「落ち着いて静に」
当然のことだが、社会に出るというのは、生活や人間性を定型にして、自分らしさを押さえつけて暮らすことが求められる。
これができんと社会に馴染めないのは当然。
情動的に激しいとか躍動的なことを社会に拒絶されたから「ひきこもり」になったと言う時に、生活や人間性を定型にして、自分らしさを押さえつけて暮らすのを求めます、とすれば言わずもがな。
で、OVA アルテア 作がブラックポイントだったけか、作中で「戦闘で精神攻撃を受けて頭がおかしくなって、それを治療してまた戦場へ」とか、働くことに疲弊した「ひきこもり」はブラック企業で働かせればいいじゃん。
「ひきこもり」を受け入れる社会側が、必ずしも健康的ではないことも考えておかないと、対策が最悪自殺という結果にもなりうるということだ。
それじゃぁ、「ひきこもり」を矯めて人を殺す、じゃん。

で、根本的に、「ひきこもりをなんとかしよう」という者の人間性に問題があるとすれば、よりこじらすことこそ有れ解決することは無いのは自明ごと。
中学の時に仲良くさせてもらっていたクラスメイトは、今になって考えてみれば「外向的コミュ障」だった。
いつぞやの中学の下校時に、おいらが初恋した人に「外向的コミュ障」の人が「一緒に帰ろう」と誘ったことがあったが。
その誘いに、今まで見たこともないようなムとした不機嫌な顔をしたのに、それでも「外向的コミュ障」の人が満面の笑顔で誘い続けていたが。
そういえば、この初恋の人は夢見る乙女っぽい人だったと思うが、こういうシャカイノクソリクツごとを考えていたかどうか不明、つまり夢見る乙女であるとするならば、もしおいら化物顔が付き合うことがあったとしても話が合わないということだ。
ついでに思いだしたが、初恋の人の女性幼馴染み。
この人は社会性ということでは良くできていた人だと思うが。
仕事とか社会的行事とか任せておけ安心、という印象。
が、思いだしてみるに、「異性との交流」とか、あるいは決まった友達以外と仲良くしているのを観た覚えが無いような・・・。
つまり、定型的な社交性は持ち合わせているが、「ひきこもり」以前に、周囲の人とのコミュニケーション能力ということでは疑わしいということだ。
「ひきこもり」が問題、とした時に、じゃぁこうゆう人が「ひきこもり」をなんとかできる、でなくて、近隣・会社内とか「ひきこもり」になりそうな人に対応できるのか?。
あるいは、最初に就職した職場に、とにかく自分は親分肌でなんでも見事なまでにしている、と言う確信をもっていて、なんでも不出来なことしかできない現実とか、人の評価叱責なんて、まるで理解できん人がいたが。
「わしが言うようにしたら良いように言うたるで」とかそのさせようとしていることは短絡のクソ間違いだし。
「良く言うてやる」たってその労力と言うか人を使うと言う理解、顎で使う、とかの社会的常識の無さ丸出しだし。
その系統で、繰り返しおいらが非難している「健常者キチガイ」のように、自分を優位尊大に思い込みながら、見下す者を求めて言いなりにできるものだと思い込んだり、はたまた「下の者」ということで自身の精神安定剤にしたり。
そんなん職場で相手にせにゃならんで、その上虐げられることにでもなれば「ひきこもり」になろうっちゅうもん。
二人目の「健常者キチガイ」の時は、半年もすれば自滅していなくなる、と経験上思っていたが、三ヶ月でいなくなったが。
そういう、人と相対して不快感を与えるとか、もともと対人関係を破綻させるような者が「ひきこもりをなんとかしよう」と「ひきこもり」のとこへ押しかけて、「ひきこもり」を重篤にさせてしまうのは当然っちゅうもん。
しかも、こういうろくでもない輩は「自分の正当性と尊大さ」に執着していたいから、自分の間違いも相手の気持ちもまるで分からんのにいけしゃぁしゃぁと「自分くらい正しいことをしている者はおらん」くらいにしか思わん。
一人目の「健常者キチガイ」は「わしがおまえに合わしてやっているんだ」とかぬかしたが、こっちが合わしてやっていたのは分からんだろうが!。
「ひきこもりは人を遠ざけたい」ということが一番の視点・前提ちゅうに、押しかけていって自己宣伝していれば上手くいくと思ってろ!。
この一人目の「健常者キチガイ」は、現実の立ち位置の認識の整合性を破綻させてしまって、精神的にまいって引っ越したが。
こういう輩が「ひきこもり」になった、社会に出てくるな!、ちゅうの。
人に迷惑かけるような者共など誰だって身近にしたかねぇ!。
で、「人を言いなりにする」のは悪い、とは誰しも分かることだが、実際には「不出来苦手」に付け込んで「儂が目をかけてやっているんだ」の傍若無人の自己中はいくらでもいる。
で、イジメとか三ヶ月で辞めた「健常者キチガイ」で分かったのに、言いなりにする者がいることが、回りにいる者共にとっても肯定・必要としているということだ。
言いなりに使われている者に、労力や嫌なことや負担だと思うことを押しつけられていられれば回りの者共は楽じゃん。
で「自分が子供の頃にはイジメは無かった」とのうのうと大人は言っていられる分けだ。
だって「自分がイジメた事実は無いもん」。
が、力づくで嫌なことや負担だと思うことを押しつけられた者は、その回りののうのうとした者共には恨みはらさでおくべきか、ごと。
その味方の無さから「ひきこもり」を選んだとすれば、回りにいたであろう者共が「ひきこもりをなんとかしよう」と押しかけても信用が得られるはずもない。
ということで、「ひきこもりをなんとかしよう」側の人間性が問題、ということはおざなりに問わない、ことで上手くいくはずもない。

一方で、社会問題系は専門家を含めてみんなヌルイ。
人間の認知・認識・理解等々は、ずれと分断、簡略に「認知・認識・理解等々には断層がある」のだからしっかたないが。
実際問題、「個性・自分らしさ」は人との関係性によって成るもの。
一方的(しかも単調・単純)に否定・攻撃を向けるのは人との関係性を無視してだから。
よって、「関係性を無視した多数の人間による否定・攻撃」は一様なことで「個性・自分らしさ」は多人数のエージェント・スミスのように「同様の人」に染まってしまう。
この、「彼ら」と言うか集団化というのは今のネットから子供の「イジメ」とか国家から小さな集団まで現れる人間現象だけれども。
ナチズムとか日本の差別とか、歴史的に集団での攻撃性は繰り返されているのに、大学や大学関係の人間理解では当て糞が無い。
あるんなら歴史的に集団での攻撃性は繰り返されていることで子供のい「イジメ」も同様の集団現象と啓蒙しとけや!、つーところ。
化物顔としては、「見下したようにしないから、あれはわしを見下しているんだ」のキチガイ論法には辟易してきたが。
要は、「生意気だ!」とか大人社会ではフツーあるいは必需のこと。
大人では「地位」関係を決めつける関係性が横行するが、子供でも同様に人気キャラの取り合い、集団ではガキ大将(今は死語だが人気取的に中心にいたい)の関係性とか、考えてみれば、大人社会への準備とも言える。
したがって、「イジメ」の加害理由付けの一つである「見下したようにしないから、あれはわしを見下しているんだ」は、大人社会の方から理解・解決していく必要性がある。
が、大人社会ではこれが社会秩序の中に組み込まれているものであり、また「見下したようにしないから、あれはわしを見下しているんだ」のキチガイ論法は大人自身が否定的・問題があるとされることを拒みたいことで、よってこの「イジメ加害者の方法論」での「子供のイジメ」を解決するべきではない。
「見下したようにしないから、あれはわしを見下しているんだ」・・・つうか、ネット社会で「専門家」を「素人が自分の思うようにならない」ことで食ってかかっているのは滑稽なことでしかないんだが。
大人社会が子供の「イジメ」を考えるとか、だいたいは「空孝」とか「空論」、というとこに「子供の時にイジメられた事実」突っ込んでも鳩に豆鉄砲ごとだが、「空孝」とか「空論」話題で考えたつもりになってれば大人側は良いじゃんごと。

「あれが、ああいうことをするなんて」とか、人を勝手に決めつけてしまうことはよくあることだが、これが時に深刻な「イジメ」になる。
「イジメ加害者脳はイジメ被害者にもある」ということで決めつけが激しいと攻撃(イジメられる)ごとになるが。
思い込みと言うか、性格・人格・人間性・知的水準等々なんて、その人でない人が決めつけられることではないじゃん。
それを強硬にすることは、人権・人格権の否定でしかない。
これは、「他の人に否定的なことを勝手に決めつけてしまう」のは痛みが無いから分からないごとだが、「自分に否定的なことを他人が勝手に決めつけてしまう」のは激昂ごと。
が一方で、性格・人格・人間性・知的水準等々決めつけて、その人がそのとうりにしてくれているのは安心していられるごとだが。
前例の「健常者キチガイ」の見下し相手とか。
が、これは大人社会で往々に横行していることであり、場合によっては虐げられていることになり、時に反逆的に事件にもなりうる。
当然、ガキンチョもこれが常態なことで、小さないざこざから深刻な「イジメ」にもなりうる。
前の会社で「健常者キチガイ」にやられたが、「認知の歪み」のある野郎なので手順を踏まない性急なことをしておいらが間に合わせないことで「仕事が遅い」とか言い触らした挙げ句早々に首になったが。
もちろんおいらの未成年時にも「化物顔」ということで決めつけられたが、まぁだいたい知的水準の低い奴等ばかりだったので、今はもうもうろくしていることだろう。
もうろくしていなくたって、再会したときにはその「決めつけていたこと」をそいつの孫とかの前で言わしめてやる!。
性格・人格・人間性・知的水準等々を決めつける、ことをするというのは、短絡的でそうしたことごとを実際・事実関係を知らない(まるで無視、ということだろう)で決めつけてしまうということだ。
考えてみれば当然のことだが、「知らないことは決められない」。
その人を知らないのに「あれが、ああいうことをするなんて」とか性格・人格・人間性・知的水準等々を決めつけるんでっか?。
だけど、人間、そうすることがフツーのこと。
ということは「知らないことを知っているから決める」ということになるけれども、「知らないことを知っている、というのは妄想だ」ごとじゃん、当然。
ついでごとで思いだしたが、家族の介護とか障害者の付き添いをしなければならないために「ひきこもり」しているとしたらどうよ?。
そんなメンドクセーことはたいがいの周囲にいる者は忌避ごと逃げだ仕事じゃん。
そんなんこそ「ひきこもりをなんとかしよう」ってやれ!つーの。
つまり「ひきこもりをなんとかしよう」は現実を見失った安易・短絡ごとでしかねー!つーの。
一方で、前に住んでいたアパートに引っ越してきたトラックの運ちゃんは、仲間を集めてサバトを開いて、奥さんには金も出さず家族なんて知ったこっちゃないだったが。
こういう輩は下述しているけれども、「社会」には出ているが「つるむ」ことで地域社会からは「ひきこもり」なわけだ。
さらにはその家族も、収入の余裕もなければ地域社会の体面も無いことで「ひきこもり」しているとしたら?。
当然、そう言うと時には、その原因にしてしまっている、家族や社会状況を解決せんとどーにもならんのは自明ごとだが。
「ひきこもりをなんとかしよう」と言う者共は、そういうムズカシイバックグラウンドは見て見ぬ振りして見易そうな「ひきこもり」を選んでなんとかしましょう、かい?。

