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大学は老害教授の主導権の執着に苛まれていろ!

人類の脳に「格差」「不遇な人」に関心向く部位←こんな研究・・つーか、人間フツーに自分より上とか下だとかでもめているだろうに。
「部位」よりも「日常で見れる」ことはエデュケーションロンダリングで不問なのかよ?。
人類の脳に「格差」「不遇な人」に関心向く部位があるとすれば、大人に成って「脳が形成される」ということではないはずだから、子供のときから有るということで「イジメ」てやれ!。
あるいは子供集団となれば「差別」も実行されていることだろうに。
おいら化物顔の天敵「健常者キチガイ」には往生こかされたが、「見下す」ことで「自分を確認」したり、不出来なところを補わさせようとするのはそこかしこにいる。
悪行上司とか。
そういうところは大学とか大学関係は知ったこっちゃないで「老害教授」を優遇していれば良いこと。
そういや「老害教授」って、脳に「格差」「不遇な人」に関心向く部位が特に機能発達しているとかなら、大学や大学関係にとって万々歳じゃあ~りませんか~。

ついでに、脳に「格差」「不遇な人」に関心向く部位が特に機能発達している人が福祉関係者になって、事件多発させてくれれば「マスメディア真理教」も「マスメディア真理教単細胞ノータリン狂信者」も大喜びし続けていられるでしょうに。
だいたい、「事件が起きなければ」福祉関係に関心が向かない日本の世情というか人々というのも万々歳だが。
「障害者はいなくなれば良いとおもう」のは一般人にとって「平凡」なこと、ツイッターで愚痴たれているが、そういうところでは、この人類の脳に「格差」「不遇な人」に関心向く部位があるこちとの関連はどうなのか?。
と大学や大学関係に訊いたところでエデュケーションロンダリング前面に、関連付けして考えようなんて微塵も無い人間理解のあて糞の無さ丸出しだろうが!。
年に一度だけ障害者に関心を向けようTV番組とか。ま、「福祉」のカテゴリーに自分が組み込まれたら世の中から忘れ去られる存在になったという自覚は持つべきだけどね。

ついでごとだが、ツイッターでロリコンがTLで溢れていたが、なんで小学校の頃のクラスの雰囲気とか参照できないかな?。
そういうところがすでにビョーキだと思うが。
おいらは実践ロリコン(セックスレス)で沢山のロリちゃんをももぐりまわして遊んでいたけれども。
生意気でわがままで攻撃的で突き話し言葉で(場合によってはアトピーとか持病持ちで)親の言うことも聞かないし、そういうアツカイニクイのがロリちゃんの素性というものだが、大人になると、教育委員会とかPTAとかでさえも、子供への憧憬とか幻想で見るとか考えるとか。
無茶を言えば、教育委員会とかPTAもロリコン並みの考えなんだよ!、と言ったところか.だから子供のイジメ防止なんて掛け声で終わり。
だいたい、5歳児とかの集団にでもなれば、「主導権争い」は時に「激化する」ものだろうに。これが一方的・長期となれば「イジメ」になるんだよ。
その辺はPTAだろうと教育委員会だろうと、時に「主導権争い」は「激化する」ものだろうに。
これは、大学や大学関係でも時に「主導権争い」は「激化する」ものだろうに。
というと、「子供と大人は違う」とか半世紀進歩の無いことを抜かしていろ!。
当然だけど、5歳児といわないまでも、小学生にもなれば「主導権争い」は大概あるもの。んでもって、その「主導権」に執着していた者が大人になり、会社なりの集団で「主導権」に執着するわけだ。
その一つの開拓方法が「人類の脳に「格差」「不遇な人」に関心向く部位」かどうかはともかく「見下せる事を見つける」「見下すものと決め付ける」ことだというのはおいら化物顔は思い知って生きてきた。
つまり、「子供のイジメ」という時に、「イジメ被害者救済」ということが大人社会に出て行くことでは解決策にはならないということだ。
「イジメに負ける」ということが、人類の脳に「格差」「不遇な人」に関心向く部位があるかはともかく、大人社会は歴然とした(つまり大学や大学関係も含めて)「主導権争い」の場であり、その「主導権争い」の場で「主導権に執着する者」は「見下せる事を見つける」「見下すものと決め付ける」ことで「主導権に執着」していくことを開拓していこうとするのは自明なのだから。
すなわち「子供の時にイジメに負ける」というのは、「大人社会でもイジメに負ける」と言っても過言ではないということだ。
いくら愚痴っても無駄事だが、大学や大学関係の人間理解は宛糞が無い。
「大人社会」から「子供のイジメ」を見下ろせよ!・「子度のイジメを老いまで追っていけよ!、療法いずれにしても大学や大学関係の人間理解は宛糞が無い無駄ごと。

