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2017年3月14日 (火)

イン・ブルー 第一章 幸恵

初春、海は険しく荒れている。
産休をかねて、娘の顔を見せに帰郷していた幸恵だが、今は本土に向かう連絡船の座席に座っている。
娘の美智恵を抱いた幸恵は座席に腰掛け、傍らでは息子の優児が座席に座り、オモチャを相手遊んでいる。
家族して実家を訪ねるなら、夫である洋一と身を寄せあい、子供らの笑顔に幸せを感じていられるのに。
今となっては、取り残された無念の思いが、胸を締め付ける。
不規則な仕事のため、会社からの急な呼出しがあって、家族そろっての帰郷ができなかった。
仕事が片付いたら、すぐに行くと言って別れたのは、今朝のことなのに。
振りかかった身の上が嘘であってほしいと、幸恵は今日の出来事を振り返っていた。
本土から離島に向かう連絡船は、朝一番ということもあって、乗船する人もまばら。
埠頭に一人佇む洋一に見送られ、船は港を後にする。
港から外洋へと舳先を向けた船は、柔らかな日差しにきらめく海を、一路幸恵の故郷の島へと向かう。
船旅のあいだ、長男の優児は覚えたての独り歩きにはしゃぎ、産まれて間もない美智恵も機嫌を損なうことなく、昼前には島に到着した。
一年ぶりの両親の出迎えは、幸恵や健やかな優児、それに覗き込む祖父母に笑い返す美智恵を囲んで、笑い声が絶えることがなかった。
夕方には長旅の疲れからか、美智恵はすやすやと眠りについた。
子供の幸せを包むように、大人は食卓を囲んで早めの夕食をとりながら、団らんの一時を過ごしていた。
まだ足腰がしっかりしていないとはいえ、優児が立ち上がって歩けば、祖父母は目を細めて成長を喜んだ。
いつものようにつけられているテレビも、何を伝えているか気に止める者はいない。
夕食も一区切り着いた頃、優児はおぼつかない足取りでテレビに近づき、小さな手で画面やスイッチを触りだす。
まだ聞き分けの無い我子を食卓に連れ戻そうと、幸恵は優児の背中に近づいた。
優児の後ろに腰を降ろし、小さな手を取ったその時、テレビは見覚えのある顔を映し出され、幸恵ははっとしてテレビを見つめた。
画面には洋一の写真、その下に「海原 洋一」と書かれていたが、それが何を意味するのかすぐには理解できなかった。
「・・・コンビナートでの科学薬品流出事故取材中の、明報社のセスナ機・・墜落・・搭乗者、海原 洋一・・・死亡」
はっとして繰り返すニュースを聞きいったが、会社名、仕事の内容は洋一から聞いていたものに間違いなかった。
突然に伝えられた訃報から回りからの声も無く、当の幸恵も茫然としてテレビを見つめていた。
繰り返すニュースは、洋一の略歴を淡々と読み上げ、故人の業績に感想を付け加えたあと、すぐに次の映像に切り替わった。
ニュースは過ちを伝えはしない。
けれどこの時ばかりはそう思いたくなかった。
幸恵はこぼれ落ちそうになる涙を拭い、すぐに洋一が勤めている明報社に、電話をかけて確認したのだが・・・。
ニュースが伝えたことに、誤りはなかった。
幸せな団欒に身をおいていた幸恵だが、洋一を思うといても立ってもいられづ、急ぎ子供らの荷だけでもまとめ、この日最後の連絡船に間に合わせた。

「ポッポー」
座席に座っている優児は、船のおもちゃを両手でかざし、幸恵を見上げて無邪気に笑っている。
父が死んだと教え解ける歳でもなくて、でも、悲しみを一人で負うことができない思いが涙となって流れ落ち、抱いていた美智恵の頬を伝って流れた。
我が子の将来を思えば、伝えられた事実を認めたくはなかった。
いつしか外は風雨が荒れ、船体は激しく左右に揺れる。
椅子から投げ出されそうになるほどの揺れに、子供達をしっかり抱きかかえ、幸恵は肘掛けに腕を通して揺れをこらえていた。
夫である洋一を亡くした幸恵にとって、嵐に対する不安を持つほどの余裕もなく、ただ、幼い子供達の将来が、重くのし掛かるばかりだった。
夜の海に乗り出した船は、天候の悪化も伴って、船内を一段と暗く感じさせる。
最終便にあっては、到着時間も遅くなるため乗客も少なく、居合わせた人達は荒れる海に不安を感じて押し黙っている。
ただ、非常口の緑の表示だけが、異様に明るく浮き出ていた。
風雨に揺られ、ある程度のリズムで揺れていた船体は、突然船首を上げたかと思うと大きく左に傾き、乗船者のほとんどは椅子から投げ出されてしまった。
「キャー!」
投げ出された恐怖に、再び水平に戻らない床がさらに追い打ちをかける。
おののいた乗客は、叫び声と共にこの場から離れようと動きだした。
けれど周囲は闇に包まれ、出入口の上に取り付けてある非常灯の明かりだけが、周囲を照らし出していた。
ブーッ!・ブーッ!
叫び声に続いて警報が鳴り響く。
「みなさん落ち着いて係員の誘導に従ってださい!」
警報の合間をぬって、乗務員は大声で知らせるのだが、慌てた乗客は逃げ場を求めて狭い出口に殺到する。
強い風雨、闇の中の微かな光が叩き付ける波は白い泡を浮きだたせ、狭い甲板は取り乱した人々が、我先にと救命ボートに急いでいた。
窓の外に漏れるわずかな非常灯の明かりが、容赦なく船上に覆い被さる高波を見せている。
幸恵は肘掛けに腕を通していたため、投げ出されはしなかったが。
何が何だか分からないまま椅子にしがみついていると、係員が助け起こしに来てくれた。
差し伸べられた手を掴んで立ち上がると、係員が救命胴衣を手渡し、急ぎ船室を出るように指示をする。
辺りには、まだ身動きができない人がいるらしく、係員はすぐに近くの人に歩み寄り、急き立てて指示を与えている。
ともかく優児を肘掛けにしがみつかせ、幸恵は美智恵を抱え直しながら救命胴衣に腕を通したあと、優児を抱えあげて出口に向かった。
「左の甲板から救命ボートにおりられます!。救助はすぐ来ます!。落ち着いてボートへ!」
船首側の甲板の係員は慌てているらしく、けたたましく指示しているのが聞こえてくる。
船室から出た幸恵は、抱きかかえていた優児を降ろして手をつなぎ、美智恵を抱え直して救命ボートに急いだ。

ビュゥーー、ヒュルルー
急ぎたくても辺りは暗く。
その上、雨と風に巻き上げられたしぶきが視界を阻んで、足下も良く見えない。
二人を抱きかかえては身動きが取れないと思ったが、優児はまだ歩くことを覚えたばかり。
走り急ぐにも足場は濡れて滑りやすく、風雨は容赦なく吹き付けてくる。
子供らの泣き声を気にかけながらも、幸恵はかまわずボートに急いだ。
必死の思いで救命ボートにたどり着き、差し出されていた係員らしき人の手に、幸恵はつかんでいた優児の手を突き出した。
係員の手が優児の手をつかみ、もう一方の手で体を抱えて救命ボートに引き入れる。
ザザザザッパーン!
優児に続いて幸恵も乗り込もうとしたその時、強風にあおられた高波が甲板を洗い流し、幸恵は波にすくわれ海に投げ出されてしまった。
波間に叩き付けられた幸恵は、なす術もなく海中に引きずり込まれたが、無我夢中で波間に浮かび上がった。
激しくうねる海は冷たく、逆巻く波は容赦なく身をよじらせる。
周囲は闇に包まれ、死への恐怖から幸恵はすぐに辺りを見回した。
目と鼻の先には連絡船が横たわり、少し離れたところで救命ボートらしき白い影が、力無く波にあらわれている。
あそこに優児はいるはず。
心をよぎる思いから、腕を上げて泳ぎだそうとした幸恵は、自由に動かせる手に驚き、慌てて辺りを見回した。
「美智恵ー!」
確かに抱きかかえていた美智恵は腕になく、自由に動かせる手に、心は"なぜ"という思いが張り詰めきしむ。
幸恵はひたすら叫び、波にもまれながら辺りを見回し、しぶきをかぶってもぬぐうことなく美智恵の姿を探していた。
「おい!、早くこっちに来い!」
救命ボートは間に漂う幸恵を見つけ、ぶつかる波にバランスを崩しながらも、できる限り近づこうとする。
幸恵は美智恵を求めて、ボートからの呼び声も耳に届かない。
ザバーンッザバーンッ
荒れ狂う波は、幸恵と救命ボートの間で壁となり、いつのまにか幸恵は、連絡船から遠ざかっていった。
「美智恵ーっ!、美智恵ーっ!」
我が子はどこへ。
荒れ狂う波にもまれながらしぶきの分れ目に向かって叫び、後ろに首を振って波間に視線を向けては再び前方に振り反る。
闇と風雨が辺りを支配して、間近でうねる波さえ、微かにしか見えないというのに、幸恵は何度も振り返り、我が子の名前を叫んでいた。
長い間、波にもまれていた幸恵の体は冷え切り、美智恵を手放してしまった後悔は不安を通り越し、小さな命はすでに尽きて、海に沈んでしまった恐れが張り詰めていた。
波間に叫び続けた声もかすれ、息も絶え絶えになりながら、それでも幸恵は繰り返し繰り返し振り返り、我が子の姿を追い求めていた。
連絡船が沈没した直後に比べれば、風雨は少しずつ弱まってきている。
どれくらいの間、波にもまれていたのだろう。
疲労と寒さから、身動きもとりにくくなっていたが、それでも幸恵は前後左右に首を振って、波打つ海に美智恵の姿を捜し求めていた。

