チャンネルひねれば、公共放送の受信料の無駄遣いも、「マスメディア真理教」も、難しい話をしようってか?。
そんなもん、一般論で話せるわけなかろうが。
って、民間のは小学生担ぎ出して問題意識をもちましょうってか?。
大人がさして考えてもいないことを?。
ちゃんちゃんらおかしいや。
多少目新しい事もない交ぜにはしているが、おいらが以前から記述していることで、おいらのような得体の知れない者のいうことなど知ったこっちゃないが、「マスメディア真理教」の流布なら多少耳を傾けましょうって程度のことだ。
んだからおいらは人間がこの地球にしていることを、小説という形で記述してきたんだよ。
目新しいことでは、自然農法たって、害獣はどうする?。
その地域の特性がたまたまあってただけだよ。
田舎は猪と鹿を防ぐ囲いつまりキョウカイを敷いているわけだ、その彼らの山は松枯れ等で荒廃の一途。
そら生きる場を求めて出てきた野性動物は、像ホイホイ、猿ホイホイ、鹿ホイホイで滅ぼしてしまえ。
その目新しいことまではいれてないが、今までおいらが実感あるいは体感してきたことを小説に記述しているわけだから、現実のありようとかけ離れているわけではないが、いかんせん、人間が自ら地球を壊していると自覚したくない。
それ荒唐無稽にリピートだ、「自然を守ろう」「省エネルギー」。
だけど加害は残しておくのだから、あの子象と同じく自然が人間の手によって壊れゆくのは止められない。
企業イメージ戦略企画番組万歳!。
?????????。
ちょいまち。
そもそも、この「子供に知ってもらう・考えてもらう」という考え方が正しいのか?。
おいらも個人的に小学校6年生から関心を寄せて、48歳の現在に至っているが。
「知ってもらう」というのは、この情報化社会からすれば、日常飛び交い目にし耳にすることであるから、誰もが情報としてはもち得ることであるけれども。
そのため、正しい理解ができるように、その大量に飛び交う情報の取捨選択と、理解力の乏しい子供に向けての、援助するべき詳述は必要であろうけれども。
では知ってどうしろと?。
この根拠は、大人は知っているし、理解するべき立場(なぜなら、自らの生活を困難にすることも含まれているのだから)であるのに、誰がそうした(行動の伴った)理解をしているというのだ?。
まして、子供は大人を見、模倣しながら成長していくもの。
にもかかわらず、そうした大人というのが、たいていの場合子供の回りには皆無。
まずもって、大人というのは自らの生活を求めることが最優先であり、そのことは子供にしても変わりない。
勉強、あるいは友達関係や恋人。
これらとて子供にとっては成長に必要なことで、疎かにしていいということではないはず。
一方、今時で言えばゲームにネット。
こうしたものはしなくていいといったところだが、それこそ今時の世情のことで、取り上げて他を模索しろと言うことは、大人が依存して取り上げることができないように、子供達にとっても同様のこと。
さらに子供というのは、今自らを成長させていかなければならない。
そのことは、外からの情報を必要としているとしても、今自らおかれている立場から、より社会参加できる大人に向かうべき内観(心理学用語
に確か「内省」があったと思うんだけど、広辞苑には載ってなかった、勘違いかな? )と、身近な社会との噛み合わせ、つまり対人関係や自らの地位・位置づけの理解・確認(アイディンティティの確立とかいいたかないが)をしていかなければならない。
当然、勉強は言わずと知れたことで、さらに「家族」として、「家庭を築いていく」ことを学んでおかなければ、大人として将来(生来?)生活していくことが危ぶまれる。
もちろん「うまくいった」例だけを限って注目すれば、そうした取り組みが子供の成長を促したと言えるであろうが、ならばそうした取り組みをイジメのある学校全てに導入すればいい。
ほとんどの場合、(おいらがこうして誰にとっても無意味なことを書きなぐっているように)、「模倣」すなわち「バーチャルリアリティ」程度のことで、している子供達も無意味感に苛まれ、現実との乖離あるいは整合性が取れないことで、心の健康を蝕むことになりはしないのか?。