子供と遊んでいた頃&自分が子供時代からすれば、子供同士と親ではみせる顔が違う。
小学校6年の女子だったか「おどくさーけ、石ぶつけちゃるんじゃ」というフツーの子もいたり。
もちろん親はこういうのは知らない。
だいたい、子供時代ってなギャングエイジ・・・というのとも違うが、けっこう残酷というか攻撃的なもの。
それを親をするとなると、「しちゃだめよ」とか、「うちの子はそういうことはしていません」とか幻想に浸ってしまう。

親が乳児の虐待死問題・・・繰り返すが、大学や大学関係の人間理解はあて糞が無い。
高1の時に中3おろさせたって嬉々としていってた男子を知ているが、その中3ど~しているかなぁ?、他に中3で処女じゃない妹持ちのお姉さんとか。
21歳の時だったか、小6女子が「オッサンやったことあるん?」って聞いてきたからやっちゃえば良かったが、あいにくおいらはノンセックスなので「無い」。
大学のエデュケーションロンダリングじゃ、性の実態なんて詮無いこと。

大学は「主導権を求め増強するために行くところ」
まぁ、昨今の世情ではそうも行かないが。
「主導権」を肯定的・崇高(?)的に考えたいところで、大学や大学関係の人間理解はあて糞が無い。
以前から「主導権」の否定的な面を愚痴たれているけれども、乳児虐待死の親は自分でも「主導権」を持っていたいんだよ、だけども「主導権」がもてる状況ではないんだよ、そこに「主導権」を持つ希望を絶望させる状況にする乳児を抱えるんだよ。
乳児を虐待死させる親が悪い・・・のもあるが、依然ストリートチルドレンの妊娠報道とか参照しないのだろうか?。
男が悪い、というのもあるし、「社会が悪い」というのもある。
そういう否定的な生活をしている者、つまり「不快なモノは目にしたくない」一般民の無責任も原因の一つだが。

プーチン大統領は「決めたい」んだよ、アサド大統領は「決めたい」んだよ、阿部総理大臣は「決めたい」んだよ、障害者は「決めたい」んだよ、乳児を虐待死させる親は「決めたい」んだよ、BDの旦那は「決めたい」んだよ、「イジメ加害者」は「決めたい」んだよ、「イジメ被害者」だって「決めたい」んだよ。
だけれども、これが大学や大学関係は、肯定的・崇高(?)的なことには「主導権」を使うけれども、否定的・見下しごとには使いたくないらしい。
頑な・執着・囚われ、その他言い換えの言葉を使うというか見方を変える。
DB旦那なんておいらは知らないが、その心理学とかの本によれば、何かにつけて「自分で決める」つまり「主導権」に執着していたい丸出しだろうに。

愚痴ってもしゃぁないが青森イジメ自殺。
このクラスの生徒が大人になったら「自分が子供の時にはイジメは無かった」確定。
「イジメの専門家」に聞いてみろい!。
んでもってこういうのが大人社会の常識良識。
「心理学」も「自分が子供の時にはイジメは無かった」については無学無研究触らぬ神に祟り無し。
「イジメ加害者」というのも、「自分が決める」ことで「イジメ被害者」が出てくるのだし、「時分が決めた」こと、つまり「主導権」を挫かれたことに腹を立ててイジメることで
深刻化する。
おいらの精神障害者2級から3級に降格された甥っ子は、「主導権」執着して「自分決める」ことができないことにイカリ爆発クラス巻き込みだが、「自分はイジメられた」と思い込んでいる始末。