で、おいら化物顔は、朝の通学路の子供の顔を見るのを楽しみにしていたが、不審者として広島市牛田新町小学校に警察に通報されて、ノータリン警察官に職務質問されたぞい。
ということで、牛田新町小学校周辺とか避けて、なるべく「ひきこもり」するようにしていたら、だいぶんたって、「お困りごとが有りましたら相談してください」とかボランティア活動か知らんポストに投函されてたが。
ふざけんじゃねーよ、化物顔がうろついているから子供を護ろうって通学路見回り強化していたろうに。
その地域住民のはしくれが、な~にが「信用してください・お相手してあげましょう」だ!。
すでに愚痴垂れているが、幼少期に「明るい」「社交的」「(今時の話題性を持っている)」で無いことで追いやられて、あるいは人とは変わっていると相手にされないで人との関係性に馴染んでいない。
そういうところで、「ひきこもりをなんとかしよう」という人が突然話し込みに行って、その当事者が持っていない話題ですんなり話に応じるわけないだろうに。
「自分は社会に受け入れられていない」という思い込みは勘違いの場合も有るが、現実に今まで生きてきて、自分が属すことができる集団の中で他者との肯定的交流をしてきた経験が無いとか少なければ、あるいは集団から不審者とか相手にしたくないとか否定的に見なされてきたとすれば、仲間内輪の者共の中に身を置くことが了解・容認できるはずもない。
「不審者を身近にしたくない」は社会的に正当なことだろうが、「不審者と見なされる」ことの憤怒を「ひきこもりをなんとかしよう」の能天気頭共には分かりっこねぇ!。
「不審者に見なされたひきこもり」に対しては、「ひきこもりをなんとかしよう」は完膚無きまでに間違いだ!。
「不審者に見なすものは社会からいなくなれ!」と地域住民は断固たる態度で言ってろ!。
それが正論!。
だいたいもって「不審者とみなす」ことの理解が一般論として有るのかよ?。
社会的には一般論として使われているが、その「意味」ということで誰もが理解している、ものではなかろうに。
「不審者とみなす」というのは、不審な行為行動がある、ということからだろうが、おいら「化物顔」は「キモチワルイ不快な顔」ということで広島市牛田新町小学校に「不審者」として警察通報ノータリン警察官職務質問ということだった。
「行為行動」ということでは、子供の顔を見るのが楽しみとは言え、おいらは学童通学時にも子供にあまり近づかないように動作していた。
屋外にすれば、パーソナルエリア(心理学用語)は1m以上な分けない、せいぜい半径70cmくらいなもんだ、それを意識して子供との距離は常に取っていた。
が、不快感あらわのパープー(パープルコーディネート服装)女児の被害妄想からってところ。
実際問題、「不審者」というか、身近にいれば危ない人はいるわけで、そういう人を排除しなければ自身の安全は保障されない、ということはあるのだが。
ただし、その判断は事件が起こってしまわなければ正否の判断はできないし、事件が起こってしまえば取り返しがつかない、ということだ。
「不審者」という判断は、例示のように被害妄想の場合も有るし、判断はつかないところだが、「不審者」とみなすとなれば、いなくなってくれた方が安心感につながるし、「行為行動」の如何に関わらず「不審者」の方に全ての罪・責任があるとする言い分だ。
一方で「不審者」にされる立場にすれば、その「不審な行為行動」をするとしても、そういうことをすることでさえ正当化したいろくでもない者もいたりするのが人間の常だが。
が、「不審者」とされるということは、「社会的地位の剥奪」であるとともに、自尊心を貶められ自らのここで生きている(つまり行為行動)正当性を否定される断じて認めらないことだ。
したがって、社会に「不審者」というレッテル貼りをされたときに、戦う気力があれば戦うだろうし、かえってそれで「不審者」というレッテルが強化されてますます爪弾きということも有るだろうし。
戦う気力が無ければ、社会に嫌気が差して「ひきこもり」にもなろうが、その嫌気に社会が「ひきこもりをなんとかしましょう」ってお話にならない馬鹿丸出し対応。
まして「ひきこもり」をしたことでますます「不審者」という決めつけを社会は強化していろ!。
なんで「おまえのような者は信用できない」と面と向かって突きつけておいて、「社会を信用してください」だ!。
おいらは広島市牛田新町小学区の地域住民は断じて信用できん!。
抜けた。つまり「不審者」と決めつける側は対象者がいなくなれば良い、全て対象者に罪・責任がある、としたいが、「不審者」とされた側はそれ以上に「不審者」にした者を「不審者」と決めつける!、ということだ。
「不審者」と決めつける側及び社会がその認識が無いことで、そのことでの「ひきこもりをなんとかしよう」ということはまったくもってお話にならん!。
まだ抜けてたが、「不審者」にされたことで「ひきこもり」になったとして、それを周知の立場で「ひきこもりをなんとしよう」というのであれば、「自分達は格上で不審者は見下す者」という関係にするということだ。。
もちろん、そうは思っていないとか阿部総理質疑応答並みのまことしやかな理屈は言うだろうが。
「不審者」とされた者が、その関係性で「ひきこもりをなんとかしよう」と言う立場で相対されるということは、正に自尊心を貶められていることでしかない。
「不審者」とみなされた事実を「口車で無かったことにする者」など信用すできない!。
前述したように、「不審者」とされた者は「不審者に決めつけた者をそれ以上に不審者に決めつける」ということだ。
まぁ、勝手の良い様に「ひきこもりをなんとしよう」という者が否定していれば理解してない無いことで「ひきこもりはなんともならない」の空虚ごとだろうし。
じゃぁその「不審者」が「不審者と決めつけた者」に、「自分のことを信用して仲良くしてください話を聞いてください」と言えば「不審者と決めつけた者」は信用して仲良くしてくれるのかよ?。
また抜けた、と言う状況として、じゃぁ「不審者」とされた者が「不審者とした者」にエラソーに理屈こいてやろうじゃぁーないか!。
そんなもん「不審者とした者」は腹立たしくてそれこそ警察に「不審者対応求めたい」だろうぜ!。
つまりは「不審者」とされたから「ひきこもり」を選んだ、と言う時には「ひきこもりをなんとかしよう」とする者が「自分達はひきこもった者よりは上だ」という思い(無意識的であっても)でするとなれば、「ひきこもり」にとっては「不審者がいると警察に不審者対応求めた」どころではない怒り心頭だということだ!。
それでも「ひきこもりをなんとかしよう」という者の言いがかりで、「なんで切れたのか分からない」だとか「親身に関わっているのにひきこもりをやめない」とぬかすわけだ。
関係性も「不審者とされる」こともまるで理解が無くて解決するわけねぇ!。
化物顔がお買い物~。
と、ある路地に入ったら、20代くらいの女性がおいらを見つめて「気持ち悪い!」、おいらが自撮をツイッターTLに張りつけたらそんなことでツイッターが削除指定されたってところか。
だから、それが「正義正当」ってんなら、原爆投下されてケロイドになろうが天然痘で痘痕も笑窪になろうが、そうなれば自分や家族や有人や恋人などなどが肖像権削除して社会から抹消ごとな世の中で良いじゃん。
でもって「人間としての尊厳」「基本的人権&平等」も剥奪されることにしてしまうことにしとけや!。
だけれども、「醜い」と「醜悪心」丸出しに蔑むとしても、いざ「醜い」と非難される容姿になれば、自分が「醜い」と矛先を向けてたのはどこ吹く風で、自らの立場の尊厳を護ろうとする身勝手得手勝手「醜悪心」丸出しなのが人間ではあるが。
素顔が化物顔だけど、「化物顔の素顔」をTLから削除するのは差別ではないと?、ツイッターさん。
どこぞで少女が顔にスプレーかけられて全治三カ月とか、キモイならTLから被害を受けた少女の顔を削除しろよ→ツイッター。
「化物顔は不審者として警察逮捕で死刑にしろ!」
「子供が顔にスプレーかけられて全治三カ月」を、「健常者」の人達はどの程度理解しているのやら?。
「美容整形」とは違うんだよ。
「形整形外科」なんだよ。
おいら「目玉焼き(第3度だっけかの大火傷で上下目蓋が委縮して常時粘膜が露出してたことでついだ徒名)」は45年前くらいに植皮して治したけれども。
これが、てんで見栄えが良くなってなかったのはツイッターさんがおいらの自撮りをTLから削除指定したとうりのことで。
その手術を受けた翌年に、新しい植皮術ができたということで、この植皮術を受けていればもう少し見栄えは良くなったんだろうけど(あいにく、おいらはその結果を見たことが無い)、おいらの植皮術は剥がすと移植を同時にするが、新しい植皮術は月日をおいて「3回」しなければならない。
「醜い顔」の者(高校女子・・・小学女子だって病棟にはざら)には負担が大きい・・・黒痣・赤痣・奇形・火傷・・・健康・生活上問題も無ければ、保険は適用されない、今はどうか知らんが。
だが、問題なのは、「社会が醜いことを許さない」ことなんだよ。
身勝手な判断の者共は正義や同情を振りかざしてろ!。
広島市牛田新町小学校に不審者として警察に通報されてノータリン警察官に不審者対応されたけれども、おいらは(無職ということで職探し中だった)「顔が悪いけぇ接客業とかできん」、ノータリン警察官は「そんなことないですよ」、そのことで通報されたことで警察官の職務として職務質問してんだろうが、ドアホウ!。
すでにツイッターがおいら化物顔に実践しているように、「気持ち悪い・キモイ」は社会から抹消ごと。
全治三ヶ月の女子に今同情しても、やたらと傷が残って大人になってたら「キモイ」と社会から抹消されていろごと、ということで「全治三カ月」ではなく「全治一生」になりうるかも、なんだよ。
「全治三カ月」で治ったとしても、「キモイ」と社会から抹消ごとにして「全治一生」にするのは「社会・世間」だからな。
「正義・同情」振りかざして、そういう顔に実際に会ったら「キモイ」と糾弾しとけよ!。
おいら化物顔ノータリンは、"世の中絶望だらけ"だな。
ねぇ、化物顔はTLから削除の差別実践のツイッターさん。
「全治三カ月」で治ればよし、が世間・社会が「キモイ」と糾弾するなら「全治生涯」だよ。
おいら化物顔自撮がツイッター削除指定だが、大人がそうしているのだから子供同士で「キモイ」と糾弾(つまり「イジメ」)して当然じゃん。
それを「大人」が「子供のイジメ」と言う時には、「同情・正義・子供への憧憬・・・等々」とか自己満足でお茶を濁してきてるから、過去から未来永劫子供の「イジメ」に大人は対応できないことの繰り返しなんだよ。
「イジメ」ということでは、大学や大学関係者は「老害教授」に辟易されてしまえ!ごとだが、「老害教授心理学」とか向き合うことも無く、大学ではその人間の否定的な面とは向き合わないで、(マネーロンダリングをもじって)education launderingしているから、「イジメ」とか人間の否定的な面の理解なんて全うに考えもしようとしない、大学生の集団強姦事件とか、それこそ「全うに調査・面接」したのかよ?。
繰り返すが、世間・社会が「キモイ」と糾弾するなら「傷害は生涯全治しない」。
そうなった(つまり犯罪の被害に遭った)理由なんてカンケーナインだよ。
一目瞭然「キモイ」が今の社会の糾弾を向ける「正義・善良」だよ。
おいら化物顔はここんとこ小学5年くらいの女子に目をつけられてるから、「不審者」としてまた通報されるかも知らんが。
「キモイ」とか「好み・機嫌等々」的なことで人を糾弾・蔑むというのは「醜悪心」の露呈でしかない。
まぁ、どうせ人間は「醜悪心」を捨て去ることはできないのだから「クサレ」同様、「キモイ」となれば「人外と見なす」ことは繰り返されること。
それは、今回の事件の被害者の少女がどの程度回復していて、これから大人になって社会・世間から「キモイ」と糾弾されなければ、だが。
社会・世間が「キモイ」と糾弾するのが我こそは正義ごとなのだから、子供同士の間で「キモイ」と「イジメ」て何が悪いんだよ?。
「子供同士は仲良く」ふざけんじゃねーよ、子供は社会性が育ってないことで攻撃的に思ったことを言うもんだよ。
悲報、言っといてやるけれども。
おいらは重度の火傷の繰り返し手術化物顔だが、おいらの顔を見て「どこの病院(おそらく頭のおかしい者を隔離しておく)から来たんや!」という頭のおかしい者はそこら中にいる。
つまり「おいら化物顔を不審者と決めつけた地域社会の不審な住民は信用できん!」ということだ。