激しかった波はしだいに静まり、切れ切れの雲の間から、三日月が少しづつ明るさを増してくる。
いつしか星々がきらめき、荒れ狂った波が嘘のように静まる水面に、幸恵は救命胴衣の浮力のみで漂っていた。
疲れ果てた幸恵は、続け様に起こった不幸に諦めを感じ、全てを失ったという思いが心の内を占め、身動きも忘れて揺れる波に身を委ねていた。
あーん、あーん
身も心も支える力を失い、今にも沈みそうな幸恵の耳に、赤子の泣き声がかすかに聞こえてきた。
もうどうでもいい-そう思うわけではないけれど。
疲れ果てた体を波間に揺らしていると、すぐに耳から遠ざかっていった。
こんな海の真ん中で・・・。
荒れ狂った波間、まだ乳飲み子の我が子。
荒れた海に投げ出してしまった。
もう生きているはずもない。
揺れる波に救命胴衣を上下に揺らし、その都度首元より上にまで波をかぶる。
顔を洗うように寄せ波は、自分を責めていた思いさえも、海に沈めてしまえる気がする。
そのまましばらく波に揺られていたが、何かに頭をこずかれ、痛さから見るともなく首を反らせて顔を起こした。
水面(スイメン)が微かに泡だっていることから、そこが海面より隆起しているのが分かる。
波に揺られては体をこずくので、その痛みから仕方なく手で辺りを探り、何かを捉えて幸恵は疲れた体を、より隆起の高い所に引きずり上げた。
潮に流されたのか、乗っていたはずの連絡船はどこにも見えず、朝日が水平線に顔をのぞかせ、辺りを照らしだしている。
波間に目を向ければ、昨夜の嵐の激しさを伝えるように、漂流物がそこかしこで浮き沈みしていた。
ふと目を止めた浅瀬では、ちぎれた海藻が寄せる波に力なく折り重なるうにねじれ、引いていく波に葉を広げる繰り返しが、目に止まる。
伸ばした手をわずかに止めて見入ったが、幸恵はすぐに岩を見上げ、体をより上に押し上げる。
幸恵はごつごつとした岩場にはい上がると、近くの平らな岩に座り、膝を抱え込んでうつ向いた。
体は冷え切り、季節がら気温も冷え冷えとしていて、幸恵の体はガタガタと震えていた。 昨日までは、小さな体を抱きかかえて温もりを感じていた腕も、今は冷たい膝を抱えて震えている。
日差しはしだいに強まり、冷え切った幸恵の身体や、周囲の岩場を温めていく。
気温の上昇と共に体も温もり、徐々に生気を取り戻した幸恵は、考えを巡らすゆとりを取り戻し、"なぜ"という自分への問いを、心の内に広げていた。
水浸しの身形に吹きつける風も、今は気にする余裕も無い。
幾度となく、美智恵の生を念じてた幸恵ではあったが、同時に思い起こす昨夜の荒波にもまれた記憶は、微かな望みも打ち消してしまう。
諦め切れない願を持ち続けようとしても、一人で膝を抱える腕に我が子の温もりは無い。
あの船に、乗り合わせてしまった後悔が心を締め付ける。
あの船に乗ったのは、急ぎ家に帰るためであり、その理由を思えば洋一の死を思い起こさずにはいられない。
うなだれてうずくまる幸恵は、びくりと体を震わせる。
一瞬思いははじけ飛び、しばらく何も考えることができなかった。
周囲は海からの風が幸恵の濡れた体を撫で、穏やかな波が寄せては引くのが耳に響く。
今となっては、もう思い起こすことしかできい、美智恵を抱きかかえて笑う洋一の姿。
もう見ることもできない二人に、幸恵は自分に言い聞かせるように、震える声でぽつりと言う。
「美智恵ちゃんも、おとうさんのもところへ行ってしまったのね」
洋一の姿を最後に見たのは昨日の朝、日も変わらぬ間に、夫に続いて我が子も失ってしまった。
夫婦二人の間に授かった命、荒海に手放してしまっては、洋一に申し訳なく思う。
冷たい海のどこかで、美智恵は波に揺られていると思うと。
洋一さん・・・。
心の内でぽつり呟いてみる。
在りし日の帰宅した元気な"ただいま"の声、もう二度と聞くことはない。
幸恵はうつむいていた顔を上げ、遥か彼方の水平線を見つめた。
「家に帰りたい。そうですよね?」
洋一の姿を思い浮かべ、虚空に返事を求めて幸恵は話しかける。
テレビに映し出されたセスナ機。
片翼を海に浮かべて壊れた機体に、洋一が乗っていたとは信じたくなかった。
美智恵も同じように・・・。
幸恵は疲労から顔色も悪く、虚ろな目で海を見つめる眼差しからは、子供らを見守っていた温かさは失せていた。
命を、幸せな暮らしを奪った海、落胆と恨めしさに満ちた視線を、幸恵は海に落とし、過ぎていく時間の中で、身動きも止めてうずくまっていた。
広がる海は朝日に映え、昨日の出来事を隠しだてするように、波は穏やかに満ち引きを繰り返している。
うつむいて見る水面(ミナモ)に浮かぶのは、洋一の元気な姿、美智恵の笑み。
洋一とめぐり逢い、美智恵を育んだ日々、失ってしまうなど思いもよらなかった。
美智恵の姿を見ることはできない、でも。
電話で知らされたのは、洋一は事故現場近くに。
目を疑った事故現場の惨状は、生前の思い出を溢れさせ、洋一の温もりを求めて一層丸める背に、寂しさが被さってくる。
迎えに行こう。
もう"ただいま"の声は聞くことはできないけれど、洋一は家に帰りたいと待ちわびている。
美智恵は・・・、手の届かないどこかへ、行ってってしまった。
せめて所在を伝え聞いた、洋一を迎えてにいかなければ。
それだけは、愛していた人のためにしておかなければ、と。
うつむいていた顔を起こし、今置かれている状況を知るために、幸恵は辺りを見回しながら立ち上がった。

周囲を見回せば、前方に広がる太平洋、後ろには急な断崖。
自分がどこにいるか確認できる目標は何もなく、波と風ばかりが辺りに響いている。
幸恵はひとまず、磯辺沿いに歩いてみることにした。
あーん、あーん
  力なく歩いていた幸恵の耳に、泣き声のような響きがかすかに聞こえてくる。
太平洋を波立たせている風が、吹き抜けていく音なのだろう。
手放してしまった美智恵は重く心を占めるけれど、今は洋一を家に迎えてあげなければ。
岩場を歩きながら、幸恵は周囲を見回し、ここがどこなのか把握しようとしていた。
人の住まない離島なのだろうか。
海岸沿いの歩ける岩場もわずかで、何か人の造り残しているものも、見つけることはできなかった。
もっと詳しく地形を知ろうにも、背後は絶壁で、磯辺を歩いてみることしか、できそうもない。
ごつごつとした岩場は、疲れ果てた幸恵には思うにまかせず、たどたどしい足取りで歩いていった。
あーんあーん
空耳?。
目の前の岩に乗り移るため、手を延ばしていた幸恵は、その手を支えに立ち止まった。
風の悪戯か、耳をすませてもそれらしき声は聞こえない。
思いもなく幸恵は岩に上がり、次の岩に乗り移る。
あーんあーん
聞こえる、確かに泣き声が。
岩の上に立ち、幸恵は耳を澄ます。
海岸沿い、行く手の先の方から聞こえてくる。
幸恵はゆっくりにしか動かせなかった手足をせっついて、微かに聞こえる泣き声の主を探し求めた。
海岸伝いに歩いていくと、微かな響きはしだいにはっきり聞こえてくる。
波のはざまを縫って、聞こえてくる声にもしやと幸恵の心は震え、閉ざされたと思えた将来を打ち消すためにも、泣き声は我が子のものに違いないと思いたかった。
寄せる波が引くたびに、耳を澄まして辺りを探していると、美智恵を包んでいた着物によく似ている布地が、岩場の合間に見えている。
「美智恵!」
その着物を見て、幸恵はもしや我が子でではないかと思い、荒れた岩場を駆け出した。
生きていてくれたという思いから涙は溢れ、とめどなく頬を流れ落ちていた。
抱き上げたその顔を見つめても、涙で滲んではっきり見てとれはしなかったが、着ている着物は、美智恵が着ていたものに間違いなかった。
「よく無事で・・・。」
抱き上げてもその子は泣きやまず、泣き声を聞いていた幸恵は乳の張りを感じ、救命胴衣をはずして濡れた上着をたくし上げると、乳房をその子の口許にあてがった。
必死に泣いていたその子は、口にあてがわれた乳首に吸い付いた。
目を落として見える胸元の小さな口に、幸恵は我が子の息遣いを感じていた。
日々繰り返した子供との交わり。
手放した後悔に押しつぶされていたが、この一時は全ての苦悩を忘れさせてくれた。
取り戻せたという思いは、今までに増して、子供への愛着を確なものにしてくれる。
お腹を満たせたのか、その子はずぶ濡れだというのにすやすと眠りについた。
目の前は涙で滲みながらも、子供の安らいだ表情を見つめていると、あきらめてしまった思いを繰り返し胸の内で問い詰めてしまう。
美智恵が生きていると、信じ続けることができなかったことに、負い目を感じているからであるが、それも今は忘れてしまってもいいこと。
自分を許そうとする幸恵の目からは、とめどなく涙が溢れ続けていた。
幸恵は疲れもともなって、子供を抱きかかえたままうずくまる。
張り詰めた不安も、今しばらくは感じる必要もない。
子供の温もりにより所を求め、幸恵その場で身動きを止めていた。
バラバラバラ
空に響くプロペラの音にはっとして、幸恵は滲んだ涙をぬぐい、晴れ渡った空をあおいだ。
遥か彼方から、ヘリがこちらに向かってくるのが見える。
そのヘリは幸恵を探していたのか、近づいて空を一回旋回すると、陸から少し離れた海面に着水した。
ヘリから降りた男は、そのまま海の中に降り、下半身を海につからせたまま、幸恵に近づいてきた。
「昨夜遭難した連絡船に、乗船されていた方ですか?」
その男はそばにある救命胴衣を確認して、幸恵に訊ねた。
「はい」
「お名前は」
「海原幸恵です」
「その子は?」
「娘の美智恵です」
「捜本部に連絡、海原幸恵、海原美智恵を救助したと!」
「さっ、もう大丈夫です。ヘリにお乗りください。本土までお送りします」
その男は海の波にゆられながら、赤ん坊を抱きかかえている幸恵を、そのまま抱きかかえてヘリに運んだ。
ヘリに乗り込むと毛布が渡された幸恵は、何かから身を守るようにそれにくるまった。
ヘリは飛び立ち、青い海を真下に見ながら、一路本土へ急ぐ。
目の前の空には、わずかのちぎれ雲が見え、見下ろす海面は、微かに起伏を繰り返すたびに、日差しを反射している。
穏やかな景観に、昨夜の恐怖を見いだすことはできない。
けれど、漆黒の闇の中で荒れ狂う波は、胸の内で今も逆巻いている。
投げ出されたその時を思い返せば、胸の内に不安が広がりもするが。
胸に感じる息遣い、荒れた海に手放してしまった無念さも、伝わる肌に伝わる温もりが振り払ってくれる。
今は無事でいられたことを拠り所にして、幸恵はヘリの座席に静かに腰掛けていた。
ヘリの搭乗員の会話を聴き取ると、連絡船は本土近くまで帰っていたとのこと。
ただ潮の流れの関係で、幸恵のたどり着いた島が事故現場よりかなり北だったため、捜索の範囲を広げるまでに時間がかかったと話している。
ほどなく前方に陸地が見え、しだいに町並みが判別できるようになる。
もうすぐ家に帰れる。
感動は感じられないが、幸恵は体を起こすと、息詰まる思いを吐き出すように大きな溜息をついた。