大学は「老害教授」に苛まれているところもあるらしいが.これこそ「主導権」の執着以外の何ものでも無い。
大概、老齢による処遇が求めたいこととは違っていることか
ら、「自分はイジメられている」被害者(年寄りのひがみとか)意識があるからだと「想定」できるが。
大学とか大学関係は「主導権」ということでは「認知の歪」を抱えている。
「主導権」は「他がいないものとする」ことでありその究極は「独裁」である。
いずれにしても、「主導権」は否定的な面があるということだ。
「主導権」の否定的な面、あるいは否定的に思いたい物事は「主導権」では考えないことで、「老害教授」には対応策も無く、「イジメ」はおいらの知っている限り半世紀にわたってまともに理解されない。
ということで、当然大学や大学関係は「老害教授」の理解も対策もできないし、青森での中学生の自殺についての理解もおぼつかないままに対策もできない。
以前に青森県では「イジメ」の対策会議とか・・・つまり専門家・・・つまり大学とか大学関係が雁首そろえて今回の中学生自殺の体たらくということだ。

閑話休題。
おいらをブロックしたりミュートしたりしている人は多そうだが。
まぁ否定的・不快なことが多いいから。
だけど、そういう人が、他へ否定的・不快なことを向けたところで、向けられた人は聞かないことが分かっているのかな?。
人間が滅びに向かっている根拠は、誰も自分に対して向けられる否定的・不快なことはブロック・ミュートしてしまうということだ。
だから悪いことは悪いままに悪化の一途をたどる。

拉致被害者には否定的なことだが、逆に考えれば、スノーデン容疑者がアメリカに帰国するようなものだということを理解してもらいたいものだ。
どっちみち、国家の最高機密であり恥部であるところの者をやすやすと敵国に渡すとは考えられないが・・・。

アメリカだかどこぞの国かは知らんが、宇宙人対策予算たって、想定700年先行した文明を持つ宇宙人に対して、人間は「自分が決める」つまり「主導権を持っている」として対応するんだろうかねぇ?。
戦国時代以前の日本民族が今の日本人のことを「決める」とかと同等のはずだが。
笑止!。

さて復帰。
日本評論社 こころの科学で「主導権」み~つけた。
否定的・見下すことで・・・Open Dialogueからの引用ということと、肝心の「問題」ということとは別ということには注意が必要だが。
まぁ「珍しい」ことだと思う。
心理学は素人だが、ふと思うに、障害者とか乳児を虐待死とか「イジメ」とかの「主導権」とは心の専門家が言わない否定的・見下すことは「閉じた主導権」なのでは?。
日本と世界での「主導権」には違いがあって、「主導権」は公でせめぎあうのが大陸で、島国根性では「主導権」を全面にするのは社会的にみて世情に疎いと思われるとか。
だけど、時に突出して「閉じた主導権」を振り回されて周りが困るとか、特定の個人が困り果てて自殺するとか。
「独裁者」は「究極の主導権を求めた者」だが、これはそれこそ「究極に閉じた主導権」に間違いない。
が、こういうのは「回り」が黙認するとか利用するとかして暴走させていく。
乳児を虐待死とか「イジメ」とかもこの類。
「独裁(つまり「究極の主導権」)は悪い、と言いながら、「主導権」を価値を求めようとする、一方で、否定的・見下すことには「主導権」という考え方は当てはめない大学とか大学関係。
否定的・見下すことには「主導権」、肯定的・崇高(?)的なことには「主導権」を使う。
「主導権」という時(使う・使わない)には大学や大学関係は「認知の歪」を抱えているとしか思えない。
「老害教授」だって「主導権」に執着していたいよ。
そのことで、回りの者は横暴弊害に苛まれていれば良いじゃん。
人間、ほとんど全てのことにわたって、「主導権」を求めたいし有ると思いたいし執着していたい。
そのことは、「主導権」には否定的な面も弊害もあるということだ。
そのことを詳らかにして、向上的・崇高・否定的・見下すことの全てにわたって、「主導権」にしないとダメだ~。
もちろん、「主導権」と言っている時にも、逆に障害者とか否定的・見下すことに向ける見方(つまり差別的・偏見でなく)で見ることも必須であろう。