義務感に駆られて、生涯を費やして関わっている大人にしても、その非力さを思い知ることを繰り返しながら、それでも投げ出さずにしている一方で、情報で振り回されている子供になにができるというのだ?。
一番子供にとって必要なことは、「体感」であることは、一般論として否定されるものではないはず。
ならば、その「体感できないこと」に関わりましょうというのは、意味あることなのか?。
たとえば(参照事例の増減・・・無意味な引用)、食べ残しを廃棄していることが問題だとしても、メーカーの戦略的に、あるいは日常の消費者心理に合致して、食べたい欲求を押さえつけてください、などと言えるのか?。
摂取することなく廃棄されるものを、再利用することが免罪符となるとするならば、つまり飢えた子供を救い、開墾によって自然を剥ぎ取ることの正当化になるとするならば、それはお皿叩いて賞賛してくれよう。
それカチャカチャチンチン。
すでに大人の問題意識が、現実の論点とずれているのに、そのことを子供にこれくらい正しいことをしていますと刷り込んで、それでこの地球が救えるのだから、さらにめでたいことだ。
この食料からの環境問題論は、現実の食料環境論に整合して考えられることは、我々に日本人にはとうていできることではない。
目の前から食料がなくなったことを問題にすることこそあれ、その求めたい食料によって、他国の人が死に、地球環境を損なうとしても、それを自らの行為と結びつけ、その欲する欲求を抑制(我慢)しようなどとは思いたくもない。
多少でも捨てるほどの食べたいものがなければ、我慢ならないのが今の日本人なのだから。
ちなみにおいらは、安くなった賞味期限切れの近い物を買ってしのいでいるが。
食料供給会社は、大量廃棄の権化で、そういうあり方を我々は望んできた。
いいじゃないか、賞味期限改竄たって、食べれるのだから。
この原材料調達困難な時にうちの会社は・・・、ま、どこでも一緒だ。
それ、世界情勢の認識のない愚かな日本人のために、原材料よもっと高騰しろ!!!!!。
とぉ、補足。
いつの時代でもそうだが、目新しい情報を押し込んで、知ったかぶりの生意気なガキにしたてあげたいのか?。
以前汽車で隣り合わせた小学3年生くらいな男の子と女の子が、自分達が高校生くらいになったら恋人がいてどうこうとか話していたが。
そういうなんでも知っていますって子供にしたいのかい?。
それが、地球環境のためになるなら大歓迎だ。
だけど、「知っている」事を振り回している「マスメディア真理教狂信者」同様、それが何の行動にも繋がっていなければ、知力にうぬぼれるナルシスト以外のどんな価値があるという。
まして、地球は壊れ続けているというのに。
知っていることが問題なのは「マスメディア真理教」の価値であって、今飢えて苦しんでいる子供が死んでいくことにはなんの価値も関係もない。
知っていたところで、救えないし、(以前に記述していることであるが)救うことが我々のためにもならない、そのことはつまり生き続けることが彼らのためにもならないということだ。
今の世界情勢を知っていることは、好むと好まざるに関わらず、グローバル世界の一員であるものの必要要請であるが、だからと言って、なんでもかまわず情報を刷り込めばよいという安直さは、おいらとしては役立たずな無駄骨にしか映らない。
占いの続き
好きになってくれる?
もちろん好きになってくれますよ。この恋の行方はあなたの手の内にあるといっても過言ではないでしょう。あなたがもう一歩踏み込むことで、お相手もその気になってゆきます。お相手が何か言いたそうな雰囲気をかもし出していたら、すかさず食事などに誘ってみましょうね。仕事や友達との約束は、後回しにしてもバチは当たりません。一度で良いので、あの人を最優先してみましょう。あなたが望む通りの未来がすぐそこにあります。
丸写しだと著作権侵害、っていうか、まるでおいらが、おいらに都合よく書き並べたみたいだ。
化け物顔にこんなんあり?