で、次だ。
一般的に「ひきこもりでない」人が「まとも」かというとそうではない。
おいらが中学校当時、自分がクラスとか馴染めないことで悩んだが、まぁ、そういうことはクラスの者共は知らないだろうが。
今時のSNSとか「価値観の共有」が価値があるということだが。
他に「つるむ」ということが友達とか集団になるのに必要な関係性だが、こういうことは「コミュニケーション」とはだいぶん違うものだ。
「コミュニケーション」というのは、一般論としては、「意志疎通」とか「あんうんの呼吸」とかとされているが、「折り合いのつかないところをどう折り合いをつけるか?」という技術や妥協という面も有る。
で「ひきこもり」と言う時には、そういうことに気がついて、自分にはできないということで「ひきこもる」という場合も有ろう。
が「価値観の共有」や「つるむ」ことを求めている・できている人は、そういうことに気がつく必要がなかった、気がつくことができなかった人達だと言えよう。
その関係性で考えるならば、そういうことに気がついて、自分にはできない、と思っている者に、そういうことに気がつく必要がなかった、気がつくことができなかった人達が「ひきこもりをなんとかしよう」、で「価値観の共有やつるむ」ことでの関係性を押しつけて「ひきこもり」が解決できるのかい?。
立ち返って「コミュニケーション」ということを考えた場合、「折り合いのつかないところをどう折り合いをつけるか?」という技術や妥協が必要ということなのだから、「価値観の共有」や「つるむ」というのはそういう徒労や技能をしたくない・してこなかった者、ということだ。
つまり「価値観の共有」や「つるむ」ことができない状況では「コミュニケーション」がとれない状況になるよりしっかたない。
つまり、「価値観の共有」や「つるむ」ことをしている集団に馴染めないとして「ひきこもる」ことを選んだとすれば、「価値観の共有」や「つるむ」ことをしている者が「ひきこもりをなんとかしよう」として「価値観の共有」や「つるむ」ことをしよとしてもコミュニケーション」は成立することは無いということだ。

少し前に、「健常者キチガイ」がいた時の職場の世話になった先輩に道端で呼び止められたが。
「私は旦那と一緒にいるのがストレスや」
知ったことか!、おいらはそちら70前のバーサンと話するのがストレスや!。
いや、おいらが広島市牛田新町小学校に不審者職務質問されたことで「ひきこもり」することにしているが。
ポストに「相談にのります」とか汚い字のボランティアかなんか知らん紙切れが入っいていたが。
大概そういうことは社会的に暇になった年寄がしていることで、年下の者からすれば汚くて融通の効かない年寄なんて近づきたくもない。
が、「年寄」からすれば、社会的に意味あることをしていると思いたい上に、話し相手ができれば鴨がネギをしょってくる恰好の暇つぶしだろうが。
たとえば、おいらは今でも実戦ロリコン(男の子でもするが)というかスーパーとかでチャンスがあれば乳幼児とかと非言語系言語でコミュニケーションとるが。
まぁ、乳幼児に限らないが、子供といる、ということは、「仲良くする」ということもだが、これは「寄ってきてくれる」ということだが、「側にいて警戒されない」ということにも注意してる。
それはつまり「ひきこもり」を相手にするとしても、「警戒している」とか「逃げていく」のはコミュニケーションが取れていないということだろうに。
つまり、「ひきこもり側のニーズ」に即していない上に、「ひきこもりをなんとかしようの側の一方的ニーズ」を向けても、それはまるで食い違っていることで、「ひきこもり」を深刻化させることこそあれ、解決の方法にはならないということだ。
このことで、「核家族化」の深刻な弊害の一つは、年寄以前に年の離れた者を身近にする習慣が無い。
その上で、「経済」が「価値観の共有」を価値付けしていることで、「価値観の違うこと」は論外にしてしまっている。
つまり、その二つを携えて「ひきこもり」に相対してなんとかできる、わけなかろうが!、ごと。
おいらはロリコン、だけでなく、化物顔ということで同年代の者には相手にされないことで、年寄とか相手にしてきたが、年寄と話をするってーのはそりゃーストレスフルだよ。
一方で、「年寄」は「喪失の時代」を生きていることで、自身の存在意義とか社会的意味とかで焦りまくっているわけだが。
いや、若くったって「自身の存在意義」なんて他者にはそれこそ他人事甚だ迷惑ごとの知ったこっちゃねーごとだっつーの。
何かをする、と言う時に、他の人のためなのか?、自分のことのためなのか?、そういうところを見失い易いのが人間、と言う視点がないことには「ひきこもり」のためにしているかどうか分からんごと。
人の気持ちを気にしている「ひきこもっている者」と、「ひきこもっている者をなんとかしようという人の気持ちの分からない者」、と言う関係もありうる分けだ。
いずれにしても、「ひきこもりをなんとかしよう」とする時には「社会に出てきてくれた」ことが評価としてあるということだが、そのことの吟味なく押しつけがましくしていることが継続し続けているなら、実害の方が多いということになろう。
それでも、人は「肯定的な意味」に執着していたいのだから、「ひきこもり」の側の了解の有無もなく「ひきこもりをなんとかしよう」と執着し続けることで「ひきこもり」をことさら深刻にしていこうということもありえるわけだ。