同性愛問題とか女性問題とか、結局「主導権」つまり「自分で決める」ことに執着しているからもめる。
同性愛問題は、「異」ということを攻撃したい輩がいるのはおいら化物顔とは実感として分かるところだが。
さりとてゲイとか男なら誰でも良いわけではなく、TV出演系はおいら化物顔は論外なところ。
つまり「自分の性を決める」ということだけでなく、その周辺細々としたことまで「自分で決める」と言っているわけだ。
社会は「他がいる」のであって、一般論として、「自分で決める」ことは必ずしも認められない。
折り合いをつけるとか我慢するとかが必要なわけだが、もめている同性愛や女性問題関係者は、「自分で決める」ことのようにならないと腹を立てている。
「回りに理解をしてもらう」ということは、「自分で決める」ように回りがするというのではたまったものではない。
そんなもん「独裁的手法」というもの。
同性愛や女性問題者が同性愛や女性に即したことにしか関心が無いよう、他のそれぞれの人は、そのそれぞれに求めることにしか関心は無い。

「障害者はいなくなれば良いと思う」は一般人にとって「平凡」なこと。
「障害者」も色々有るけれど、結局一般の人にとっても「自分で決める」ことはあり、それが一般の人同士では「日常」としてできるけれども、「障害者」は一般の人の「自分で決める」ことを損なう、あるいは破壊してしまう(という恐れ)から「障害者はいなくなれば良いと思う」は一般人にとって「平凡」なこと、になる。
こういうことは大学や大学関係はエデュケーションロンダリングされていて愛だの優しさだの誇大広告で離職や虐待職員とかになる。
さらには「障害者」は一般の人とは相容れない「自分で決める」ことをすることでさらに嫌われる。
「主導権」という時には「歩調」ということは必須で、「ペースを乱す」ことは時に各々「主導権」つまり「自分が決める」歩調を乱されれば激昂もの。
たかだか「歩く」ことだけでも、おいらは腰がめげていて歩くのもしんどいが、おいらの兄貴はそれを見て「さっさと歩けや!」と怒り散らす。
自分も腰が痛くてだんだん歩く速度は落ちているだろうに。
「障害者」と関わるのは、愛だの優しさだのといったことではない。
「関わらない」というのは「見捨てる」ことなので、自分や自分の家族が「障害者(老衰の諸症状も含む)」になったときに「見捨てる」ことにされないためだ。
が、「自分で決める」ことを損なう・挫く・あるいは破壊してしまう「障害者はいなくなれば良いと思う」は一般人にと
って「平凡」なこと、という理解は、エデュケーションロン
ダリングして教えている大学や大学関係では教えることはないのだろう。
嫁姑問題にしても、「主導権争い」で「自分が決める」ことにお互い相手に反目しあっている。
DBだって強姦だって「自分が決める」ことしかない。
大学だって学長選挙とか「自分が決める」ための「主導権争い」だろうに。
大学は「老害教授」人員増大させよう!。
だいたい、大学や大学関係の人間理解が当て糞があるものであれば、それこそ大学学長選挙不正とか「老害教授」とかに困らなくて良いはずだ。
大学や大学関係内の人間関係で困るというのは、そこに解決策が無いというのは、上記上げた数々の対人関係上の問題に対して、禿げ頭で宣伝している毛生え薬のようなものでしかなかろうに。
「子供のイジメをなくしましょう」というその大学内では生徒や教授のイジメで困っています。
おお!すんばらしい!。