やがてヘリはスピードを落とし、眼下に見える着陸地点らしき目印に近づくと、ホバリングをして位置を決め、ゆっくりと高度を下げて着陸した。
ヘリが着陸すると、数人の男が駆け寄ってくる。
幸恵は小さな体を抱きかかえ、毛布にくるまったまま中腰で立ち、足元を探りながら地面に降り立った。
近づいたうちの一人は、多少強引に幸恵の体を支え、健康状態について二,三質問した。
子共も自分も健康状態は損なっていない、と幸恵は伝えると、男は目の前に見える建物を指して、一応健康診断を受けるように指示を出し、幸恵を押すようにして歩き出す。
彼らの後ろにはマスコミであろう。
幸恵の姿を遮っていた男性が横に並ぶと、カメラを一斉に構えるとすぐさま、まばゆいばかりの閃光が何度となく浴びせられた。
意識はしなかったが、幸恵はマスコミから逃れるように、身をかがめるよう歩いて建物に入った。
幸恵は診察室入ると、くるまっていた毛布をといた。
同室にいた複数の看護婦は、一人は幸恵の健康状態を聞き、一人はお子さんを診察してもらいましょうと言って、子供を預けるように両手を差し出した。
幸恵は少しためらい、視線を落として子供の顔を覗き込んだが、眠りについているらしく顔を胸に押し付けていた。
手放すことに不安を感じて、躊躇した幸恵ではあったが、今は子供の健康を気遣うのだと自分に言い聞かせ、看護婦が差し出す手に手渡した。
受け取った看護婦は、衣服から出ている肌を見て、幸恵の方に顔を上げて笑って見せると、ベッドの上で衣服を脱がせて医師のもとへ運んだ。
健康状態は親子共々問題はなかった。
それでも手渡される子供を、幸恵はまるでむしりとるようにして胸に抱いた。
看護婦はあっけにとられて声を失ったが、自分のふるまいに気が付いた幸恵は、上目づかいに相手を見ると目を伏せ、深々とお辞儀をした。
診断が済むと、連絡船の会社が関係者の待合の場所を確保しているという、ホテルのロビーに移された。
ここには連絡船に乗り合わせた関係者が集まり、身内の行方不明者を待ちわびた肉親や当事者、おまけにマスコミまでもが集まってざわめいていた。
人込みで通路はごったがえし、行き交う人で歩くのも思うにまかせなかったが、幸恵はロビーの座椅子に座る席を求め、疲れを癒すように座り込んだ。
人込みの、しかも苛立つ気配は気になるけれど、周囲の話し声は危機から免れた実感を抱かせる。
椅子に持たれて、なんとか気休めの思いを探ってみたが、荒れ狂う海の記憶を蒸し返してしまい、手放してしまった後ろめたさを呼び覚まさしてしまった。
けれど、胸に伝わる温もりは、もう過ぎてしまったことの証。
幸恵は抱いている、温かく小さな体を撫でてみた。
少しすると幸恵は人心つき、身形を気にして体裁をつくろい、美智恵の身形にも手をかけようと抱き上げた。
「海原さんですか?」
不意に声をかけられ、幸恵は美智恵の顔を見る間もなく顔を上げると、一人の男性がのぞき込んでいた。
「はい、そうですが」
見も知らぬ他人に戸惑いながらも、幸恵は返事をする。
「良かった!」
「はぃ?」
「こっちだ!。速く連れてきてあげなさい」
ほころばせた顔からこぼれた言葉が、何を意味するのか理解できなかったが、その男性が手招きする方に目を向ければ、人込みをかきわけながら幼い子供を抱きかかえ、急いでこちらに来る女性が見える。
近づいて来た女性に抱かれている子供を見た幸恵は、呆然として立ち上がった。
幸恵の前まで近づいた女性は、抱いていた子供を下に降ろして床に立たせた。
立ち上がっていた幸恵は、しゃがんでじっとその子を見つめた。
そう、嵐の中、救命ボートに乗り移らせた優児。
優児は生きていた。
紛れもない我が子を前にして、幸恵は何を成すべきなのかも忘れ、無事でいてくれた優児の顔を、ただただ見つめていた。
しゃがんでいる母親に向かって、優児は幼い足取りで近づき、ひっしと抱き付く。
幸恵もまたそれに答えるように、優児の背に手を回して抱きしめた。
「優児、美智恵、二人とも、もう離しはしない・・・」
荒海に美智恵を求めた幸恵は、優児のことを思う余裕を無くしていた。
たとえ非常時であったとしても、我が子のことを忘れていたのは、悔やんでも悔やみ切れない。
自らの至らなさに、幸恵は枯れていたはずの涙を頬に流していた。
手放してしまったのに、慕ってくれる子らに負い目を感じずにはいられない。
我が子を抱きしめる幸恵は、どんなことがあっても子供たちと一緒に暮らしていこう、そう心から思うのであった。

いつのまかまわりにはカメラを構えたマスコミの人達が並び、二人の子供を抱いて涙する幸恵の顔に向けてフラッシュをたいていた。
閃光の中で、優児を抱きしめる幸恵は、在りし日の洋一を見つめていた。
幸せな日々は終わってしまった、という思いが支配的であっても、これから始まる暮らしは、自分が洋一に代わって幸せを築いていこうと。
けれど、二人で築いてきた幸せな日々は、今はもう望めないのかと。
交互に思いは入れ代わり、我が子を抱きしめながらも、幸恵は不安をぬぐいきることができずにいた。
回りを取り巻いたマスコミは、マイクの準備をしてインタビューの支度に取りかかろうとしていた。
周囲の動向に対して、中の一人の男性が、後日席を設けると触れて了解を求め、マスコミはざわつきながら辺りに散っていった。
三人が幸恵の背後に残り、互いに指示を確認しあった後、一人は少し離れて携帯を取り出し、一人はロビーから急いで立ち去っていった。
残った一人は先程他のマスコミを退けた男性で、再会に浸っている幸恵の背に、顔色を曇らせながら歩み寄った。
「海原さん」
返事はなかった。
男は少しの間返事を待ったが、幸恵からの返事もないのをかまわず、話しを切り出した。
「潮目です。度重なることで、我々もどお対処するべきか混乱していましたが、お子様ともども健在でなによりです。御主人は・・・、いえまずは家に戻られては?。事故現場の方へはご親族が向かわれていますので、よろしければ明報社の方で、洋一君とその方々あわせてお車の手配をしたいと思います」
幸恵は子供を抱いたまま、身動き一つしなかった。
潮目との面識は、幸恵にはほんの数回しかないが、洋一に対しても強気な振る舞いが目につく人であった。
彼が、直接の上司を失ったショックを隠せないのか、少し声が震えている。
幸恵はそのままの姿勢で静かに返事を返した。
「いいえ、このまま主人の元に行きたいと思います」
幸恵の返事を聞いた潮目は、とっさに背筋を伸ばすと曇らせていた顔を引き締め、やや躊躇して話しをつないだ。
「そうですか・・・。会社の車を回しますから、正面玄関においでください」
幸恵は美智恵を抱いたまま立ち上がり、優児の手を取って潮目の方に振り返った。
相対するのが辛いのか、潮目は幸恵の動きに合わせて、すぐに正面玄関の方に足を踏み出した。
潮目は先導してホテルを出ると、用意した車の後部座席のドアを開けて、海原親子を乗り込ませた。
すぐに出発するつもりらしく、潮目は後部座席のドアを閉めると、車の後ろを走って運転席のドアに手をかけたが、急に動きを止め、正面玄関に向けて大きな声をたてた。
車のそばに同僚を呼ぶ潮目は多少苛ついているように、細切れな言葉を強い調子で言い付けている。
潮目の行動に困惑しているらしく、同僚はこの場を離れないように引き止めていたが、潮目はかまわず車に乗り込むとエンジンをかけた。

車はホテルを出ると、洋一の元へと直走る。走っている間は潮目も無言でいたが、途中信号にかかれば、これまでの詳しい経緯を途切れ途切れに説明した。
今までの洋一の仕事ぶり、取材や報道方針での日常的な上司との反目、先輩や後輩には人気の有ったこと、昨日の事故のこと。
ただ、平常心を損なっているのであろう、出発したホテルの場所を潮目が教えてくれたのは、事故現場近くまで来た時だった。
あれから三時間は走り続けていた。
不思議とその間、心の内に思い浮かぶものもなく、疲れているにも関わらず、幸恵は座席にまんじりともしないまま座っていた。
目的の場所は病院で、こちらにはマスコミは見かけなかった。
車を車停車させた潮目は、再び先導して病院の玄関へ入ったが、入り口で立ち止まると幸恵に対して受付を指差した。
幸恵は美智恵を抱き、優児の手を引いて、受付に歩いていった。
受付で身元の確認をとると、すぐに遺体安置室に案内された。
白いシーツを前にして一瞬ためらったが、白い、そうベットを覆っている白い布を取りさって洋一の顔を覗き込んでも、心の内ちに沸き上がるものはなにもなかった。
確かなことは、横たわっているのは洋一であり、これからは、優しさを求めることも、抱き寄せてもらいぬくもりを確かめ合うこともないということ。
坦々とした話振りで、遺体を管理している人が身元の確認をした後、変わり果てた洋一の身柄を、自宅へ運ぶことについて意見を求められた。
話しによれば、すでに洋一の両親が身元の確認に訪れたとのこと。
義母は泣き崩れていたとのことだが、遺体の引取りは妻の勤めと、この場を去られたと聞かされた。
遺体を管理している人と遺体安置室から出て、玄関で待っている潮目のところに行く。
三者の間で洋一の引き取りについて話し合いを持ったが、明報社の方で引き受けるとの潮目からの申し出を、幸恵は深々と頭を下げて承諾した。
話しが終わると、潮目は携帯電話で本社に連絡を取っとていた。
近くで聞いていると、こちらから話しを一方的にしているように感じられたが、潮目は伝えるべきことを伝えると直に電話を切ってしまった。
洋一の帰宅については一応の確認がとれ、さしあたって幸恵は急ぎ家に戻らねばならない。
潮目とともに病院を出ると、幸恵親子は長い道のりを車で走り続けた。