「顔が悪い(化物顔)のだから頭が悪くて考えも無い」のキチガイ論法に往生こいたが。
人間は違和感や否定的なことがあると、頭が悪いとか頭がおかしいとかみなしたいもの。
だけども、そういう否定的な評価を向けられればブロックごと。
いや、頭が悪いとか頭がおかしいとか言ってくる者に、「おまえの方が頭が悪いとか頭がおかしいんじゃろうが!」と言い返せば頭が悪いとか頭がおかしいとか言ってきた者は鶏冠に来るだろうに。
その鶏冠に来るような評価で「ひきこもりをなんとかしよう」と頭のおかしいことをぬかしてろ!。
だいたい、「頭が悪い・考えが無い」とすれば、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」ことにできると思い込みたいのが人間の常なんだよ。
だけど「頭が悪い・考えが無い」とすれば、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」わけではない。
フツーのこととして、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」とする者なんて誰しも身近にしたくないだろうに。
それこそ「キチガイ」のような人でも、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」と思い込んでいたいんだよ。
だけど、そう思い込まれていたなら、関係上深刻な問題になったり、その思い込みどうりにならないことで憤怒したりするわけだ。
「知的障害者」というかそういう類の人であっても、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」ことにしたいわけだが、そんなん「健常者」側からしてみれば、まったくもってお話にならないわけだ。
それを「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」としたいとかできるとか思い込んでいたいのが人間っちゅうもんだ。
だけど「頭が悪い・考えが無い」とすれば、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」としたいところで、その思い込みが、「できる」とか「正しい」分けではないところで関係性が成り立たない。
まぁ「枠組み」の中で牛耳れる・逃げられない状況ではできるわけだが。
なら「枠組み」から逃げ出して「ひきこもり」しようぜ!。
そんな、「頭が悪い・考えが無い」とすれば、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」ことにできると思い込んで言いなりにしたいが「頭が悪い・考えが無い」として「主導権がある・決められる立場にする」と思い込まれて言いなりにされるのは拒絶!、という食い違いが役に立つか!。
でもって、「頭が悪い・考えが無い、頭がおかしい」というのは、短絡に「自分とは違う」という思い込みで、必ずしも論考した評価では無い。
人により得意不得意はあるし、経験や知識が違えば物事の考え方ややり方も違う。
その違いを排除したり周囲と同じようにするように矯正するようなことをすれば、ますます「ひきこもり」を強めるからどんどんしろよ!。
だいたい誰しも自分がしていることは「それが良い」と思ってしていたいし、否定されるのは拒絶ごとだろうに。
それを、「ひきこもりをなんとかしよう」という者は「これが善意で正しいこと」と「ひきこもり」に矯正を強制してろ!。
で、繰り返すが、「価値観の共有」や「つるむ」のはコミュニケーションでは無い。
そのことで、集団や社会に違和感があるとした「ひきこもり」を誘い出すことはそもそもできない。
おいらは若い時には70才前後のお年寄りとも話をしていたが、そんなもん「価値観の共有」とか「つるむ」ことで年寄と話ができるかー!。
もちろん子供には子供の話がある。
小2女子に、「これ知らんのん、おっくれてるー」と言われたが、さりとて子供の流行りに大人が合わす筋合いでもない。
実際、「価値観の共有」や「つるむ」ことをしなくても子供達からの人気を取っていた。
つまり、「価値観の共有」や「つるむ」ことをしている人はコミュニケーション能力が劣った人で、「価値観が違う」「ふだんつるんでない人」とはコミュニケーションがとりにくい、という場合すらあるということだ。
で、自分事とすれば、可能性としてこれから仕事を辞めるとか、年取ったことで社会から爪弾きになりだすクラスメイトとかから「仲良くしましょう」なんてそれこそ爪弾きだ!。
おいら化物顔はコミュニケーション能力が高いことで、若いネーチャンとか歓談しているが、振り返るに、クラスメイトなんてそれこそ、いや、今まで社会に出て会った人なんて、ほとんどコミュニケーション能力の高い者なんていない。
「枠組みのある中での価値観の共有・つるむ」ことをコミュニケーションとしているのが常。
が、「年を取る」つまり、年寄になってしまえば「価値観」はそれぞれの拘りになり、つるめる人もいなくなっていく(死ぬ・認知症・痴呆症・寝た切り・・・自分もなれば家族もなりうることでそれこそひきこもりにならざるおえないとか、状況によっては住むところを引き払わなければならない)ことで「違う者」を相手にしなければならないんだ。
同様に、知的水準も落ちていくことで、すること・できることも減少していく。
つまりそれだけ「価値観の共有」も「つるむ」ことも難しくなるわけだ。
が、おいらは「ひきこもる」にあたり、年を取ってもできることを準備してきたことで、当面「ひきこもり」をしていても残りの人生の時間潰しには困らない。
で、そういうところで、じゃぁ集団の中にいて「合わせる」ということだが、ちょっとまて。
今時「気が合う」ことが条件だろ?。
「合わせる」はストレスやろ?。
で、集団となると「集団を乱す」「変わっている」が問題になるが、それこそちょっとまて。
その「集団を乱す」「変わっている」ことが許せない・寛容になれない人の方が「合わせる」ことができないからだろうに。
「集団を乱す」「変わっている」ことが許せない・寛容になれない、つまり「合わせる」ことができない者の集まりに入るということは、ストレスそのものということで、しかも年を取れば、「合わせる」ことがより困難になるのだから、「集団を乱す」「変わっている」ことが許せない・寛容になれない者と関係性を持つのはストレスフルになりうるということだ。
会社とかで働くには、「集団を乱す」「変わっている」ことが許せない・寛容になれない、は必要な人間性だが。
「集団を乱す」「変わっている」が許せない・寛容になれない人が、それを良しとした会社などから離れて、多様な人間が集まるとした場合には、「集団を乱す」「変わっている」者は煩わしい。
となれば、「集団を乱す」「変わっている」が許せない・寛容になれない人、が「ひきこもり」になりうることも想定できるし、そうなった場合、多様な人間が集まる中に引き入れようとするのはその人にとってストレスフルなことではないのか?。

で、見下す・上から目線で「わしがおまえにあわせてやっているんだ」という「健常者キチガイ」がいたが、こちらが合わせてやっているのは分からんだろうに。
つーか、「合わせてやっている」なんてな見下す・上から目線ごとで、されていると意識したら不快感・腹立たしさでしかないだろうに。
で、おいらはというと、化物顔は忌避してやる、ごとで同年代は総じて相手にしてもらえなかったが、一方でおいらは子供や年寄は相手にしてきた。
それこそ子供なんて、「合わせてやっている」なんてことすれば嫌われれて当然だが、寄ってたかって遊んでくれていたので楽しかったつーところ。
ということで、「化物顔だから相手にしたくない」とかの輩は「合わせる」ことが苦手なことが想定できることで、年を取ったら対人関係に苦労することが想定できるちゅうーところ。
おいらは子供と仲良くすることができていたことで、そのできていたことを「喪失の時代」でどれだけ長く維持できるかだな。
そうすれば、楽しい老後が長く続けられるつーことだ。

一方で、地域社会は高齢化と、「価値観の共有・つるむ」者は地域社会からドロップアウトしていることで、地域社会は構成員の確保ができなくなっているわけだ。
で、「ひきこもり」されていては地域社会が運営できないから「ひきこもりをなんとかしよう」じゃねーだろ!。
「価値観の共有・つるむ」者が地域社会の構成員から逃げ出している方が問題だろうに。
まぁ、逃げ出していなくなっている者より、「ひきこもる」ことでそこにいる者の方がとっ捕まえやすい、ということはあるだろうが。
まぁ、双方問題だろうが、いずれにしても「社会」側が問題理解ができていない。
いずれにしても、「ひきこもり」を決め込んでいるおいらは、同年代以上の者などはなっから相手にしたくないし、年下の者にあれこれ言われても聞く関係性もなければ筋合いでもない。
大概の人間は、「人を相手にする」ことがそもそも理解になくて「主導権」と「自分が決める」ことに執着したいだけ。
それは「ひきこもり」を選んでいる者も同様のこと。
それだけのこと。
一部地域とか、仲良しグループとか、確かに集まって仲良くできる人はいるが、そんなんホントーに一部の年寄。
たいがい脳・身体の劣下で対人関係できなくなる、ということで、おいらは「ひきこもり」して一人遊びできるように若い時から準備してきた。
20代の時見上げた年寄の年においらはなってるつーところだが、現状目標として来た状態にはいる。
「合わせる」「面白く思う」というのは、年を取ると共に脳細胞が死滅していくことで、「できる」ことが減るだけでなく「面白いと思う」こも減少していく。
20才の頃見上げた年寄りの面白みの無さに比べれば、おいらの脳味噌はよく頑張ってくれていると思う。
その頑張ってくれる脳味噌が、いつまで頑張ってくれるかだが・・・。
これをどれだけ継続できるかだ。
寄る年波には勝てんてところ。

ヒデェーことを言うと、中学の同期学年が70人ちょっと、ということで、50才からこっち年二人づつ死んでいくものだと思っている。
もちろんその中においらも入っているが。
でもって、おいらのクラスメイトとか同年代は、おいらが20代の時に見上げた年寄同様年寄じみていると思うとうんざり・・・・会いたくも無いつーの。
ま、棺桶に片足突っ込んでる年になったわけだから、その内両足突っ込んで焼かれれば良い。
もちろんおいらも同様だから、独者は短命ということであと10年内外とかで死んでることだろう。
化物顔を忌み嫌い蔑んで遠ざけた他人共の年老いていく醜悪な容姿など見たかないね、今までどおり化物顔忌み嫌い蔑んで遠ざけてろ!。
死んでいく者より、いかに若い人と仲良くしていくかだよ。
だいたい、劣下している者を相手にしたって面白くねーじゃん。
「顔が悪い(化物顔)から、頭が悪くて考えも無いとみくだしてやる」の脳味噌腐敗論法者相手にせずに、子供とか若い素直な者と、いかに長く相対していられるようにしていくかだな。
どがんゆ~たって、年寄じみて老け込んでいくだけの話するより、夢も希望もある話が良いに決まってる。
「年を取ったから仲良くしましょう」だの、まして、「化物顔だから忌み嫌い蔑んで遠ざけていましたが老いていくから助けてください」などとは聞く耳持たん!。
年老いて醜悪な容姿になったからには社会から見捨てられていろ!。
醜悪な容姿になった年寄は「ひきこもり」になってろ!。