同姓婚とか幻想事だが、「自分が決める」ことが生活の隅々までいくような人は破綻する、当然。
「性を決められている」ことが「息苦しい」ように、同姓婚で求められた方の人も「生活を隅々まで決める」ことをされたら「息苦しい」くてやってられないんだよ。
「自分が決める」行き過ぎた結婚生活というと、「自分が決めた」こととは違うことをされることに腹を立ててDBになるわけだ。
つまり、同性婚だからということではなく、多くの対人関係で「自分が決める」ことが多く頑なに求める関係性は不和になるということだ。
だいたい「自分で決める」という時には、回りのことを知らない・無視しているわけだから性のマイノリティとか、「性役割」を「自分が決める」者は、知らない・無視していることを話しかけてもお話しにならないわけだ。
これは当然のことだが、誰しも「自分の話を聞いてくれる人」を求めたいのであり、それが一方的に話すばかりでこちらの話しは聞かないとなれば辟易して相手などしたくないということになる。
ということが同性愛や女性論の人は理解したくない。
そういう意味ではおいらの愚痴が良い(悪い)例といったところか。

肯定的・崇高(?)的なことには「主導権」を使うが、否定的・見下すことには「主導権」を使わない大学とか大学関係だが。
アサドもプーチンもひょっとしたら阿部総理も、「主導権」と言うよりは囚われ・執着・頑な、と言った(極端に言うと)病理的なことではないのか?。
乳児が泣くのは次の子供を作らせないため、と言う研究とか理解するオツムは無いが、子供ですら幼少期から「主導権争い」をしているのは自明なことのはずで、ならば「イジメ」にも「主導権争い」が絡んでいるのは自明のことと見れるはず。
大人の政治家とか会社とかを見れば、いかに「主導権争い」というものが熾烈を極めるか。
そういうところで「子供のイジメを無くしましょう」たってできるかー!。
「子供と大人は違う」ってんならその違いを抜かしてみろ!。

言葉狩りではないが、「名前付け」によって「理解」が限定されてしまうことがあるし、「理解(あるいは「認識」)を限定するために「名前付け」するというのもある。
肯定的・崇高(?)的なことには「主導権」を使わずに、病的と言うか否定的な理解でしてみるとか、否定的・見下すこと(子供のイジメや障害者など)にはその細々としたことにまで「主導権」を使っていくとかせんことには、現状の無理解未解決は打破できない。
「心理学」も「自分が子供の時にはイジメは無かった」については無学無研究触らぬ神に祟り無し。

まぁ、ど~せ大学や大学関係の人間理解はあて糞の無いままで行くんだろうから、全般にイジメ解決も無ければ障害者も追いやった世の中で大学は「老害教授」に苛まれていればいれば良いんだよ。

ふと、どこぞの施設で土砂災害で死んで良いことじゃん。
「不快な者は目にしたくない」のが大衆であり「障害者(老人も含む)はいなくなれば良いと思う」は一般大衆にとって「平凡」なことだし。
しかるに、洪水・土砂災害でいなくなれば大衆の求めるところ。
だいたい、障害者とか老人ホームとかの施設を街中に造る時には周辺住民は「不快な者は目にしたくない」と猛反対運動するからやむなく僻地に造らざる終えないんだよ。
そういう被害に巻き込まれる地理的条件に造らざるおえなかったのならば、一般大衆によって死に追いやられた、ということもできるわけだ。
交通の便の良いところに造ってもらえれば、入居者や入居者の家族の負担も少なくて済むが、立地条件の良いところは強者の驕りで弱者には排他的。
うんだから、自分や自分の家族が老衰・障害者になった時には、「一般大衆の非情さ」を思い知れば良いこと。
結局のところ、「主導権」をもてる者がその状況を牛耳れるのであって、それは子供の「イジメ」でも変わりない。
「老害教授」が「主導権」に執着して回りは苛まれているのも良し。

繰り返すが、「主導権」の究極は「独裁」なんだよ。
ただ別なところで愚痴ったが「独裁(支配)は規定であり規定は敗北である」。
社会・未来は不確実・多様性。
それを己の求めるところの選択肢の無い考えでどこまで対応できるやら。
大学の「主導権」ではこういうことは教えないだろうが。

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