幸恵は家に戻ると、取り急ぎ葬儀の準備に気を回した。
ともかく里に電話をかける。
電話に出た母親は、幸恵の声を聞くと喉を笛のようにして息をはいたあと、娘や孫の安否が心配でたまらなかったように、遭難からの一部始終を涙声で話し続けた。
母親の話しがひとしきり終わると、自分も子供も無事であることを告げ、そのあとで葬儀の助言を求め、その上で葬儀の準備の手を借りたいと。
洋一側の親族にも電話を入れて互いに心痛を察し合い、洋一を任されたことに対してのお礼を言って、葬儀にさいしての助言を求める。
家に戻ってさして時間がたったとは思えなかったが、他の雑用に取りかかる間もなく洋一が悲しみの帰宅をした。
明報社から、何人か手伝いの人も回され、対応におわれて亡骸の安置に困惑する暇もなかった。
翌日には取り急ぎお通夜をするとともに、その次の日の葬儀も滞る間もなく終り、はや遭難から四日が過ぎた。
集まっていた親戚縁者も葬儀か終わると早々に引き上げ、家には幸恵の両親だけがとどまっていた。
居間で幸恵は美智恵を抱き、奥の部屋で一人遊ぶ優児を気にしながら、座卓をはさんで両親と向きあっていた。
父親は抱かれた美智恵を悲観しているように見つめ、それからゆっくりと目線を上げて幸恵を見つめた。
抱かれている乳飲み子は、より所を求めるように幸恵にしがみついている。
幼さを気にしている父親は、不安を抑え切れないように、額に皺を深く刻んで幸恵に話しかけた。
「独りで子供を育てていくのも気苦労も多いだろう。気に病むぐらいなら島に戻って来ないか?」
娘の身の上を心配しているように切り出したが、境遇に弱気になっているのか、父親は低く小さな声で話しかけた。
「わしらもこれで帰るが、みんなそれぞれに辛さを背負っているんだ」
父親は多くを語りたいように話しを切り出したが、考えをまとめようとうつむいた拍子に美智恵を見ると、言いたいことも言えずに黙りこくってしまった。
幸恵は自分の身の上には触れたくないように、黙って父親の話しを待っている。
短かったかもしれないが、もどかしい時間が過ぎ、たまりかねた母親が息を吸い込むようにしてうつむき加減に話しを継いだ。
「こんな言い方もないけれど、苦しみを負ってしまったのはあなたにも分かるでしょ。でもこれ以上負い目を増さないことも考えなさい」
悲しみを抑えているように、母親は涙声にも似た擦れた声でつぶやいた。
幸恵はうなずいて見せたが、抱いている美智恵を見つめたまま、何も言えずにいた。
お互い交わす言葉が見つけられないように、不安を胸の内に押し込めて、美智恵の無垢なしぐさに見入っていた。
幸恵とそして両親の気持ちはこれからの生活を愁い、不安を抑えて黙り込む。
しばらくすると、美智恵はなんの不安もないようにあくびをしてまどろんだ。
眠りについた美智恵を幸恵は抱いたまま立ち上がり、奥の部屋のベビーベッドに寝かし付けた。
幸恵が部屋に戻ってくるのを見た両親は、おもむろに立ち上がり、荷物を手に取ると帰り支度に取りかかった。
身仕度を整え、玄関で言葉少なく幸恵を励まし、家を出るとすぐ近くのバス停に歩いていった。
幸恵も見送りに出る。
両親は少し速めに歩き、幸恵を残して道路に出た。
幸恵は門から踏み出したところで立ち止まり、両親の背中を見つめていた。
バス停にたどり着いた両親は、頬を寄せて何か話し合っている様子。
息を殺したような小さな声で問答をしていたが、しばらくするとバスが来て、後ろを振り向かないままに乗り込んだ。
幸恵は門の前で立ち止まったまま、肩まで上げた手のひらを、両親の背に向けて小さく振った。
バスは乗客を乗せるとすぐに動きだし、幸恵は両親の乗ったバスが左折して見えなくった後も見つめていた。
残された幸恵は、仕方なさそうに目を伏せると、ゆっくり体をもと来たほうに向け家に戻った。
ざわめきのあと、寂しさを増した家の奥からは、無邪気に遊ぶ優児の声が聞こえてくる。
気持ちの拠り所にしたかった両親も引き上げてしまい、これからはこの子を支えて生きていかなければいけない。
寂しさを感じた幸恵は不安に駆られ、これからの暮らしに思いを巡らせていた。
しばらくの間は、洋一が残してくれたこの家で、二人の子供を育てることができるけれど、何も知らない美智恵にも人並みのことができるのかと。
不遇な乳飲み子の将来を思えば、家族の、同時に自の支えを失ってしまったことが肩に重くのし掛かる。
玄関に降りた両親に、"私のことは心配しないで"、と言ってみたものの、強がりだけで、うまく事が運んでくれるわけもない。
優児と、そして美智恵を育てていく不安は心に溢れ、両親が胸にしまってくれた忠告を自分に言い聞かせたくなる。
片親になった我が子の将来の身の振りよう、幸恵は首を振って不安を振り払おうとするが、家の奥から響く優児の独り遊びの声は、何か将来を示唆しているように思えてならない。
幸恵は家にあがると、少し薄暗い廊下に立ち止まり、答えを出せないと分かっていながら不安に思う一つ一つを考えてみる。
時間をかけて考えてみたいと思う。
誰かに話したいと思う。
聴き手を求める思いは人恋しさを感じさせ、幸恵は聞こえてくる声をたどった。
声の主である優児は、床におもちゃを広げて、楽しそうに遊んでいる。
そのかたわらで、ベビーベッドの美智恵は、何の不安も知らないように静かに眠についていた。
一見、憩う子供の有り様からすれば、父親の帰りを待つ平和な家庭だと偽ることもできる。
優児は近づいた幸恵に気が付くと、おもちゃを手に持ったまま見上げた。
身の上の不幸は理解できるはずもなく、洋一に抱き上げられてはしゃいだあの日が求められないなど、今の優児には理解することも無理。
こんなことなら、せめて思い出に刻める年頃まで、洋一には生きていて欲しかったと。
でも、理解できるなら、悲しみに打ち拉がれられてしまうし、理解できないなら、悲しみも不安も纏うことなくすごせる・・・はず。
幼い優児を見つめれば、洋一が生きていることを望み、洋一を思えば優児が不憫に思えてならなかった。
かなわぬ願を求めれば悲嘆にくれてしまう、なのに見上げる優児は笑みを浮かべ、手に持った自動車のおもちゃを差し上げて、いっしょに遊ぼうと誘っている。
幸恵は不安な思いも振り払えないまま優児の前に座り、差し出す自動車のおもちゃを受け取った・・・。
「今、幸せなのよね、優児」
笑顔は、悲しみを映しはしない。
優児は、幸恵に微笑んでいる。
差し出す小さな手は、母を慕って一緒に遊ぼうと誘っている。
生を投げ出してしまいたい。
我が身のみを糧として生きていく不安は、すぐにでも挫折してしまいそう。
「でもこれ以上負い目を増さないことも考えなさい」
生きる希望を見失いそうになると、優児の遊ぶ声の中に、母親の残してくれた言葉が聞こえてきた。
愛する人を失ってしまったけれど、失ってしまったを人を追うことが、愛を取り戻すことにはならない、生きているから、命育み続けるから、愛する人に愛を捧げていける。
だって、二人の間に育んだ命だから。
死んでしまったら、誰のための日々だったの?。
洋一も生きていてと願っている。
それは、自分の願いと変わりはしないはず。
「離さないと誓ったもの」
先々のことを考えれば、不安ばかりが胸を満たす。
受け取った自動車のおもちゃを床に降ろして押せば、後を追って小さな手が幸恵の手を掴む。
触れた柔らかな感触は、共に活きていく希望を求めずにはいられないが、押し潰されそうな不安の向く先には、あの洋一の冷たく固い体が脳裏をかすめ、背筋の寒くなる思いに幸恵は身を震わせた。
「あなたの人生は始まったばかり。投げ出してしまったら、私の分まであなたに悲しみを背負わせてしまうもの」
一家の支えを失って、自分も我が子らも生活を絶ち切られたわけではない。
二人して遊べることにはしゃぐ優児は、今を、そしてこれからも生きていたいに違いない。
幸恵は自動車のおもちゃを押して、しばらく優児と一緒に遊んでみた。
部屋に満ちる喜ぶ声、洋一と優児が遊んでいた頃に、幸恵は思いをはせていた。
あの頃の楽しかった日々が呼び覚まされれば、求めることのできない悲しさが湧き上がり、その都度に弱気に逃げ込んでしまいそうになる。
けれど優児は笑いながら、幸恵の手に戯れている。
洋一と供に生きた、あの日々のように。
思い出の中にも、目の前にも、微笑みは幸恵の拠り所であるのは間違いなく。
この笑顔が消さないようにしなければと、幸恵は自分自身に言い聞かせていた。

三回忌の仏前で、失った洋一との日々を振り返っていた幸恵は、思い出の中にいる我が子らを見るにつけ、改めて時の流れを感じていた。
波際に見つけた美智恵は求めて泣き、応じて抱いた胸に顔をうずめて眠ってくれた。
あれから二年、今は幸恵の後ろで、走りまわる優児を慕って追いかけている。
あの頃のーそう、洋一と二人で過ごした日々は、いつの間にか振り返れるものは数えるほどとなり、幸恵は寂しさをことさら感じていた。
日々の忙しさから、思いでが薄れゆくのは仕方のないこととしても。
失い、そして生きていこうと誓ったあの日だけは、今も深く心に居座っている。
手を合わせ、目を閉じてうつむいている幸恵の思いの中には、優児と美智恵のあどけなく呼び合う声がこだましていた。
父親のいない環境を、まだ子供達は理解できない。
いずれ、周囲とは違うことに気付き、親子して思い悩まねばならないときが来るかもしれない・・・。
子供が連れだって遊ぶ声、洋一が事故に遭いさえしなければ、幸せに暮らせていたはずなのに。
境遇を理解できない子供達の楽しそうに遊んでいる姿を見るにつけ、幸恵は将来に対する不安を拭い去ることができずにいた。