ついでのことだが。
「顔が悪い(化物顔)から、頭が悪くて考えも無いと見下してやる」の脳味噌腐敗論法にはおうじょうしたが。
これがだいぶん前に中学校とかの同窓会するとか案内がきたときの話。
案内文に「・・・がんす」って広島弁使ってるんだが、実家の隣の故奥さんは常時使われてたが、こいつが使ってるのは小中の間聞いた記憶が無い。
つまり、みょーにへりくだっている、一方でそれなりに噂を聞いていたのでカチンときた、ので、近況とか自己紹介的に書き込む欄に「人間以下でしたが、人並みくらいには生きています」と書いといた。
あとから「ほんまでっかTV」で、同窓会をするのは自慢話をしたいから(違ってるか?その類)と聞いて、「こいつが~」と膝を打ったが。
まぁ、求心力のある奴だとは思ってなかったが。
で、もう一人発起人だか一緒に段取り付けているのが、福祉系のとこで働いているとかのように聞いていたのに、その参加連絡文に「個人情報」を乗っけているのがおいらには怒り心頭気味。
そんなもん、同窓会の席で言い合うなら仕方ないが、必ずしもだ誰の目に触れるか限定できない配達文(一応封書だったが)に載せることではないだろうに。
「自慢話」をしたいと浮かれていたとしか思えん。
で、こいつは要領は良かったのだろうが、今となって記憶たどるのにクラスとかで交友関係が良かったとは思えんが、他のクラスメイトはどう思ってるのだろう?・・・・まあどーでも良いか。
で、同窓会の連絡文には「人間以下でしたが、人並みくらいには生きています」の記載は無かった。
ということで秒殺ゴミ箱へポイ。
で、こいつが連絡くださいということで、同窓会当日電話かけたんだが、案の定おいらと話をしたいと言う奴はおらんかった。
つまり、「会いたいと思っている奴はいない」と確認するために、この福祉系の奴の携帯にかけた分けだ。
「人間以下でしたが、人並みくらいには生きています」の記載は無かったことと、「会いたいと思っている奴はいない」と確認したことで、今後同窓会するとしても行かないこと確定。
「自分が子供の頃にはイジメは無かった」とか大人になれば、子供の頃のことは美談化、醜聞は忘却ごと。
これで大人が「子供のイジメを無くそう」、無くなるわけないじゃん。
イジメ被害にあってる子供は、今の「大人がする、子供のイジメ談義」はこの程度のことだと思い知っとけよ!。
で、「自慢話」って、言いたいことだが、聞きたくもないのがたいがいだろうに。
「人間には、認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」ことだろうに。
当然のことだが、「自慢話」は鼻高々したいわけだ。
一方で、聞く方にしてみれば、煩わしくて頭の良くないことをしている、と判断するもの。
有名人にでもなればもてはやされるだろうが、有象無象の無名な者が自慢話をするのは失せろ!ごと。
だけれど、「自慢話」に執着すると、弱っちい者が繰り返しすればウザイと「イジメ」対象ごと、で強い奴がすればショーガナイごとだが、「自慢話」を傷つけられたら攻撃ごと「イジメ」ごと。
これを、会社とか大人社会の組織とかでやってみんさいよ。
ときにドンダケー凄惨・非道なことになるか、思い知らされている大人はいくらでもいるだろうに。
繰り返しごとだが、つまり大人社会を見渡して、「子供のイジメ」を考えなければお話にならんし、それをしてきていないから、大人は子供の「イジメ」に無力なままの繰り返しの「子供のイジメ自殺」ごとだろうに。

で、「自慢話」と対で「偉そうに」だが。
これは人間は「自分が決める存在」であることの知的生物としての下劣さの誇示。
「偉そうに」というのは、先入観とか固定観念を向けたいというところで、「違う」ことへの攻撃。
「偉そうに」と言う時には、人間性・個性・能力等々を決めつけているということで、その「型枠」に合う合わないといっているわけだが、「あんたが他人の「型枠」を決める立場にあるんかい?」ごと。
だけれど、人間は「自分が決める存在」であることで、「自分が決める」ことができない・「自分が決める」こととは違う、ことが腹立たしさや攻撃性になるわけだ。
ツイッターとかSNSで「画」とかが攻撃されるのは、「自慢話」のように理解することと「偉そうに」つまり「自分が決める」ことができない・「自分が決める」こととは違うことの相乗効果で激しいことになるといったところだ。
で「顔が悪い(化物顔)から、頭も悪くて考えも無い(あるいは考え方がおかしい)」とか、「型枠」だけではなくて、そこに確固たる思い込み、しかも否定的・不当な決めつけが強固に有ることが問題。
すでにどこぞかで愚痴垂れているが、「型枠」を嵌め込む云々などどーでもよいことでその確たる思い込みを向ければ、自己主張がとおるとか、相手の存在や主張を撥ね付けられる、とかしたいわけだ。
実際、「その現場」、「イジメ」もだが、原発反対とか「主張」のあるところではこういうことはフツーにあることだが。
だが、現実には相手は存在する上に、思い込みは存在している相手とは必ずしも関係無い上に、「型枠」に嵌めることがナンセンスなわけで。
当然のことだが、これは子供世界では深刻な「イジメ」になりうるし、大人社会の組織や対立になれば非道で凄惨にもなりうる分けだけど、大人は言わないわけだ。
が、それも集団の中にいて、多少なりとも力があるという前提なだけで、よぼよぼと年を取って「偉そうに」とか言っても、誰にも相手にされなくなる惨めな者、ということになる。
でもって、その「言う立場」にするときには、なんらかの言う立場を捏造するわけだ。
言う相手に対して相応の「正義」とか「道徳」とかの「力語」をかざすわけだ。
だけれども、とってつけた「立場」なんぞ張りぼてで、真っ向勝負になれば遁走・脱兎のお笑いごと。
だけれども、人間は「自分が決める存在」であることで、その関わるとした物事は「自分が決める」としたいことで、「自分が決める」としたことと違う・否定的なことには否定・攻撃せずにはいられないつーところ。
だけれども、「型枠に嵌める」ことが間違いであることに代わりはない。
もちろん「宗教(イデオロギーとか国家思想etc・・・)」の「型枠に嵌める」も子供がする「型枠に嵌める」・・・状況として「イジメ」も同じこと。
の割りには、「型枠に嵌める」ことをされると拒絶ごとだが。
結局のところ「人間は、認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」・・・「宗教」は特に他の「宗教」とはそうしなければならない立場だろうが。
「イジメ加害者脳はイジメ被害者にもある」、つまり許せない・寛容になれないのは「子供の時のイジメ」で深刻な問題であるが、年寄になっても深刻な問題になりうるということだ。
「顔が悪いから、頭が悪くて考えも無い」の「・・・だから、・・・だ」というのは、その間の理由とか関連付けが無いとか破綻ごとだが、考えるのに、「・・・だ」とかの攻撃性を向けたいだけで、そもそも「・・・だから」が取ってつけたことではないのか?。
ということであれば、ツイッターとかSNS上で「・・・だから、・・・だ」という主張には、質問&詳述を求めたり、否定をぶつけたりするというのは無意味ごとだということだ。
それはつまり日常においても。
だけれども、自他での行為行動を眺めてみれば、「自分でするから正当だ、人に押し付けるから正当だ」つまり「自分がしなければならないのは不当なことだ、人がしているとすれば不当なことだ」の勝手の良い使い分けをするということだ。
つまり物事が分かっている・適切に評価できるなら、「自分への評価と他の評価が一致する」ものでなければならないが、「人間には、認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」ことで「自分でするから正当だ、人に押し付けるから正当だ」つまり「自分がしなければならないのは不当なことだ、人がしているとすれば不当なことだ」の勝手の良い使い分けをするということだ。
こうなると、宗教に限ったことではないが。
まぁ「子供じみている」とは言えるが。
いずれにしても、人間は「自分が決める存在」であることで「自分が決める」ことが優先事項であって、「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」ことを詳らかにするなどとは論外どころか撥ね付けるわけだ。
そんなん話し合いも屁ったくれも無いごと。
つくづく人間は最も下劣な知的生物でしかないごと。

で、おいらは「年を取る」ことを中学三年からかなり悩んで生きてきたことで、「老化」ということの対応早くからしてきた。
2~30代頃には職場が年寄ばかりだったが、その劣下していく様にはうんざりしたが。
ということで、すでに愚痴垂れているように、自分はそうならない方法を模索して、劣下している年寄と比較して、今のところ年老いていく劣下は遅延させているのに成功しているかな、と。
だいたい、同年代ということでは、もうすでに認知症・痴呆症・アルツハイマー・癌・寝たきり・介護の年になっているわけだから、中学のクラスメイトとかに会ったってろくな話はないうんざりごと。
おいらとて、化物顔+腰めげで、さらに場合によっては家族の介護をせにゃならんかもしらん。
そんなんで、人事の話なんかどーでもええわ。
もう残り少ない人生だから、メーンドクセー人間のメンドクセー話なんか相手にせず、一人で楽しめることをしていた方が面倒臭くなくて良い。
孤独死まっしぐらってところ。
「化物顔」、要は、「助け(つまり負担をせにゃならんような)がいるような者は相手したくない」ということで皆遠ざけたかったわけだけど、遠ざけておいて助けを求めて化物顔に頼みに来るなんてふざけたことするんじゃーねーぞ!。
若い時には「化物顔の人間以下」と見下して言いなりにできるとか思っていただろうが、年取ると劣下して力が無くなると、「善人ごっこ」で目減りを減らそうとか求めるものは、自分で考えて求めようとする頭が無くなったことで下手な戦術をするわけだ。
「善人ごっこ」とかは「既知」つまりよく知った間柄ですれば良いことであって、知らない間柄で振り回すのは「詐欺師」だからな。
「善人」とかその類の言葉振り回してきたら「あんたは詐欺師か?」と聞いてやる!。
で、老化して劣下すると、自分に力がなくなっていることで、愛だの優しさだの道徳だの社会常識だの「外圧」を印籠のごとく振りかざして言いなりにしたいというのは予測の付くことだが。
「化物顔は忌み嫌い遠ざける」ことがおまえらの愛だの優しさだの道徳だの社会常識だったんだろうが!、と断固撥ね付けてやる!。
「助けを求める」ことの厳しさを思い知っている化物顔に、助けを求める劣下して力が無くなった者が甘ったれるんじゃーねーよ!。
だから、老後の人生を歩むためには、若い時からの人間関係と人間性がいるんだよ。
「価値観の共有」だとか「つるむ」ことでろくに人間関係も造っていない、人間性も良くない、ということで、世に孤独死が溢れて当然ごと。
どこぞの国の孤独死の抑制に向けた新制度なんて鼻で笑ってやる。
要は「個人の人間関係と人間性の問題」。

