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コミュニケーションを求めるのは創作の中だけのこと

気がついたのに創作系がロリコンを増長している、だけでなく、子供を育てる親にも悪影響をあたえている。
が、「人間は、悪い・不当なことと自分は違う、という結論を持って考えようとする」し、平和ボケ思想的なことで言っても政治家のごとく聞く耳は無いのだから、創作系の人が問題意識は持つことは無いだろうが。

おいらは実践ロリコンしてきたが。
まぁ、繰り返しだがキスとかSEXとかしてないから娑婆暮らしだが。
そういうところで、一般的なロリコン者の要求というところで否定的。
また、「子供を育てたことの無い者に、子供を育てる苦労は分かりゃーせん」というところだが、子育てしている親には子供の無理解さが不満なところ。
昨今の大人対子供問題でも、創作系が片棒を担いでいることも愚痴るが、まぁ性描写が子供の教育に問題と言うのなら、今の若者が永井豪片手に今の大人を糾弾すれば良いことだが。

で、全方位アニメ脚本家に提案した。

ふと、三つ目がとおるのポゴでロリSMストーリー書いたら脚本書く?。
流血とか・・・。
いや、こういうのでロリ系でもユーザーはいるのだろうけれども、メイドとか結局のところ、知的水準は「大人女性(で言いなりになってくれる)」というのフツーのロリ系嗜好というところのはずだが。

もちろん反応は無かったが。
こういうところだと、同ピノコの様な人間性というのもロリ系の人間では扱うことがでけんことで、興味対象外か?。
キャプテンハーロックのマユの様な人間性だと硬すぎるか?。
結局のところ、「限られた」というか「創作者が紡ぎ出してくれた好みの少女」をロリコン者は求めている、というところだろう。

で、当然のことだが、「創作」の中の子供と現実の子供は違う。
ではロリコン者にしても子供の親をするとしても、「現実の子供を知り・理解する」のはどこでするんだい?。
現実、たいがいは仲睦まじく過ごしている関係に目がいきがちだが。
子供を叱り付ける・手を焼いている、と言うのは人事だろう。
「人間は、悪い・不当なことと自分は違う、という結論を持って考えようとする」
たいがいの人は、自分が、子供を叱り付ける・手を焼いている、ような否定的なことは思いたくないものだ。
というところで、自分が子供を叱り付ける・手を焼いていることになると、呆然としてしまうことになるわけだ。

創作の中の子供、代表的なところで「くれよんしんちゃん」とか。
だがあれは、文体をそれっぽくしているだけで、そのそれぞれの登場人物と併せてストーリーでの会話を、フつーの言葉にして並べてみれば、フツーの会話文になるはずだ。
いや、そうでなければストーリーにならない。
だけれども、「現実の子供」は必ずしもそうではない。
自閉症とかADHDとか障害・病的でなくてもだ。
問題は、「子供はコミュニケーションをとるのに適切な能力を獲得していない」ということだ。
なのに、子供にコミュニケーションが取れると期待をする。

下駄を鳴らして~奴が来る~~女房子供に手を焼きながら~生きている~・・・というのはたいがいの女房子持ちの男の愚痴というところだろう。
これは、伴に暮らす上で、お互いの好き嫌いと生き方の食い違いから避けてはと通れないことだ。
で、ロリコン系の考え方からすると、カワイイ少女が自分と生活を伴にしたい、ということだろうけれども。
そもそも、カワイイ少女が身近にしてカワイイのか?。
で、創作系・・・アニメでも実写でもだが、現実の子供ということでは、「突き放し言葉」とか「大人に媚びる言葉遣い」とか「他の話を聞きもせず一方的に話す」とか「丁寧な言葉遣い」「困っている」とか。
で現実の子供はそういうところで大人を困らせてしまうところだが、そういうところをそのまま「物語」にすれば「ストーリー」を構成する会話にはならないはず、を「ストーリー」にするために変えているわけだ。
そういうところで、だいたい大人になれば子供の頃のことは忘れていると言うか変質させていることで、創作されたものばかりに浸っていることで、ロリコンの妄想に執着しているとか拡大させているというのは、創作側にも問題があるとか。