今日は土曜日。
今週は三回忌のために外来者も多く、忙しさのあまり子供達に手をかけている暇もなかった。前回の法要は身内のみの集まりで済ませたのに、このたびは明報社の方からの依頼で、生前の洋一が関わった方々に案内状が送付されることになった。
その中には社会的地位の高い人もおられ、応対を苦に感じるほどだった。
もっとも、盟報社の方でほとんどの準備が整えられたため、三回忌も滞りなく終わらせることができた。
少しでも収入をと始めたミシンを止め、幸恵は首を回して左右と肩を叩く。
振り返ってみても、堅苦しい来訪者の多さには骨が折れた。
生前、洋一も気苦労に絶えなかったのだろうか。
首を傾げて記憶をたどってみたが、仕事について話してくれたことはあっても、相対する人について聞かせてくれることなど、記憶に残っていない。
ミシンを止めると、部屋に響いていた機械音が止まり、隣の部屋からは、優児が美智恵を相手に遊んでいる声が聞こえてくる。
将来に不安はあるけれど、連れだって遊ぶ姿は仲のいい兄妹だ。
忙しさにかまけて、子供の相手をしてあげられなかったというのに、優児も美智恵も拗ねることもなく慕ってくれる。
忙しかった日々にあっても、時間がとれれば、おぼつかない足取りの優児と連れ立って出かけていた。
あのときは当たり前のように、家族そろって楽しんでいたが、子供を連れて遊びに出るのも思うにまかせない日が続くと、改めて洋一の心遣いを幸恵は噛み締めていた。
それはもう期待できない。
でも、遊びに出かけることができる期待は、子供達にもあるに違いない。
ふと不安にかられ、幸恵は聞き耳を立ててみるが、遊びに夢中になっているように、多少甲高い声が聞こえてくる。
ひとまずの安心感に、幸恵はミシンの電源を落とし、椅子をうけて立ち上がると窓辺に近づいた。
あの頃は専業主婦。
優児が産まれても、有り余る時間をゆったりと過ごしていた。
けれどあのときから後に内職を始め、時間におわれる日々が続いていた。
洋一が残してくれた家の手入れも、一人で賄わなければならなかった。
二人で築いていた家庭なのに、一人でこの子達を支えていかなければならない。
家の手入れに精を出しても、時に手を止めては無味乾燥した気配を感じとってしまう。
そんな時、手を止めれば相手をしてくれるとばかりに、走り寄る優児の笑顔を目にしては、今でも幸せは噛み締めることができると思い直す。
だって、子供の笑顔を一番喜んでいたのは洋一だから。
我が子の健やかさを、洋一は心安らかに見守っている、と信じていたいから。
「忙しかったから、遊んであげられなかったな。明日は日曜、家族連れなら遊園地にも行けるのに・・・」
虚空を仰いで独り言を言う癖、物思いにふけるといつのまにか口にしている。
夕闇がせまる窓の景色に、幸恵は過去から、そして将来への思いを見つめながらカーテンを閉めた。
仕事部屋の明かりを消して隣の部屋に行くと、幸恵は二人が遊んでいるそばに腰をおろした。
兄妹二人して遊んでいる姿は微笑ましく、できるなら食事の支度がすんでから呼んであげたいとも思うけれど。
どちらかが手を止めるまで、幸恵はしばらくの間二人を見つめた。
もちろんいつもと変わりない母親のしぐさに、優児は面白くないと言いたげに幸恵を見上げた。
優児と視線が合った幸恵は笑みを浮かべ、トーンを少し落としぎみに話しかけた。
「お腹すいたでしょ?。優児君、お手伝い」
「もうちょっと!」
最近は優児も自分の時間を持ちたくて、一度で聞いてくれることも少なくなっけれど、反発するのも慕っている証。
「遊んでいたい?」
もう一度幸恵がたずねると、優児はおもちゃを手に下に向く。
繰り返し話しかけても、おもちゃに気を取られていたいのは理解できなくはない。
美智恵はと見れば、いつものように手を止めて幸恵の顔を見上げている。
「美智恵ちゃんは?」
「うん・・」
稚けない美智恵も、今の時間にはお腹は空いている頃で、少しし困った顔をしながら人形を抱きかかえる。
食べたいなぁー、でも遊んでいたい。
まだ美智恵は考えがまとめられるまで成長していない。
無理に遊びを取り上げてしまうと、泣き出してしまうのかな。
子供との触れ合いで、こんなに用心深くなれるとは自分でも思ってもみなかった。
片親という負い目から、しんみりとした空気に満たされるという恐れを払えない。
泣き声に折れて気に病むなら、恐れだけではすまなくなってしまう。
幸いなことに、落ち着いてなだめれば、美智恵は素直に従ってくれる。
「お片付けしよう。明日も遊べるから」
取られないようにと、美智恵はお人形をぎゅっと抱いて、遊んでいる優児を見つめた。
「お母さんご飯食べたいなー。美智恵ちゃんもお腹すいたでしょ?」
なるべく優しく話しかけながら、幸恵は美智恵の人形に手をのばす。
遊びと食事、どちらもとりたくて迷っている美智恵は、幸恵の手から人形を守るように身をよじった。
「お人形さんにばいばいしよう。また明日遊んでね、って」
幸恵が笑顔で覗き込むと、美智恵はいったんお人形の顔をのぞき込んだが、くりくりとした目がすぐに見つめ返してくれる。
幸恵は美智恵に応え、微笑んで見せる。
それから視線を落として前屈みになり、目のぱっちりしたお人形の顔を覗き込んだ。
「ね」
美智恵は誘われるように、お人形の顔を見ようと顔を傾け人形を見つめた。
幸恵はわずかに待って、お人形に右手を添えた。
美智恵が手の力を抜いてくれたのを感じると左手も添え、小さな両手が持っている人形を、幸恵はゆっくりと抜き取った。
名残おしそうに、離れていく人形を目で追って、美智恵は顔を少しづつ起こした。
幼さは情動を抑さえてはくれない、事有れば泣いてしまうのは既知のこと。
機嫌を損ねれば、なだめるにしろ泣きやむまで待つにしろ、無味に時間を費やしてしまう。
同じように時間がかかるなら、泣き声に押し潰されたくない、笑顔を見ていたい。
後は優児。
膝を回して向きを変えると、優児は成り行きを見守っていた。
楽しい時間は取り上げられたくないって思っている。
だから。
「はい、優児君」
幸恵は自分の両手の手の平を上に向けて揃え、その上に人形を寝かせると、優児の前で膝をついた。
少しの間は幸恵を見上げていた優児だが、つむじを曲げた風に、横に向いておもちゃに手を伸ばす。
幸恵はそのままで、優児を見守っている。
少しすると、優児は幸恵の顔を見上げ、美智恵の方に目を向けた。
美智恵は膝を崩し、両手を床について、少し哀しそうにお人形を見つめていた。
遊んでいた手を止め、改めて幸恵を見上げるつぶらな瞳。
お人形は差し出されたまま、優児の次の動きを待ち続けている。
「わかったよぉ」
二人に見つめられて優児はたまりかね、しぶしぶと立ち上がった。
仲良く遊んでいるのだからとは思うけれど、お片付けはできるようになって欲しい。
それは当たり前のこと。
欠落した家族の有り様(ヨウ)、手を掛けてくれる人はほかにはいない。
無理矢理に押しつければ、子供の気持ちも離れてしまうこともありはしないかと。
一方で、自立を急き立てているきらいも感じてはいるが。
いずれにしても、親子であり、親子の絆を守り続けたくて、幸恵は子供たちが従ってくれるまで、待つことにしていた。
優児は自分が遊んでいたおもちゃを箱の中に放り込み、幸恵の手の上のお人形の足をつかみ逆さに持った。
「あん」
美智恵はとっさに抗議の声をあげた。
見ていると、優児は手を大振りして、お人形を箱の中に放り込むつもりらしい。
幸恵は慌てて声をかけた。
「優児君、だめよぉ」
優児は多少口をとんがらせながら、お人形の胴体を両手で持って、箱の中に収めた。
もう少し小さな頃の優児は、これをしてと言えば喜んでしてくれたのに。
でも考えてみれば、自分の感情を出せるのは健全な成長の表れ。
健やかに成長を見て取れるなら、喜んでいいことなのかも。
幸恵は散らかったおもちゃの片付けを手伝いながら、優児の成長に多少の戸惑いを気にかけずにはいられなかった。
床に並べたおもちゃを、優児は優児なりに片付けた。
大人から見れば、整然としているとは言い難いけれど。
まだ子供だから。
と、幸恵は自分に言い聞かせ、手を差し伸べて優児の頭を撫でた。
「はい、優児君よ良くできました」
後片付けが終わり、幸恵は美智恵を抱き、優児の手を引いて子供部屋を出た。

「美智恵ちゃんもお腹すいたでしょ?、もう少し大人しく待っていて。優児君、お手伝い」
ダイニングキッチンに備えたテーブルの側に行くと、幸恵は小さな足に注意しながら美智恵を幼児用の椅子に腰掛けさせ、それから夕食の支度に取り掛かった。
恵まれた家庭であるなら、料理ができあがってから子供達を呼べばいいのに-子供達はその間も自由に時間を使っていられるのに-幸恵は優児をそばにおいて、お手伝いを頼んでいた。
子供の聞き分けの良さは、時には周りからうらやむ声を聞くけれど。
時を忘れて遊べる子供を見るにつけ、そうできる家庭をうらやんでいることは偽れない。
でもそれは、止に止まれぬ成り行きであって、自由に振る舞うことを許すことができない母子関係は、幸恵にとっても辛いものがあった。
"できることなら"そう思ってみる一方で、早くにお手伝いを覚えてくれるなら、生活の不自由さを取り除けないだろうか?。
細々(コマゴマ)とした家事を一人一人でこなせれば、自分も、子供達も自由に使える時間を持てるようにならないだろうか?。
身勝手な願いと思いながらも、できるだけ時間をさいて、幸恵は優児にお手伝いを言い付けていた。
もし洋一が生きていてくれたなら、子供達のわがままも聞いてあげられるのに。
今でさえ内職におわれ、幸恵は我が子にさける時間もままならなかった。
それに・・・、今の収入には不安もある。
洋一の命と引き換えに、それなりのものが残っているのだから、気にする必要はないはずなのに。
多少ではない金額なのは理解しているつもりでも、月々の残高が減っていくのを見れば、将来に不安を感じずにはいられない。
父親のいない不憫に、その上経済的な不自由さまで子供に味合わせたくない。
できれば収入の安定を求めて、外に働きに出たいと考えもするが、与える愛情の少なさに目をつむるのは辛く、できる限り子供のそばにいてあげたいとも思う。
あてがうことのできる境遇を顧みれば、素直な子らを見て、胸をなでおろす気にはなれないけれど。
与えられる精一杯の暮らしの中で、母親として子供達を確かに育んでいる。
今、頼りないのはともかくとして、少しづつでも生活の中に根付いてくれる子供の成長に、将来への希望を見出そうとする幸恵であった。
その期待もあって、キッチンには踏み台が置いてある。
もちろん背丈のたわない優児が踏み台にあがっても、大人と同じことはできないけれど。
食器を運ぶくらいのことでも頼にしてあげれば、優児は喜んで手伝っだてくれる。
こうしてできた食事を食べていると、"生きていて良かった"と、幸恵は胸をなでおろす。
でも、ほっとした後からこみ上げる寂しさは、亡き洋一の面影を追い求めて、涙となって溢れそうになる。
幸恵の瞳には、失った洋一の笑顔だけではなく、かけがいのない我が子の笑顔も同時に写っていた。
もし涙を浮かべたなら、洋一の笑顔も、そして我が子の笑顔も滲んでしまい、呼び覚まされる記憶は、あの悲しみの海に引き戻してしまう。
幸恵は巡らす思いを断ち切り、潤む瞳を微笑みで打ち消して、努めて明るく語りかけていた。