繰り返し愚痴垂れているが、脳味噌の劣下はすでに幼少期からある。
そういうのがいくらアンチエイジング頑張ったところで老化には勝てん。
山椒小粒の姉御(66才)がどんどん劣下している。
本人自覚だが、若ければ物事が他と平行してできていたのに、一つのことすると他がおろそかになる。
昔は気にしていたことが気に止められないとか、落ち度を注意すると怒られたり。
「できる」ことが当たり前で生きていたところでげんなりごと。
これが今からできないことが多くなっていくと思うと暗澹たる思いだが、しょうーがない。
人間が時として非合理的な行動をする←これは的を射ているようでそうではない。
「できる人」からすれば「できない人」は非合理的な行動をしているとしか思えないが、人はそれぞれ知的水準があり、得て不得手も有る。
ということからすれば、「できることを得意げにする」と「不得手なことを咎める」ことをするというのは不愉快なことだ。
誰しも「不得手・下手」ということで貶められたくないものだが、「不得手・下手」ということ責める・咎めることが、「人間の非合理的な行動(判断や認識や理解)をする」ということになる。
が、大学関係だと、「できる人」が集まり「できることを良しとする」ことに価値を求めることで「できない」ことの理解ができない。
一応「寄り添う」とか「目線を合わせる(だっけ?)」とか、対処法をまことしやかに教鞭とっているらしいが。
「(あえて差別的言葉を使うが)知恵遅れ」とか生まれながらに「できない人」は「できる」ことを求められる社会であることで生きにくいことは重大なことだが、「老化」という「できる」ことの「劣下」によって「できない」ことが増えていくのは、誰しも避けられないことであるにも関わらず、「できない」ことに悔しさを持ちながら「できる人」に理解してもらえず、さらには「できる人」から責める・咎められてしまうことの悔しさは理解されることは無い。
「不条理」というのもそうで「できない人」に関わらねばならなくなってしまうのは「できる人」には「不条理」だが、「できない」状況というのも「できない人」にとっては「不条理」そのもの。
世情が「できる」ことを基準にしていることで、「できない」ことは責める・咎めることになるが、老化により劣下してできなくなるのは順番ごとで、人間は「できない」ことの悔しさを噛み締めていれば良いごと。
おいら自身の今後のこととしては、老化すると劣下して力が無くなることで、愛だの優しさだの常識だの道徳だのといった外圧に頼って人を言いなりにしてやろうというのが世情のやり口だと想定しているが、今まで爪弾きにしていた者共には関わらない、当然。
関わるというのは「信頼関係」があることでするのであって、爪弾きにする、つまり、おまえなんて信用無いとしていたのを信用してあげましょうって掌を返すようなことをして、なんで信用できように。
化物顔を一目瞭然に不審者に決めつけていた娘や、相談を受けて警察対応にまでさせることになた娘の親が年食って助けがいるようになったから「化物顔でも信用してあげますから助けてください」、そういうのを「常識が無い」「厚顔無恥」って言うんだよ!。
自分が生きているということは、自分一人では生きていけないということで、どこで人の助けがいるか分からないから、爪弾きとかにしていると困ったときに助けを求められないとかになる。
おいらは今となっては長生きはするもんじゃないってことで、何か有ったら死ぬだけのことで、他人に助けを求めるのも他人に助けを求められるのも筋合いも無いし知ったこっちゃ無い。
「ひきこもり」して孤独死に向けてレッツゴー!。
すでに書いているが、平均余命からすれば、中学の同期学年も50才も過ぎれば毎年2人は死んでいる勘定で、もう10人くらいは逝っているかなぁ?。
つまり、もう死に逝くばかりの昔のクラスメイトと関係性持っても意味無いじゃ~ん、ってところ。
だけれども、年を取ると、と言う前に、自分達が若い頃には年寄を爪弾きにしていた、ってところで、若い者には相手にされないのが自明ごとだけど。
現状、おいら自身はあちこちで子供や若いネーチャンが話し相手になってくれる。
これをこれからどれだけ継続できるかだな。
自慢なんかするようなら嫌われるごとだが、要は「自己コントロール」ができるかどうか。
「自己コントロール」するためには「自己観察」が必須だけれども、老化するとこれがまるでできなくなる。
性のマイノリティでもいっしょ。
「なんで~」「それは違う」とか自分の考えにしがみついているだけの者共相手にしても時間と労力の無駄。
「自分の考えでなければならない」頑固年寄なんか誰しも相手したくねーよ。
性のマイノリティだって頑なに「自分の考えでなければならない」。
「人間は、悪い不当なことと自分は違う、という結論をもって考えようとする」けどね。
「炎上」とかTLの攻撃系の程度の低さと言うか、「自分の考えでなければならない」「自己コントロール」「自己観察」等々のことを参照すると、こういう連中は酷い老後をおくる者になるとしか思えん。
おいらは化物顔だけど、そのことで「若い時」にどんなにあがいたって「人並み」には扱われない、ということで、「老後」を勝負と定めて準備してきた。
一応、「準備」が功を奏しているであろうということで、1961年生まれつーか、その周辺の者共より「若く」生きていると思う。
「良い男」とか「成功」とかは若い時には必要だけれども、「年老いた」と言う時には「金」や「地位」にものを言わすとしても、たいがいの「凡」は寄る年波で他の者からは嫌われるもの、と若い時には見ていて、一般的に年取ってヒ~ヒ~。
「年取って人と仲良くできる」人、というのは%テージが低い、ということで老夫婦と言えども年食って仲良くしていられるカップルも多くはいない分けだ。
しかも、前から言っているが、おいらの中学の学年同期で言えば、50も過ぎれば毎年平均二人は死んでいる公算。
長生きすればするほど、知っている人が少なくなっていく。
で、年を取れば劣下していくことで、自分も自分以外の者も、人間性もコミュニケーション能力も劣下していくことで、新しく親しい人をつくるというのは困難になっていく。
ということで、年を取って劣下していくのをいかに遅らせて、若い人と仲良くできるか?、ということが老後の人間関係と言うか生きることの豊かさになるわけだ。
当然のことだけど、若い人の「若い」ことに「年を取った者」が合わせられる分けはないし、合わそうとすることが違和感となって年寄る加速になる。
コミュニケーション能力は、「話す」ことばかりではない。
「引く・退く」ことも必要なんだけど、年取って劣下すると、これが分からなくなるから若い人から敬遠されてろ!、ごと。
「年寄と話をしよう」と言うことが若い時には必要で、「自分には関係の無い話を自分のペースでは無く聞く」という訓練(教訓?)が必要だ。
ペースは年寄は遅く子供は速いが。
かつペースを合わせて受け答えをする。
が「自分のしたい(求めたい)話題を自分のペースでする」たって、年が違えば相手にされるか!。

この「頭が悪い」「頭がおかしい」ということは、現状の社会では意味があることであってはならないはずだが。
知的障害者、精神障害者、ダウン症、自閉症、アスペルガー・認知症・痴呆症・・・並べたら切りがないが。
でもって、長生きすることになれば知的水準が落ちていくことで「頭が悪い」ことになる、だけでなく痴呆症・認知症・アルツハイマーとかになれば「奇行」とか「頭がおかしい」行為行動・言動になる。
すなわち、社会の中で生きていれば、「頭が悪い」「頭がおかしい」者を身近にしなければならない場合もあり、また避けられないことにもなりうる一方で、自身もそうなりうる可能性があるということだ。
よって、「頭が悪い」「頭がおかしい」ことを責めるというのは現実社会では公にあることはよろしくないということだ。
むしろ、「頭が悪い」「頭がおかしい」と問題にしたり責めたりしてる方が「頭が悪い」「頭がおかしい」ことではないのか?。
もちの論で「頭が悪い」「頭がおかしい」人はいるが、「頭が悪い」「頭がおかしい」と問題にしたり責めたてたりすることは、自己肯定観とか安全の確保の破壊とかで怒り爆発でより「頭が悪い」「頭がおかしい」状態に方向付けさせてしまうことらしいが。
で、「顔が悪い」から「頭が悪い・頭がおかしい」ってのはなんなんだよ?、そこにどのような関連があるんだよ?、ってのが「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」人間が知的生物としてもっとも下劣な証左だが。
「・・・だから、・・・だ」というのは一般的な人間の思考ルーチンだろうけど。
大学や大学の人間理解は当て糞が無いところで言えば、心理学、ユング派から見てフロイト派は?、逆にフロイト派からみてユング派は?と言う時に、論旨も無く「・・・だから、・・・だ」というのはあったはずだ。
「師匠の受け売り」だっけ?、とか自身の学問の態度とかで「・・・だから、・・・だ」というのはあったはずがeducation launderingして考えたくも無いだろうけど。
だけれども、「・・・だから、・・・だ」という論法は、子供の「イジメ(福島から来たから放射能に汚染されている・・・だっけ?)」から国家・人種・民族・宗教・イデオロギー・・・人間が考えるところでなんにでもその論法はある。
だけれども、「・・・だから、・・・だ」の「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」のはその関係性の論旨も無かったりこじつけだったりしてまともなことじゃないじゃん。
で、これは「人間は、結論を持って考えようとする」つまり「先入観・固定観念」が先で、それを正当化しようってだけのこと。
正否はまるで問題ではない、「先入観・固定観念」ありきで、理由なんて考えたくないということ。
で、すでにどこかで愚痴垂れているけれども、「障害者に理解を」は、身近にしないときには綺麗事で「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」ことで、身近にすれば「・・・だから、・・・だ」と「先入観・固定観念」が露になるごと。
だけれども、education launderingして考えたくも無い大学や大学関係は人間理解が当て糞が無いことで、「・・・だから、・・・だ」と荒ぶれて振り回す「老害教授」に蹂躙されてれば良いじゃん。
そんだけのこと。
「老害教授」に蹂躙されるのが嫌なら、「・・・だから、・・・だ」を研究して荒ぶれて振り回す「老害教授」に対抗できる研究して、それを公知周知してくれや!、でないとこちとら「顔が悪い(化物顔)から、頭が悪くて考えも無いとみくだしてやる」に往生させられるだけや。

で、「否定的な決めつけ」は年寄の専売特許だろうに。
それを子供の時に過剰に決めつけているというのは、子供の時から脳味噌が老け込んでるからだっちゅうに。
「若い脳味噌」なら柔軟性があるよ。