通常、子育ては大変ということで、その家庭の事情や生活習慣、親の子供の扱い方の手慣れなど、「子供が育つ」環境が必ずしも整っていない、いや、子供を育てる環境が整っている家庭の方が珍しいはずだ。
となれば、親は子供を育てるのに手を焼いている、のがフツ-ということで、それがカワイイ少女ということで、ロリコンが自分の生活に引き込んでカワイイ少女なのか?、しかもたいがいロリコンは生活ということでは他者と生活を伴にする生活形態ではない印象だが?。

先のかまやつひろしの歌ではないが、生活を伴にする、というのは、自分以外の「自らの世界を持つもの」と生活を伴にすることだ。
この意味では、性のマイノリティでも否定的においらは思っているが。
つまり、「自らの世界を持つ者」は違った「世界」を認められないし、それが違えば違うほど相入れないということだ。
そのことは、ロリコン者の「自らの世界を持つ者」と「自らの世界を持つ者」であるカワイイ少女はまるで相入れないということだが。
残念ながら、となれば、ロリコン者は「自らの世界を持つ者」であることでその齟齬が理解できないことになる。
だから、「現実の少女」を知るということが必要だが、「自らの世界」に執着していることで、また「子供は大人に媚びる」ことで、つまり、身近な子供ということでは子供同士の関係での自分らしさではない違う人間性を子供は装うということで、ロリコン者は相手にできる子供の生活の実態は知るということは容易ではない。。

で、「創作」では、「突き放し言葉」「大人に媚びる」「他者の話を聞かず自分のことばかり言う」「丁寧な言葉遣い」「困っている」その他有るだろうが、こうした「子供の実態」をそのままに描写していたのではストーリーにならないので、「大人の会話を子供らしく」してストーリーをなりたたせている(「大人に媚びる」というのは、ストーリーの薬味てきには反映させるものだろうが・・・)。
したがって、「創作」ばかりで「子供の実態を体験」しているのであれば、「現実の子供」とロリコン者が伴に生活するとしても破綻して当然のことでしかない。
だいたい、子供の(突き放し言葉の)声を聞くだけで苛つく親はいくらでもいように。
実際、日常のシーンでは、子供が「困っている」ことで、親のシーンが堂々巡りの停止状態にはいくらでもでくわすものだが、「創作」でシーンが堂々巡りの停止状態は許されない。
すなわち子供の有り様は日常と「創作」では180°違うともいえるわけだ。

そういう「創作」でもこういう「親の共感」を得るものもある。
「明日の食卓」 椰月美智子
作者が冬休みだったか春休みだったか子供の愚痴を言われてたから、「・・・を殺し損ねたのは私です」と返信したら返信があったなぁ。