翌日になると、幸恵はふだんよりも早く起き、キッチンのカーテンと窓を開けた。
顔をのぞかせたばかりの太陽の日差しが、部屋の奥まで差し込んでいる。
春とはいえまだ三月下旬、しかも早朝とあっては空気が肌寒い。
でも春のほころびを予感させるように、太陽は確かにぬくもりを伝えてくれる。
けれど差し出した手にかかる水道の水はまだ冷たく、幸恵はすぐに引っ込めた手を軽く二度振って湯沸器のノブをひねった。
今日は子供たちを遊園地に連れて行く。
家事と内職ばかりに時間を費やして、遊びを取り上げてしまうやるせなさ。
たまには外で羽根を伸ばしてあげたい、と考えることがなかったわけでもないけど。
幼さと時間の不自由さからか、買い物に連れて出るぐらいで手一杯、洋一の両親をたずねるのが精一杯の遠出。
いつものように、朝食のしたくは優児が起きてから。
早起きしたのは、昼食のお弁当を用意しておくため。
遊園地に行けば、それなりに食事は取れるけれど。
多くを注文しても子供達は食べられないし、何よりも別々に食べるのは寂しい気がする。
華やかでなくても、一つのお弁当を分け合う楽しい雰囲気、お金をかけるだけでは到底味わえない。
それに子供のこと、はしゃぎなから食べていたいし、椅子に座っては自由に振る舞えない。
せっかく外で食べるのだから、家と同じように椅子に座るよりも、空の下の芝の上で食べられれば、子供たちも嬉しいに違いない。
幸恵は子供たちを寝かしつけたあと、近所の24時間営業のスーパーに買い物に向かった。
何年か前なら、夕暮れ時にはほとんどの店がシャッターを降ろしていたのに、10時を過ぎても明るい店内には様々な商品が溢れている。
今はいい時代。
昼間となにも変わらず、保存食ばかりか生鮮食料品も豊富に揃えられ、手に取る商品を迷いこそすれ、手に入れられない苛立ちはない。
買ってきた材料を冷蔵庫から出すとキッチンに並べ、幸恵は調理にとりかかった。
お弁当をつくるなんて、何年ぶりかと記憶をさかのぼってみたりした。
洋一と付き合いはじめた頃には、二人でドライブに出かけてもいたが、遠出にはいつも外食を望んでいた。
そのあと確かにお弁当を作った記憶はある。
初めて作ってあげたから、高揚して頬を赤らめていた、なんて。
扱ったことのない食材に首を傾げ、盛り付けに迷って楽しくなかった。
今にして思えば、楽しかったのかもしれない。
いずれにしても、子供と食べるお弁当は幸せを感じさせてくれるはず。
縦に包丁を入れたウインナーは、火をとおすとタコになり、三角むすびは大きく、おにぎりは小さく。
大きめのお弁当箱に詰めていく。
リンゴは八つ割りにしてウサギさんに、高野豆腐を1/4にして、怒った顔、笑った顔、泣いた顔を書き込んで。
苺を帽子に、イエロチェリーに胡麻粒ほどのチョコの粒を埋めて顔に見立て、アンゼリカ(蕗(フキ)の砂糖漬け)の胴体に竹串を刺して足にする。
小さめのお弁当箱に見栄え良く盛りつける。
子供が喜ぶ顔を思い浮かべながら、幸恵は趣向をこらしてお弁当を盛り付けていた。
時間はすぐにたって、いつものように目覚ましがなる。
おおかたの盛り付けも終り、急ぎキッチンの隅に片付け、幸恵は子供部屋に向かった。

幸恵はカーテンを開け、日差しを導いて部屋を明るくする。
いつものように優児のベットに近づき、幸恵は優しく声をかけた。
「優児君、おはよう、起きて」
一回で起きるわけではないから、もう一回、二回と声をかける。
そのうちに目をこすりながらベットから起き、廊下へ出て洗面所に向かう。
美智恵は早起きで、起こす前から目は覚ましているけれど。
幸恵がそばにくるまで起きようとはしない。
覗き込むと、甘えるように手を差し上げてくる。
慕ってくれるうれしさに、幸恵は自分の胸を、美智恵の胸に合わせるようにして抱きかかえ、洗面所に連れて行く。
朝の軽い食事、支度といっても、ご飯に味噌汁、あるいはパンにサラダと牛乳といったささやかなもの。
テーブルに並べる物を、幸恵は冷蔵庫や食器棚から取りだし、いつものように優児に手渡した。
危なっかしく運ぶのはいつものこと、ときには落としたりもするけれど。
叱り付けるのではなく、幸恵は落としたものに対処して、ただ気を付けるように一言二言言い聞かせる。
父親のいないことが、子供を神経質にしてしまわないかと恐れ、神経を逆撫でるようなことはしたくないから。
むしろ、幼きながら手伝ってくれるのがいとおしく思える。
朝食、そして後片付け。
それが済むと、いつものように子供たちは、着替えるために台所から出ていこうとした。
二人を引き止めて椅子に座らせ、幸恵はテーブルに手を組んでおき、向かい合った顔を覗き込んだ。
「今日はね。遊園地に連れていってあげます」
「ほんと!」
喜び、声を上げる優児。
美智恵はきょとんとしている。
この笑顔。
絶望を振り払い、生を望んで生きてきたからこそ見れる、我が子の喜ぶ姿。
一番求めているものを目の当たりにした幸恵は、心の内に深く安堵が広がり、居座り続ける将来への不安を一時(イットキ)でも追い出せる。
出かけるにあたっての注意を二つ三つ。
優児は上の空で、聞いていないのは分かっているけれど。
日々の暮らしに追われる現実から逃れ、一時(ヒトトキ)の憩いに身をゆだねるのは、幸恵にも嬉しいことであった。
着替え、そして戸締まり。
美智恵は玄関先にぽつりと立ち、優児はその周囲ではしゃいでいる。
幸恵はお弁当を小脇に抱え、玄関の鍵を閉めると、先に家を出た優児を追うように美智恵の手を引いて出発した。歩道にに出ると、すぐ近くのバス停でしばらくバスを待つ。
美智恵は大人しく手をつないでいるのに、優児はバス停の案内板を手でつかみ、基礎のコンクリートに上がって危なっかしく体を左右に振っている。
車の往来も少なくなく、叱りつけてすぐにやめさせたいと思ったが、せっかく楽しい一日にしたいのだから。
幸恵は手をつないでいる美智恵に、優児と手を繋いで欲しいと言い聞かせた。
美智恵は幸恵を見上げて笑うと、まだ節々もはっきりしない小さな手を、優児に向けて差し出した。
優児は応えて美智恵と手をつなぐ。
美智恵はつないだ手を前後に振り、次いで優児が振ると、美智恵は嬉しそうに体を折り曲げたあと背を伸ばした。
時刻表通りにバスが来ると、幸恵はつないだ手を離さないように子供たち言い聞かせて乗り込んだ。
これでいったん中心街に出て、そこから遊園地行きのバスに乗り換える。