以前ツイッターTLで、福島避難民生徒イジメで、「イジメ」に遭った生徒が高尚なことを言っているのは親がそういうことを吹き込んだからだろう、と揶揄してい野郎がいたが、事実関係知らないじゃん、回りの者は。
でもって、子供に危害が及んでいるとすれば護ろうとするのは親として当然じゃん、親は子供が「イジメ」に遭っても口出しするなって?。
「知らないことを決める・決めつける」ことがいかに愚かさの丸出しかだよ。
だけれども、人間は、知らないことでも決める・決めつけたいんだよ、大人・大人社会であろうが子供であろうが、で、「知らないことを決める」:ということでは、ホリエモンの待機児童の口出しだが。
若い時にはおいらの部屋が近所の子供のたまり場になっていたが、社会情勢が変化した後々で思い返してみるに、そら恐ろしい状況であった。
部屋に子供を引き入れることがどれだけ恐ろしいことかは、今の社会情勢や事件を参照すれば自明ごとだ。
ムチムチの小6女子とか一人で遊びに来てくれたりもしていたが、現況アウトやからなぁ。
外で小3女児と遊んでるときに怪我をさせてしまったのに、親御さんに温厚に接してもらったりして助かったが。
つまり、「子供を預かる」というのは「社会的重責を負う」ということだ。
それを、軽々しく責任の軽い(つまり専門的知識も無ければ訓練も受けて無い)人を傭えば良いとか、というのは「知らないことを決める」というか「知らないことを知っていると言うのは妄想だ」ごと。
だけれども、人間は、「知らないことを知っている」ことにしたいし、「知らないことでも決めたい」ことで問題を噴出させて深刻化させるわけだ。
「あれが、ああいうことをするなんて」と決めつけて(「決めつけてしまう」「決めつけたようにしないから攻撃する」ことが「イジメ」の実践)「イジメ」てやろうぜ!。
これが大人にしても子供にしても「イジメ」があることの常態だよ。

「イジメ」というところで「孤独死」には納得できんところがある。
おいら化物顔は何人か出会ったけれども「健常者キチガイ」。
要は「不出来」な人間性だけれども、そういう者が見下して言いなりにしてやろう、つーか不出来だからこそ言いなりにしなければ自分のことができないというか。
「不出来」なというのは、社会性やスキルが劣っているということだが、が、当人は自尊心が強いと言うか、自分の能力や周囲の評価を理解しようともせず、とにかく誇大に自己評価を持ちたい。
で、「不出来」な存在であることで、見下す者を求めて言いなりに使いたいわけだ。
で、これが年老いるともともと自分のことすらできてないことがよりできない上に、周囲も年老いていることで「不出来」を補ってもらえなくなるわけだ。
当たり前のことだが、「不出来」なのに自分は尊大だと誇示して、他を見下して言いなりにする、のが年寄になるわけだから、そんなもん煩わしくてメンドクセーから相手にしたくない、ということで「孤独」になるわけだ。
まぁ、それでも「うまいことやる」とか「運が良い」ことで、「孤独死」にならない者もいるのも事実だが。
だけれども、「不出来なのに自分を尊大に思って他を見下していいなりにする」のは孤独になって当然のところを、「全人格的ケア」とか支援しなければならないってのはなんなんだよ?。
「不出来」なところを「他の人を顎で使う」ようなことをしてきたから、年寄になってますますできなくなった、当然じゃん。
で、その人が顎で使ってきたように、顎で使われてあげましょう、ってか?。
ということなら、つつましやかに生活しているよりも、傍若無人、人を虐げてでも好き勝手に生きた方がいいぞ、ということだぞ→イジメ被害者・虐げられてる人達よ。
「そんなことはない」とか「なんでそういう話になるんだ」というのは「不出来なのに自分を尊大に思って他を見下していいなりにする」のは置いといてとか言わせないことにして、で、おいらは「健常者キチガイ」とかに虐げられて来た事実から「そんなことはない」とか「なんでそういう話になるんだ」と否定されるのはお話にならないごとだが。
「人間は、都合が悪くなると、事実・現実をも無視否定排除しようとする」のだから。
ということで「不出来なのに自分を尊大に思って他を見下していいなりにする」者がでかい面して幅をきかせて「イジメ」とか虐げるとか野放しな社会で良いんだよ。
どのみち、福祉なんて行き届かないのも世の常だから、たいがいの「不出来なのに自分を尊大に思って他を見下していいなりにする」者は「孤独死」していけば良い。
これ、他人事でもないんだよなぁ、「できない」ことに対する世情の非情さときたら・・・。
悲報、「不出来なのに自分を尊大に思って他を見下していいなりにする」者はここそこで声を荒げているのだから、福祉にも声が届くだろうが、つつましく生きている者は声を上げるのもつつましくしてしまうことで福祉の手も届かずということもありえる。
つつましやかに生活して声を上げないばかりに「孤独死」することになった、で良いじゃん。
結局のところ、「不出来なのに自分を尊大に思って他の者を見下していいなりにする」傍若無人に人を虐げて生きていく方が生きやすい社会ということだろう。
「不出来なのに自分を尊大に思って他を見下していいなりにする」のを見習おうぜ!。
どの程度こういう輩が世間にいるかは知らないが、1000人に数人はいるはずだと思う。

「わしが言うようにしたら良いように言うたるで」←あんた何様のつもりだよ?。
こういう輩は、人にそう言ってやらすのがその人のため社会のためとか思っている節があるが。
意訳をすれば「おまえは言いなりになるべきで、嘘八百・作り話で満足しなければならないんだ」ということ。
だけれども、じゃこの人に「わしが言うようにしたら良いように言うたるで」と言うてやってみ。
当然聞きやしないから。
「人間には、認知・認識・理解等々には断層(ズレとか隔たり)がある」ことで、共感も無ければ自分がしていることの行為も意味も、理解不能。
で、こういう輩は、「人を言いなりにできる」ことがアイディンティテイと言うか自己確立、で言いなりにできることで、自分を確認すると言うかより尊大に思い込みたい。
ことで、言いなりにならなければ世のためおまえのためのことをしないのが悪いと、ことさら見下してやるごとで始末が悪い。
ということで、「パワハラ」や「イジメ」ということになるが、「パワハラ」と言う時には、企業とか会社が温床というかそれでやっていることで、「人を言いなりにできる」ことで自分を尊大に思いたい集まりということで、大人側からの子供の問題とか解決策とか言われたくない。
かくいう大学とて、「人を言いなりにできる」ことで自分を尊大に思いたい集まりなので、「パワハラ」と言う時には口を濁すと言うかお茶を濁す程度のことしか言えないわけだ。
となれば、大学が「パワハラ(当然子供の「イジメ」も含む)」について理解どころか効力のある解決策なんて提示できるはずもないのだから現状「パワハラ(当然子供の「イジメ」も含む)」に虐げられている人はご愁傷様、なおかつ働いている限り「パワハラ」に苦しみ続けてやってください。
しかも子供とて大人になればそういう社会の構成員にならなければならないわけで、「言いなりにされる立場」になれば、おめでとうございます、ごと。
で、大学は「パワハラ」をまともに考えることもできないことで、大学は「パワハラ」の権化の「老害教授」という極悪病魔に蝕まれていれば良いごと。
「老害教授」なんて「パワハラ」まんまじゃん。
「老害教授心理学」とか打ち立てて研究すればだが、紺屋の白袴・医者の不養生、大学の老害心理学教授とでもなれば呆れ果てるごと。
見下していたい者共は脳味噌がどんどん劣化していくばかり←物事の事実関係を無視して決めつける、というのは偏屈頑固年寄脳だからね。
ご愁傷様。
脳味噌が物事を事実関係を参照した上で柔軟に理解しようとしないのなら、固まって機能しなくなって当然。
抜けたけれども、「権力闘争」のところでは「わしが言うようにしたら良いように言うたるで」とか言われても、「いつか自分もエラクなる」「その集団の中で上手いことできる」と思えれば中国政治体勢のごとく従えるわけだ。
考えてもどーしようもできんが、人間は自他で「認知・認識・理解等々には断層(ズレとか隔たり)がある」ことで、「自分は言いなりにされたくない」が「他の人は良いななりにできる(できなければならない)」と、人間の脳味噌は両極端な無茶苦茶な処理系だから、人間問題は解決することは無いわな。

ま、人間社会なんてこういうことさ(元ネタは「格好いいとはこういうことさ」だっけ?)。
傍若無人、人を虐げてでも好き勝手に生きた方がいいぞ。
おいら化物顔は「孤独死」できれば良いが、野ざらしが関の山だろうな、人間社会なんてその程度のもん。