おいらは子供の扱い(「相性」は重要だが、最近年取ったのと社会の変容で「相性が悪い」が)は手慣れているけれども、親が「育てる」のと「遊び相手」ではまるで違うことだから、おいらがカワイイ少女と「生活を伴にする」など論外、をしなかったことで娑婆暮らしができている。
ふと、実際問題、おいらが遊んだカワイイ少女はどこの親も育てるのには手を焼いていたぜ。
それで、ロリコン者がカワイイ少女と伴に生活するなんて笑っちゃう。
少し、問題になる心理状態、大学や大学関係の人間理解は当て糞が無いが、そういうエライセンセイは「自分がすれば上手くいく」という心理・・・気の持ちようについて、どれぐらい理解されておられるのだろうか?。
カワイイ少女を相手にしたことも無いロリコンが、「自分が少女と伴に生活すれば上手くいく」とか言っていればキモイというところだが、それ以外、世の中多様なところでのその個人個人の思うところで「自分がすれば上手くいく」と思うのはフツーのことだろうに。
なんでも鑑定団とか、あるいは、スポーツとか娯楽ごとの入門だとか策略だとか、とかく人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい。
ただ、カワイイ少女、と言う時には、カワイイ少女が「人間」であることとその親がいることで、それを勝手に所有というのは非難轟々だが基本「自分がすれば上手くいく」と思いたい。
「自分がすれば上手くいく」と思いたい、時には、たいがいその反論異論というのは耳に入らない。
つまり、ロリコンと言うことが問題なのではなく、人間が「自分がすれば上手くいく」と思いたい、ことが問題だということなのだ。
当然のことだが、ロリコンと言っても、実際に行動に移ることも無く、ほのかに憧れてそういう欲求があったことも消え去る人がほとんどだが。
つまり、一般論として、人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい、ということなのだから、犯罪に走った結果としてのロリコン者の矯正・糾弾はするとしても、まずは、その一般の軽度な「自分がすれば上手くいく」と思いたい、ことを修正する方法を確立することが必要だということだ。
その上で、より強く「自分がすれば上手くいく」と思いたい、人の修正方法を模索していくような段階的方法を踏む必要があるということだ。
だけれども、人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい、のがフツーのことなので、どのような状態になれば修正が必要だとかの線引きは難しいところだし、そもそもフツーにあることを修正する必要があるのか?、ということになる。
というところで、「犯罪」となったときに、糾弾して矯正ドーノコーノとかお祭り騒ぎ話題程度ごとだが、そもそもに、犯罪に走る前に矯正・修正する方法をもちえないことが問題だろうに。
人の命は帰ってこない、のなら殺人に至らないようにしていかなければならないだろうに。
だけれども、人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい、のだが、それが個人・身内であれば、あるいは損失の回復を図れるものなれば、問題が差ほど大きくない・・・ただ色事芸能関係は馬鹿がお祭り騒ぎしたいところだが。
が、ロリコンの犯罪性となると、その回復といことが途絶ごとなのでより深刻ということになるから騒ぐところだが。
そうなったときには他の、人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい、こととは隔絶の差だが、
そうなる前であれば、他の、人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい、と同様のことでしかない。
もちろん異論はあるとしても、それは一部のことでしかない。
なにせ、日本人の彼女を求めたいとする男性の大部分ロリコンとか。
それぞれ物事の形容や理解があるとしても、人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい、ことを一般論として理解した上で、その軽微なところからの修正・矯正の方法を手探りしていかなければ、ロリコン犯罪という深刻な問題に対処できる方法論も導き出すことはできない。

さらば~ロリコン~向かう~先は~・・・おい。
元ネタは宇宙戦艦ヤマトの主題歌だが。
人間、欲求あるいは目的を持ったときには、いかなる困難があろうとも克服して成そうとするものだ、という前置きだ。
それが善・悪ということで、一般論が意味を違えさそうとして、理解を偏重させていく。
そんなんでロリコンとか理解できるわけねーじゃん。
欲求・目的と言う時に、美化というか崇高というか、とにかく肯定的な意味を持たせるというときには賞賛賛美で、それが悪の美学でも賞賛はあろうが、否定的に受け止めるとしたときには「なんであんなことするんだ」とか理解したくないのが人間。