遊園地に到着し、バスから降りて見上げた空は、日差しが増した良い天気。
朝方の肌寒さは失せていた。
春の訪れを告げるように、暖かさはすぐに増してゆく。
人の溢れる入場門で、幸恵らは料金を払い園内へ。
まずは、コインロッカーに手持ちの物を預けておく。
入場門から建物の中の薄暗い通路を抜けると、晴れ渡った空に光が溢れて目を細める。
色とりどりの服を着た人たちで溢れる遊園地は、まるでお伽の世界のように見える。
大勢の人通りは大きな案内板の前で滞っていたが、辺りは広い敷地になっていて、身動きがとれないほどではなかった。
幸恵は子供たちの手を引いて、人通りの流れに任せて案内板の近くに行った。
子供たちに、何から遊ばせたらいいかと幸恵は案内板を見上げ、一つ一つの施設を確かめる。
すぐに優児は自分の遊びたいものを見つけ、ここに行こうと言うけれど。
美智恵にはまだ無理。
もちろん優児の言うことも聞くけれど、美智恵のことも考えて・・・。
「海原さん?」
「はい?」
行き交う人の多さから、周囲に気も止めず案内板に見入っていた幸恵は、不意の呼び声に右を見て、声の主を探して後ろに向いた。
振り替えれば見覚えのある人。
洋一が海の環境保全を記事にするために、何度となく取材を申し入れていた岸辺が、家族を連れて立ち止まっていた。
岸辺は海洋研究所で役職に就き、海の環境を調査・研究していることを、洋一の書いた記事で知り、またその記事に写真も掲載されていた。
「岸辺さん。先日はお忙しい中、遠方よりおこしくださいましてありがとうございました」
思わぬ場所での再会に、幸恵は思わず甲高い声で呼ぶと、深々と頭を下げた。
岸辺も頭を下げると、妻の絹代と子供の正和を紹介した。
そのあと、生前の洋一を振り返り、次いで母子家庭の苦労の察してから、子供たちの立ち回りと続け様に話題を並べていく。
幸恵は岸辺の話が途切れるつどに、頭を下げて心遣いに感謝をあらわした。
今日は家族サービスなのだろう、夫婦の間で両手をつないでいる正和が、父親の話が終わるのを今か今かと待っている。
歳の頃合は優児と同じくらいだろうか。
一通りの話しが済み、お互いの近況などを交わしていると、正和は早く遊びたいと催促をする。
今日の主役はお互いに子供、もう打切にしてあげないと。
「洋一君とは多少とも知った仲。これも何かの縁でしょう、機会があれば私の家においでください。幸い優児君と正和は歳も同じですから、良い遊び相手になるでしょう」
頭を下げて立ち去り行く岸辺親子。
両親の間で正和はそれぞれの手を握って見上げ、嬉しそうにはしゃいでいる。
微笑ましい子供連れの家族。
父親に甘える子供の姿を見るにつけ、我が子にはそれが望めないことに、幸恵は引け目を感じずにはいられない。
しばらく見つめていてたが、気が付くと優児も岸辺親子を見送っている。
口に出したことはないが、周囲の家庭と違うことに、気が付いているのだろうか・・・。
だとすれば気を紛らわすように声をかければ、とも思うけれど。
逆に、それが父親の不在を意識す"ことになれば、今の生活は壊れてしまいはしないだろうか?。
優児が何か言いだすだろうか、幸恵は不安と恐れの入り交じる複雑な気持ちに襲われ、なにも言いだせず岸辺親子に目を移す。
仲睦まじく見える岸辺親子は離れていく。
少しすると、なぜか岸辺は立ち止まった。
後ろ姿を見ていると、岸辺は下げていた右手を胸元辺りに上げ、右肘をはったあとその手を右耳にあてがった。
携帯電話だろうか?。
岸辺は慌わて右手をおろすと絹代に何か言い、足早に離れようとする。
正和は今にも泣きだしそうな横顔を見せ、つないでいた手を引っ張って、岸辺を引き止める。
「約束したのにーぃ!」
聞き分けのない正和に手を焼いた父親は、絹代に何か言うと手を振り払い、人の流れに逆らいながら、小走りに遊園地出口に向かい、姿を消した。
正和は泣きながら手を何度も振り下ろし、腰を下ろしてなだめている絹代に当たり散らしている。
言い聞かせていたが、引き止める絹代にそっぽを向いて、正和は走り出した。
「正和!、待ちなさい!」
絹代は慌てて後を追った。
正和は遊園地出口のすぐ近くまで走ると立ち止まった。
人通りが溢れてよく分からないが、立ち止まった正和は、人混みの中に父親の後ろ姿を追い求めているのだろうか。
絹代は正和のすぐそばまで近づくと、手を差し出して正和の腕をつかまえようとする。
が、正和はその手を振り払い、その場にじっとして泣いている。
絹代は正和を抱き抱えようとするが、差し出された手を拒むように正和は逃げ出した。
なんという不条理。
父親がそばにいることもできず、家族の一日も間々ならないなんて。
肩を落とし、幸恵は愁い顔で、岸辺親子の行方を追っていた。
「行こぉう」
動きの止まった幸恵の手を優児は引いてせがむ。
速くここから動きたいらしい。
優児の顔がどこか物悲しく見えるのは、気のせいだけではないだろう。
やり切れない思いに、幸恵はため息をつきたくもなるけれど。
慕ってくれる子供たちを前にして、心苦しさを出してはいけないと、幸恵はハイハイと笑顔を繕い、優児が手を引っ張るのにまかせてついていった。
さすがにお腹が空いた。
観覧車から降りた優児と美智恵も、眼下を一望できた高揚が落ち着くと、お腹が空いたとはやしたてている。
そんなに催促しなくても、もう少し大人しく待ってて。
腕時計で時間を確認してもお昼食にするにはまだ時間が早い。
表面では笑顔で子供の顔をのぞきこんだが、いつもと違った活気が空腹感を大きくして食事を乞いさせる。
いつもならいくらお腹が空いたと言っても、時間を守らせて昼食にしていたが、今日は子供の言うとおりにしてもいいかな。
幸恵親子は、預けていたお弁当を取りに、入場門横のコインロッカーに戻ってきた。
お弁当を取りだし、適当な場所を探すために案内板の前に行く。
その途中、遊園地の雰囲気に似合わない、女性のたどたどしいしい声が幸恵を立ち止まらせた。
入場門と案内板の中ほどにある、飾りのほどこされた高い支柱の根元に、立ち尽くしてうつむいている正和と、腰を下ろしてその顔に相対している絹代が、幸恵の目に留まった。
昼時にさしかかろうとする今時分には通り過ぎる人も少なく、この場には不似合いな親子関係を際だたせている。
二人を気にしながら、幸恵は案内板の前に来ると、子供たちを誘って案内板を見上げた。
「観覧車から下を見て、お昼はここで食べたいと思うところはあった?」
幸恵は腰をかがめ、案内板の観覧車を指差して子供たちに聞いた。
「んーとねぇ」
優児と美智恵が仲良く指をさして探している間に、幸恵は岸辺親子の動向に注意を向ける。
「正和のお父さんでいて欲しいのは分かるわ。でも正和一人のために沢山の人を困らせるわけにはいかないのよ、今は無理かもしれないけど、もっと大きくなったら、沢山の人がお父さんを求めてくれていることが分かるはず。仕事で家にいられないけど、お父さんはあなたのこともいつも思っていてくれているのよ。だから、お父さんを責めたりしないで」
うつむいたままの聞き分けがない我が子と向き合って、絹代は繰り替えし言い聞かせていた。
半ば泣き出しそうにも見える絹代は、今まで我が子をなだめていたとうかがい知れる。
一方の優児は昼食の場所を決めて、幸恵の袖を引っ張った。
このまま立ち去ることもできたが、見ているのにいたたまれなくなった幸恵は、子供たちを連れて岸辺親子のもとへと歩いた。
父親を求める子供心は他人事には思えない。
幸恵はこれも何かの縁と思えて、正和の横にしゃがみ、ぐずっている顔を覗き込んで絹代にたずねた。
「岸辺さん、あれからずっと?」
幸恵の問いかけに、絹代は一旦目を閉じて、気持ちを落ち着かせるように努めている風にしながらも、正和を見据えるように見開いて返事を返した。
「お恥ずかしいところをお見せします。主人が仕事がら家にいないことが多いこともあって、今日一緒に遊べることを楽しみにしていたのでしょう。でも突然呼出しがあって。正和も甘えたい年頃ですから、意地を張るのも分かるのですが」
あれから二時間近く過ぎている。
正和は、日常父親に甘えることもかなわないのだろうか?。
絹代が今まで努めて言い聞かせていたのは、その負い目があるからだろうか。
「そうですか」
「主人も久しぶりに休みがとれて、今日は家族そろって、楽しく過ごせると話していたのに・・・」
期待に破れてうつむく子供を前にして、なだめる術を持ち合わせない母親が、悲嘆に暮れているようにも見えてしまう。
今日一日、幸恵自身も楽しかったと言える日にしたかった。
楽しいことだけを期待して出かけてきたというのに、目の前にはさみしさを噛みしめる幼い子供がいる。
父親がいない。
傷付く子供心を思えば、我が子の気持ちを重ねずにはいられない。
でも立ち去った父親を理解させる気にはなれない、いないことを納得させることなど、今の自分にできるはずはない。
幸恵は心の内で落胆し、そばで大人しく待っている優児と美智恵を見た。
思い詰めた正和を前にして、優児は多少の恐れを感じてか大人しくしているが、状況の理解できない美智恵は幸恵の顔を見て、昼食の催促をした。
「お腹空いたよう」
幸恵は美智恵に目を移して、ふと考えた。
楽しみを奪われた思いをなだめるのは無理かもしれない、でも美智恵と同じようにお腹を空かせているなら・・・。
「ねえ美智恵ちゃん、正和君に一緒にお弁当食べようって」
素直な美智恵は幸恵を見上げたあと、正和を見て口真似したように言った。
「正和君、お弁当食べよう」
でもうつむいたままの正和は、相変わらずなにも言わないままでいる。
「あっ、ご迷惑ですから・・・」
思いもしなかった幸恵の申し出に、驚いた絹代は断わろうとする。
同時に差し出された手が、正和の手をつかもうとする。
親としての至らなさに慌てた様子で、正和の手を取り、正和の母親はこの場から逃げ出したい様に見える。
正和は下に向いたまま、差し出された手を、二度三度と手を振って拒んだ。
頑なに、さらにも増して反発する正和に、絹代は成す術も無く差し出した手を引っ込める。
その間、美智恵は黙ってしまったが、正和が手を振るの止めたあと、幸恵の体に横顔をうずめるようにして、恐る恐る訊いた。
「い・や?」
美智恵の一言が効をそうしたのか、今まで全身で反発を表していた正和が、かぶりを左右に振った。
父親が立ち去ったあと、今までなにも聞き入れなかった正和が、美智恵の誘いを聞いてくれた。
意地を張っていても、美智恵と同じようにお腹は空いているはず。
全てが解決したわけではないけれど、幸恵は心の内でほっとする。
絹代は見るからに困り果てているのに、家庭の内情を恥じてか、誘いに応じるか決めあぐねているよう。
けれど、頑として聞き入れなかった正和の気持ちを、少しでもほぐしてもらえたのを見てとると、少しばかり顔を緩め、幸恵の申し出を受け入れた。
「そうですか、ご好意に甘えさせてもらいます。正和、いいのね?」
正和はうつむいた顔を上げ、母親の問には知らんぷりをして、美智恵と優児の後ろに回った。
全てが解決したわけではないけれど、正和が誘いを聞いてくれたことで、幸恵は待っている優児にどこで食べたいかたずね、正和を伴ってその場所に向かった。
優児が希望した場所は見放しの良い公園で、植え込みや花壇をぬって、やや色褪せた原色に塗られたモニュメントや動物などの像が、あちこちに立っている。
昼時に合わせてか、BGMには澄んだ電子音の楽奏が流れていた。
舗道をはさんで盛土に芝生が植えられ、その上でお弁当を広げているグループが道の両脇に連なっていた。
恋人、友達、夫婦や家族連れ。
笑顔はあちらこちらで歓喜を沸き立たせ、楽しさがどの集まりにも溢れていた。
芝生が適当な広さににあいているところを探して歩き、手ごろな場所を見つけると、幸恵は敷物を広げた。
敷物を広げ終わると、美智恵をはさんで優児と幸恵が座り、向かい合って正和が座った。 幸恵は大きめのお弁当の蓋を開けて前に置き、小皿と箸を出して優児に手渡した。
美智恵の分は、正和に与えた。
誘いに応じたものの、絹代はこの場から離れたが、すぐに買い物袋をさげて返ってきた。
絹代は幸恵と向かい合って正和の隣に座り、買ってきた買い物袋から、サンドイッチとジュースを取り出して並べた。
見栄えの良い出来合いの物よりも、というよりは、見知らぬ人のものという感覚があってのことか、優児はサンドイッチに目移りしたもののおにぎりを手にとってかぶりつく。
美智恵の分は、幸恵が小皿にとって美智恵の前に置いた。
正和はといえば、まだ機嫌を直していないのだろう、母親の差し出すサンドイッチをのけて、おにぎりに手を延ばした。
見知らぬ人と一緒でいることに、子供たちはどうかな?、と幸恵は不安に思てっいたが、食べることに一生懸命で気にしていられないみたい。
正和と言葉を交わす様子はないけれど、子供達が無心におにぎりにかぶりついているのを見ていると、わずかでも満ち足りた感じをもつことができるのだけど。
家族だけでいたなら、子供たちはもう少しはしゃいでいるはずなのに。
そんな思いが誘ってしまった後悔を感じさせる。
子供が静かだと、お昼時にはちょうどいい調べが流れているのに、硬い電子音が心に染みいって落ち着けない。
幸恵は美智恵の面倒を見ながら食べていたが、一方の絹代は居場所を取り繕うように、たわいもない世間話を時たま持ち掛けてくる。
まるで、あからさまな親子の不和が、話題になるのを避けるように。
互いに家庭の内情は触れてほしくないところだから、幸恵としても少し気楽に受け答していられる。
大人同士のぎくしゃくした関係はともかく、子供たちは本当にお腹を空かせていて、用意してきたお弁当は子供たちだけで無くなってしまいそう。
お弁当は子供たちにまかせて、幸恵は絹代が買ってきたサンドイッチを口にはこんだ。
大きめのお弁当の方がが空になったところで、幸恵は小さい方のお弁当の蓋を開けた。
新しく出てきた品を見て、優児は人形に見立てた串をすぐに手に取った。
苺の帽子をかぶったイエローチェリーのお顔。
優児はそれを目の前に近付けたあと、はしゃいで苺から順番に一つずつくわえた。
一人一つづつと思い、三つ作ってきたけれど。
残り二つ。
優児がおいしそうに食べるのを見て、正和も手を出した。
苺にイエローチェリー、そして甘いアンゼリカ。
子供にはたまらないお菓子。
食べ終わった正和は、最後の一本に右手をのばした。
「正和!、それは美智恵ちゃんのでしょ!」
我が子のわがままさに、絹代は慌てて制止した。
母親の注意に躊躇した、いや、むしろ最後の一つだと気が付いたのか、正和は手に串を持ったまま美智恵の方を見た。
絹代は自分の方に正和を向かせようと、正和の左腕に手を伸ばす。
が、正和は身をよじって左手を振り、母親が触るのを拒んだ。
「岸辺さん」
正和の母親の行動に驚いた幸恵は、とっさに手を彼女の膝においた。
母親としての判断は常識からだけど、正和の機嫌が上向いているのに、ここで叱り付けては元に戻ってしまう・・・。
幸恵は自分に任せるように正和の母親に目で合図を送ると、笑みを浮かべて正和の方に向いた。
「正和君、おいしいかった?」
正和は幸恵の問に答えず、できればこれも食べたいといと串をしっかり握っている。
「正和君、美智恵ちゃんは食べたかしら?」
子供のすることだから、別に食べてしまっても咎めることはない。
美智恵は引き合いにだしただけ、正和がしたいようにしてもいい。
「んー」
でも考えているところを見ると、正和はそんなに自分勝手な子供ではなさそう。
はっきりしない正和の態度は、岸辺さんは戸惑いを隠せずにいる。
口出しをせずにはいられない思いが伝わってくるが、今は無視した方がいい。
「美智恵ちゃんは食べたい?」
「う・ん」
まだ幼い美智恵はっきりは言えないが、食べたいのには違いない。
正和も食べたいから、串を握っている。
だけと食べないのは、美智恵も食べたいと分かるから、自分が食べていいかどうか考えているから。
だとすれば、美智恵の気持ちを伝えてみたら。
「美智恵ちゃんも食べたいよね?、正和君、ちょーだい、って」
幸恵は美智恵の手を取り、その手を正和の前に差し出させた。
「正和君、ちょーだい」
小さな手が目の前に近づくのを見て、正和は握っている手を引っ込める。
幸恵はそのままで待ち続け、美智恵も手のひらをいっぱいに開いて、串を見つめている。
手も声も出したい風の正和の母親は、我が子の側にいながら成り行き関われない自分に、苛立ちを感じているのが伝わってくる。
待っている間の正和は、美智恵を見たり、差し出されている手を見たりして、視点が落ち着かない。
意地をはって目を伏せていた先程に比べれば、今は子供らしさを取り戻しているように見える。
少しして、落ち着かなかった目が串を見つめたあと、差し出されている小さな手のひらに、投げ出しぎみ串をおいた。
美智恵のものにしてあげた、という強がりからか、ふせ目かげんの硬い表情に戻ったが、口元近くであきらめ切れない指を持て余している。
「美知恵ちゃん、正和君に、ありがとう、は?」
「ありがと」
美智恵は素直におじぎをする。
母親としてみれば、人のものを取り上げることに寛容ではいられないだろう。
幸恵は胸をなで下ろした。
美智恵を無視して自分のものにしていたなら、絹代は叱りつけることになるし、そのために正和は一層態度を硬化させて、楽しむために来たのにわだかまりが大きくなるばかり。
でも父親と手をつないで笑っていた正和は、素直な優しい子だと信じたかった。
受け取った串に顔が描いてあるのを見つけ、美智恵は自分の顔の横に並べると、首を傾けながら幸恵を見上げてうれしそうに笑った。
幸恵も美智恵に顔を近づけて微笑んだ。
あどけない少女の笑顔。
美智恵は見上げていた顔をもどし、右手で持っている串を左手の人指し指でつつく素振りをしたあと、危なっかしい手つきで横向きにして苺をくわえた。
串を食べ終わった美智恵は、正和の方に向いてうれしそうに笑う。
向き合った顔を逸すのは照れたためなのか、表情の弛むことの無かった正和が横顔に笑みを浮かべている。
成り行きに関われないままの絹代は、正和が串を美智恵に手渡すのを見て、自分を取り戻すように深く息を吸い込み、取り成してくれた幸恵に頭を下げた。
幸恵は軽く会釈をして、満足している美智恵の顔を覗き込み、正和と仲良くするように言い聞かせる。
子供たちは残っていたおやつを分けあい、もう大人が口を挟む必要もない。
おやつも食べてしまうと、子供たちはそれぞれに満ち足りて少しの間休んでいたが、すぐに三人そろって駆け出した。
仲良しになって遊んでいる子供に対して、幸恵は絹代と親しく相対していたわけではなかったが。
お互いの子供の健やかさを話し合っていると、少しづつ打ち解け、日々の暮らしなども交えて話がはずむ。
そろそろ昼食も切上げ時、静かなBGMが不意に打ち切られ、午後のイベントの案内が放送されたあと、人気アニメで親しまれていた音楽が流される。
あれだけ意地を張っていた正和が、今は優児とも打ち解けている。
遊び慣れた友達のように、追い付けない美智恵をかばいながら、軽快なリズムを追い抜いてしまうほどに走り回っている。
案内を聞いた幸恵と絹代は、話し合って子供たちを放送されたイベントの会場に連れていくことにした。
幸恵は優児に美智恵を連れて戻るように言い、従う優児の後について、正和も戻ってきた。
片付けが始まると、いつもしているように、優児が小皿を重ねて渡してくれる。
正和は躊躇しているようにも見えたが、美智恵がサンドイッチの包装類をつまんでいるのを見ると、出たゴミを集めて袋に詰め、ごみ箱に捨てに行ってくれた。
素直な子供だとは思ったが、意地を張り続けたことも合わせて、歳に似合わない、しっかりしたところがあるんだなぁと、幸恵は敷物をたたみながら、その小さな後ろ姿に感心した。
夕暮れは近づく。
楽しい時間はすぐに過ぎ、家に帰る時間が近づいた。
仲良しになった子供たちは別れを惜しみ、またの機会を約束して、それぞれの家路につく。
今日という日は子供たちにとっても、幸恵にとっても、楽しい思い出にすることができたはず。