「イジメ」ということでもないが関連でもあると言うか。
「それは違う」「不当だ」「被害を受けた」・・・でたいがい「自分の要求することは正当だ」とか「要求できる」とかを(マネーロンダリングをもじって)education launderingしている大学や大学関係は考えてくれているのやら。
まぁ、「女性学」とか振り回していた「女性助教授」の体たらくからして、しているわけはないだろうが。
「それは違う」あるいは「間違いだ」というのは言いたい人はおいらも含めて言いたいことだろうけれども、向けられた側にすれば怒り心頭、つーか、自分は正しい・正当だと思っていたいのに不当・間違いだなどと否定的なこと言われたくない、というのが人の常だろうに。
ふと、オネェ系の「なんで~」は「そういうことを言うな!」、「それは違う~」は「自分には思い込みがあるから人の意見は聞かない」の強い意思表示だと理解した。
つまりオネェ系とかが、「なんで~」「それは違う~」言い出したら相手するだけ労力・時間の無駄、ということ。
「自分の考えとは違うから、それは間違いだ」は妄言だが。
こちらの考えを間違いにできるあんたの考えはなんの評定をもって正しいにしてんだよ?。
「不当だ」も同様ごとだが、「あんたの求めることに反するから不当だとぬかしてんだろ!」ごと。
言い返したらそれこそ怒り心頭ごと必死、ろくなもんじゃない。
「見下すようなものだから言いなりになれ(言うたようにしろ)」は人間関係の常だが、これを「悪いことだ」としても日常茶飯事ごとで付ける薬はなし・・・これで「イジメ」日常万歳!だね。
ねぇ、大学の「イジメ」研究。
まず、「自分にとって良くしてくれるから聞いてあげましょう」が常識で、「違う」「不当だ」「「見下すような者だから言いなりになれ」とか否定的なことを向けられたら言うことなんて聞きたくないじゃん。
でもって、こういう輩はより多くの欲求を得たいとか優位性だとか支配欲というか牛耳るとかに執着したいわけだ。
合わせて認知の歪みがあるとしか言い様が無い。
こういうのが典型の「イジメ加害者脳」。
繰り返しだが「イジメ加害者脳はイジメ被害者にもある」、力関係とか状況でこういう傍若無人なことをすれば、矛先が向けられて当然だからね。
愚痴ってもしゃーないがこういう「劣下人」を避けるためにも化物顔は引き篭もってるようりしゃーない。
老化が問題なのではない。
「イジメ加害者脳はイジメ被害者にもある」、問題言動の子供と年寄を標準語で併記したらそんなに変わらないはず。
そういったところで「イジメ」の深刻化もあるけれど、教育の当事者であるところの大学や大学関係は、(マネーロンダリングをもじって)education launderingして考えてくれない(研究や対応策)ことで子供の「イジメ」は解決することなく深刻化していけば良いだろ!。
もちろんそういう「劣下人」のガキンチョがそのまま大人になるわけだから、大人社会でも「イジメ」は深刻なわけだ。
クサレだってその容姿に向けられる嫌悪なんて大学や大学関係は、(マネーロンダリングをもじって)education launderingして考えもしないだろうし。
で、こういう否定的なことをぬかしていると拒絶反応的クレームごとだろうが。
「自分は言ってない」とか「愛」だとか「優しさ」だとかにすがるだとか。
「イジメ」とか「障害者」でもそうだが、「側にいない」「関わらない」時にはぬかせるんだよ。
「愛は地球を救う」とか。
そういう時には肯定的にしている方が自己肯定感ちゅぅもん。
が、「身近にする」「関わる」となったときには、労力・時間的損失を被ることで、ばかりか否定的な意味付けも付加してまで豹変・牙を剥くっちゅうのが人間っつうもん。
それは誰しも分かっているだろうに。
が大学や大学関係はこういうところの啓蒙活動はしないわけだ。
「側にいない」「関わらない」時にはこういう問題は肯定的に言ってる方が自己肯定感とか保身・自身の対外的優位性にできるといったところだけど、「身近にする」「関わる」となれば、攻撃・不当感・否定的・・・等々を正当化・・・ならまだましだが、フツーにできることにしてしまう(人もいる・・・というところだが)。
もちろん悪質に、攻撃・不当感・否定的にすることを正義・正当に振りかぶる輩もいるわけだが・・・「顔が悪い(化物顔)から、頭が悪くて考えも無い」どころか、変質者か頭がおかしいと決めつけられておうじょうこいたぜ。
そういう輩はそれこそ頭がおかしいのだから、大学や大学関係で詳らかにしてもらいたいものだが、education launderingして考えてくれるわけも無い。
で、だけれども、「側にいない」「関わらない」時と「身近にする」「関わる」時のギャップくらい大学や大学関係は詳らかにしとけ!、つーの。
そういうことだから、「イジメ」の「教員教育」がまるで役立たずで学校現場で先生が自殺するくらい苦しめば良いごと。
しかも、いくら「側にいない」「関わらない」時に綺麗事ぬかしていたって、攻撃・不当感・否定的・・・等々を正当化・・・ならまだましだが、フツーにしていることなので、その「フツーを普通ではないことをしていると理解させる
」のはまず無理なこと。

「炎上」なんて正にそういうことでっしゃろ?。
「子供のSNS炎上」を「子供のネットイジメ」と言い換えて安心してろよ→大人。
で、ふと思ったのに、「炎上」というと、ディープスペクターがTLやTVでかましているのに怒り心頭したが、「油」な奴がいるのが問題。
「火に油を注ぐ」・・・「身近にする」「関わる」となれば、攻撃・不当感・否定的なことになるわけだが、その「火」を大きくしてやろうという奴がいると話題が大きくなるとか期間が長くなるわけだ。
そこへ「風」の一群、「炎上」人が集まって「大きな炎」にしてしまうわけだ。
したがって、「イジメ」「障害者」とか社会問題が起きたときには、「当事者」の問題であるが、「油」になる奴がいるなら即刻排除しなければ「風が吹き荒れる」ことになって「炎上」もやむなし、ということだ。
「池中玄太80キロ」とかすでに「油男子」はあったことだが・・・あのまま「油男子」がいる「クラス荒廃池中玄太80キロ自殺ドラマ」にしてやるとか。
まぁ、幸い、こういうことではおいらは「油」の輩には巡り合わせがなかったが、「油」に巡り合わせることになった「炎上」(もちろん子供の間でのSNS炎上も含む)被害の皆様方はご愁傷様。
ということなどなどのことで、「炎上」(もちろん子供のSNS炎上も含む)被害の皆様方はご愁傷様、を大学や大学関係の人間理解が当て糞が無い、を蹴り飛ばすくらいに大学や大学関係が詳らかにしてくれるかだな。
「障害者」とかを「身近にする」「関わる」となったときには豹変・牙を剥いている時でさえ「愛は地球を救う」的なことをぬかしていられるんだよ人間は、ということと、「イジメ」てないとか否定・虐待していないとか「自分が子供の頃にはイジメはなかった」とかそれこそ「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」しているわけだ。
「側にいない」「関わらない」時には「愛は地球を救う」とぬかせるんだよの一方で「身近にする」「関わる」となったときには、豹変・牙を剥くかつ否定・虐待している、というのは一貫性が無い心性と言うか、その時々で違わせている(いたい)わけだけど。
こういう人間の心性と言うか性分を、大学や大学関係の人間理解は詳らかにしてくれるのかよ?。
もちろん、「いずれかからの立場が逆転した時」にはそれこそ「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」ことは極大ごとになるわけだが。
「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」ことが見て取れる人間性を持っての、アイデンティティだとか自分らしさはなんなんだよ、え?「自分らしさ」「アイデンティティ」を標榜だか宣伝している大学や大学関係さんよ。
人間、そこにあるのは利害というか利益を得る(失うことから守る、失ったことで攻撃する)、立場を守る(できる奴は攻撃したいよね~、できないというか負担させられような奴は排斥すべし!)ことをしたいわけで。
そうした状況は様々に多様性なことで、しかも状況は刻一刻と変わっていくのだから、その対応で人間性とか心性も変化させていかなければならない。
が、悪い表出と言う時には、部外者には悪とか虐待とか排斥とかが目に付くというわけで、それを攻撃することでの「我こそは正義だ馬鹿」は溢れるけれども。
だから、「身近にする」「関わる」ことになって悪とか虐待とか排斥とかが目に付く状況になれば、アイデンティテイとか自分らしさとかいったものは喪失している常態になっている、ことを詳らかにして周知しなければならないということだ。
もちろん、虐待と排斥が目に付く状況にしている者達がその状況であっても、アイデンティテイとか自分らしさとかがある、ということを思っていたいと執着していたいのだから、虐待と排斥が目に付く状況を変えていくというのは困難なわけだ。
おいら化物顔も「いなくなれ」圧力が常だが、別段おいらだけではなく、人間種は誰彼かまわず「いなくなれ」圧力を向けているもの。
これで平和だとか優しさだとか愛だと上辺並べたってアホらしい。

「大人社会」と「子供のイジメ」を並列にして考えたくない大人が子供の「イジメ」考えられなくて今までに至るが当然ごと。
公共放送の受信料の無駄遣いイジメ番組で、放射脳イジメ同窓会やってみろちゅーねん。
なんで身の安全に「福島難民イジメ」から逃れるために「ひきこもり」を選択したのに、身の危険にさらすために「福島難民いじめてやろう」者共の社会に出て行かなきゃならないんだよ?。
こう言うことは福島難民に限った分けではないが。
「子供のイジメ」にフォーカスしとけば、大人は安心して自己正当のネタにできる。
その程度ごと。
大人側が正義正当の自己中で「子供のイジメ」をネタにしたいだけだから、おいらが「イジメ」にあって半世紀とかもちろんそれ以前からのことで、大人が子供の「イジメ」に無力なままでかわりばえしてないじゃないか!。
まぁ、おいら生後9ヶ月で化物顔になって以来、「人間の化物心」には思い知らされてきたけどな。
化物顔は一目瞭然に世情から排斥対象に決めつけられるが、「人間の化物心」は直接には見えないことで「化物顔」に嫌悪の憤怒を向けて餌食にする人間の集まりが善良な社会であると掲げとけ!。
そんな社会だから「ひきこもり」を選択する!。

一方で、「イジメ被害者は悪くない」たって、周囲の人間が入れ代わり立ち代わりしても「イジメ」を受けるってのは「イジメ被害者」側の人間性の関わりがあるのは自明、だけど大人も大学もeducation launderingして考えない。
子供の時には「イジメ被害者がイジメられるような悪いところがあるからいじめてやる」と正当化していたのに、大人になれば「イジメ被害者は悪くない」と掌を返すゲラゲラ大笑いごと。
大人は文句有るかい?。

オマケ。

実話としては35年前とか、当時小6女児が「なんとかちゃんはおどくさーけー石ぶつけちゃるんじゃ」とか。
そういうのは今の大人が子供の頃そこかしこであったことだろうに。
それを「悪い」と言っても今の子供は(つまり今の大人が子供の時に、でもある)納得せーへんて。

以下はツイッターでの返信。

女性地位運動家かなんだかに返信。
「職場」=企業や会社、つまり職場は「選別の場」ということが欠落しているんだよね。
今はどうかしらんが、QCだっけかあるとすれば、不出来な労働者は仲間内で爪弾き。
そういうことせんと会社自体が潰れる。
閑話休題・・・QCで弾かれた労働者は「ひきこもり」になれ!・・・・おい。

エスカレーターでの関東関西での右より左寄りは障害者とかは状況によってはそうはできない、というのに返信。
「主導権(選択・進路・歩調)」・・・すなわち愚か者の執着心が問題。
どこに行っても「歩調を乱される」・・・つまり自分のペースとは違うことをされるのはキレルごと。

文学関係者のやり取りに割り込んで返信。
情報をおくる側、マスコミとか評論家とか煽動とかは「受けとる側の考え方の先取りと代弁」が常套手段。
が、「人間は自分が決める存在」であることで、自分の中で求める理解と「情報」は必ずしも一致しない
人間の個々の脳味噌内での処理系は千差万別だから、同じ情報を同じように理解するというわけではなく、極端に違った理解も横行するだけのこと。

ロボット開発の人だったっけか?に返信。
R・田中卓志・・・これでタカアシガニ物真似させるとか・・・、ツイッターTLから自撮り削除指定されるほどの化物顔が考えるのに、結局「人間が見て好感が持てる」ことがロボット開発の基準になるはず。

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