エベレスト登るぜ~とかいう人にロリコン問題とか振ってもしゃーないが、欲求・目的を持ったときに、いかなる障害・傷害があろうとも(人によるが)諦めないのが人間というものだ。
凍傷・酸欠・滑落、つまり酷い目に遭おうと「そこに山があるから」。
これも肯定的意味合いなら人間は理解するが。
ロリコンがいかなる障害・傷害を克服してロリコンしても賞賛されない・・・当たり前だが。
だが、いかなる障害・傷害を克服して、ということでは同じ文脈なんだよ。
だけれども、否定的なことでは、いかなる障害・傷害を克服してとは一般論では理解したくない。
で、そうしたなら「厳罰で対処」や「特定して監視」とかはロリコン側には意味が無い。
被害者とその周辺では報復の代わりとしては多少の意味があろうが。
うんでもって、「第3者」にしてみれば、「厳罰」は享楽ごとであって、その話題をすることは正義とかの自己肯定勘違いや精神安定剤的な空虚なものでしかない。
要はVR。
最初の方で愚痴ったが、ボーダーラインというか、犯罪とは言えない軽微なところでロリコンの修正ができるかがロリコン犯罪抑制の要であって、犯罪になったことを空論したところでな~んにも解決もなければロリコン犯罪の抑制にもならない。
でもって、大人社会から距離をとっている(この前の子供見守りの殺人犯はどうだったんだろう?)ことで、その素性というのは犯罪にならなければ分からない。
分からないんだから防止のしようないじゃん。

結局のところ、ロリコンと一般社会がそれぞれに認知の歪みを抱えていることで、ロリコン犯罪は撲滅できないことになる。
つまり、このままロリコン犯罪のリスクを抱えたままの社会でいくしかないということだ。

「他の人が劣っている」確信とそのことに基づいた対人関係、つまり「自分のいいなりにならなければならない」と言う確信も研究してもらいたいものだ。
おいら化物顔は、こういう「健常者キチガイ」にヒデェー目に遭わされて甚だ迷惑。
TLでも咲きまくってるなぁ。
って、「ロリコン」と言う時には「劣っている確信」とそのことに基づいた対人関係、つまり「自分のいいなりにならなければならない」だろうに。
ということは、ロリコンでないところ一般社会で日常茶飯事、つまりロリコンは解決できないという証左。

すでに言っているが、子供はたいがい「突き放し言葉」。回りの大人が言葉遣いを強要することでそういう言葉遣いをしないとしても、「自他」というところでの関係性ということが分化とか成長していないことで、他を必要としていることの理解に偏りがある。

で、当然だけれども、「子供は警戒する」もの、当然だけど、その対象とはコミュニケーションを取りたくない。
警戒心から・・・これは大人でもすることだが、「丁寧な言葉遣い」つまり言葉を選ぶわけだ。
で、勝手の良い者は「丁寧な言葉」をコミュニケーションが取れていると思いたいわけだ。

で、子供の性として、「大人に媚びる」のは日常茶飯事こと。
子供にすれば、大人が総じて主導権・決定権を持っているのだから、自分の思うに任せることができなければ、大人を動かすようにしむけるしかない。
当然こういう「疾しい」(というと語弊だが)気持ちではコミュニケーションにはならない。

で、子供に相対する上での最大の障壁は「困っている」状態。
問題が起きて、その問題のことに子供が動かなくなるのはよく有ることと。
親とか周囲にすれば、子供がそのことで動かないというのは、答えがあるのにそうしない、ということの苛立ち。
この「子供が困っている」のに、「児童心理学」はどれくらいの理解と回答を用意してくれるのやら。
もっとも、そこに相対する「大人の心理学」の方でも大人の理解と回答が必要だが。
だが、「困っている子供」の方は、「コミュニケーション」ということでは閉ざしてしまっているわけだ。
だから「言い聞かせる」という「大人同士の手法」・・・たって大人同士でも無効なことは有ろうに。
というところのなどなどで、子供虐待とか殺人事件になるのではと、おいらは思っている。
特に「困っている」子供に長期あるいは繰り返し対峙していれば「切れる」とか暴力的になるなという方が無理解でしかない。
いや、おいらもそういう子供だったから、親も子育てには難渋していたが。

というところで、「現実の子供からかけ離れた子供」を視聴者に見せている創作系は、ロリコンや児童虐待からその殺人に片棒を担いでいるとおいらは思っている。

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