守護神からの啓示
これも丸写しすれば・・・というのもげんなりするほど、おいらがおいらに都合よく書き並べたような啓示。
だいたいもって、おいらは「そこにいる」ことでの関係性嗜好(指向)。
たとえばレジの女子高生アルバイト。
そこにいてくれるから、買い物のついでにちょっとした話題をもっても親しく愛想してくれるから会っていただけで、だからといって仕事の邪魔をしたり、誘ったりしない。
ロリちゃんとて、ロリちゃんの方から求めてそばにいてくれるから、遊びに来てくれるからであって、おいらが誘うということはほとんどなかった。
んで今回のことは、おいらにとってはどこにもいないとしか理解のしようがない。
すでに確認されていることだから、おいらの顔については言うまでもない。
ただ、だからといってそのことだけのことではない。
脳ミソが焼けているかどうかは、「破壊検査による診察」でしかないため、障害を持っていないかどうかは定かではないが。
幼少時は問題行動のため、友達関係も悪く(もちろん、級友のイジメもある一方で、関係性を持とうと努力もしていたが)、友達にのワニはいれないことに悩んでもいた。
そんな分けで、小学校3年くらいには、独り遊びして生涯を送っていかなければならないだろうなと、貧乏な親の金をくすねて買ってきた双六を
していたのを覚えている。
んな分けで、その延長線上で、今もこれから独りで遊んでいられることができることありはしないかと、求め続けて生きているといったところだ。
それが、今回のことだ。
社会というのは非情であるのだが、その一方で、華燭した綺麗事を並べていたいのだろう。
「不遇な者は遠ざけ、恵まれた者を求めようというのは、人の世の習いなり」
そう面と向かって言えば、非難されるのだろうが、世情というものはそうしたものだ。
おいらの親父とて、民生委員をしていたこともあるが、障害者の引率から帰って差別心丸だし。
おいらは倒産のため失職して姉夫婦に世話になったのだが、姉と病院に行ったその時、知的障害者らしき男性を見て、無理解なことを言っていたが、その子供、つまり親父の孫でありおいらの甥っ子が精神障害者2級だとか。
おいらにしても、脳ミソが焼けていて、それで障害があるなら、まだその方が言い訳にすることもできようが。
例えば、おいらが娘に近づくことに不信感を向ける父親もいたが、その娘に大事件。
おいらと同じ境遇になっていたら、その社会から受ける対偶は理解してくれよってところ。
違うことを求めるなんざ、不届き千万、といっても虚しいことか。
長年の関係性があるのだから、助けを求められて何もしないというのも情けない。
といったところで、関係性は向こうが切ったことで、おいらがぬけぬけと傷口を抉ることでもないが。
他人の身に起こっていることが我が身に起こったらどうこうなどと、すでに以前に記載していることで、長々続けても仕方ない。
通例より良い未来を求めて生涯の伴侶を求めたいのが人の情、それを暗雲を見据えて生きていくというのは、あまりにも苦痛ではないか。
ホーキン(だっけ?)のように、それでも支えるに値する人間性を持ち合わせていればであるが。
高い理想を実現できたからといって、それが不釣り合いな背伸びであるなら、それは長くは続かない。
分不相応な、つまり分をわきまえないことをする事はいずれにしても壊れがあるのみ。
なぜならそこには自分らしさと違うことをしなければならないのだから。
まず自分らしく生きられることが、幸せである前提のはずだ。
おいらはあいにく無情な生き様を曝しているだけだ。
そうしたところで、自らの行く末を見つめ、一人で生きていくものと自らを戒めていたのに、今回のことだ。
重大なことを事を軽んじて言ったことに責任を取れといいたいところだが、こっちは無責任に生きているのだから、言える立場でもなし。
無責任であることを、なおさら思い知らねばならならないか。
もっとも生きるということは、未来は未確定であるということ。
つまり、何かをする・しないにしろ、すべては「賭け」なのだ。
他人はおいらには賭けたくはなかった。
生涯、あるいは老後にしろ。
賭けていない以上、おいらがなにがしか豊かになることがあったとしても、その払い戻しあるいは恩恵をうけとることはできないということだ。
あるいは、理想の男を求めることができず、貧困な老後を送るとしても、一方、問題男性に生涯を潰されたとしても、猜疑心の塊のおいらは物笑いしてればいいところ。
もちろんも多くの女性方は、それなりに生涯を送られるであろうが。
いずれにしても、最後は独りで死ぬとしても、寄る年波は人の手を借りなければ生活もままならなくなるのは、世情が年寄を見下していることを見てのとおりのこと。
結婚相手を求め、子供を求めなければ、対価を払って社会的サービスを受けなければならない。
それも、これから人材の確保の難しさや、老人の急増から、必要とするサービスが、支払うことのできる価格で提供されるかは不透明だが。
んだから、より良いお相手を求めて、子供を育てておきたかったという無念はある。
このことは、未だ社会的地位の低い女性陣にとっては困難な老後であろう。
一方、それこそジジイというのは人の手を煩わせなければ生きていけないという者が多い。
どういう世の中にして生きていかなければならないやら。
おいらの方は、不遜な人生を送っているものの、家族がしっかりしていて、健康でいさいすれば老後は心配ないといったところだが。
だからと言って、自らの力で生きていけない悔しさには苛まれているといったところ。
そんなことから、今の仕事以外にできることを求めてしていることが、何かの拍子に老後の生活資金になりはしないかと。
それも虚しいことであろうが。
まっ、どうせ求めることのかなわない夢話。
似合いの彼氏を求めてお幸せになってもらえることを祈ろう。
おいらにできることは、その程度だ。
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