主を失うことになりはしたものの、幸恵は家庭をどうにか切り盛りして日々を過ごしてきた。
いつしか優児は幼稚園に通い始め、あれから四年も経つことに改めて気付かされる。
目の届くところで遊んでいた優児も、平時の午前中には家にいない。
  一つ違いの美智恵は、まだ一緒には行けない。
一人でいる美智恵は、また一人で遊んでいる。
時には午前中に、近所の公園に連れだって、近所付き合いの輪に入る。
居合わせる子供達と遊ぶこともあるが、美智恵は優児の帰りを待ちわびていた。
美智恵と二人で見ていた外の気色は、過ぎ行く季節とともに変わり、再び迎えた春には、二人の帰りを幸恵一人で待つようになり。
やがて優児も小学生、ついで美智恵もランドセルを背負い、二人で学校へ通えるのに瞳を輝かせていた短い春も通り過ぎた。
今は木立が葉を賑わせ、その下を歩いていく二人のランドセルを見送っている。
いずこの家とも変わらない朝の風情に、幸恵は行ってらっしゃいと振った手を下ろして両手を重ね、しばらくの間、連れ添う小さな後ろ姿を見つめている。
ランドセルを背負った背中が、同じ小学校の生徒の集団に紛れるまで見送ると、晴れやかな面持ちの幸恵はみずみずしい瞳を輝かせ、通学路から家の庭へ足を踏み入れる。
庭を歩くわずかな間に、子供が帰ってくるまでにしなければならない家事を思い並べ、笑顔で迎えるために玄関を掃いて家に入る。
こんなに気分の良い日が続いてくれればいいのに、と思ってはみるのだが。
幼稚園の頃にはとりたててということもなかったのに、小学生になると親の勉強会や父親に参加を求める学校行事などがあって、その都度に溜息の繰り返し。
よその家族と比較して、目につく違いなど考えたくなかったのに、周囲の話題は否応なく家庭の差異に目を向けさせる。
思い悩む心の内は、子供には伝えたくない。
でもいつか、理解させなければならな日が来るのは、分かってはいるけれど。
家庭に触れられるのは避けたい、と思っていても、学期末が近づくと、子供の学校での生活や夏休みの家庭の留意点について、先生と懇談を持たなければならない。
先生も義務を負って云われるとは理解できるけれど、今まで築いてきた幸を疑わせるような指摘は、できれば避けて欲しかった。
父親の愛情を望む術は無く。
だから、子供との関係には神経を使っているのに。
  懇談したあと、指摘を心の片隅に追いやれないまま家の玄関を開けると、楽しそうに遊ぶ子供達の声が聞こえる。
ただいま、と声にすれば、聞きつけた美智恵が奥の部屋から顔をのぞかせる。
美智恵は幸恵の手と体の間に、自分の体を入れるようにして寄り添うと、肩にかかる幸恵の手を両手でからめるようになで、夕食に期待して幸恵を見上た。
見つめてくれるくりくりっとした瞳に、幸恵は小首を傾げるよりもう少し傾けて微笑みかける。
幸恵が献立を一つ一つ言い並べ、どれを食べたいか訊くと、美智恵は笑い顔で応えて体を反らせ、嬉しさを表してくれる。
素直さは周囲からもうらやまれるほど。
だからこそ背負ってしまった悲運は、心苦るしく思えてならなかった。
我が子の将来を思い、再婚も考えてみたけれど。
突然他人と暮らしていくことに、馴染んでくれるかどうか。
思い悩んでみても、日々の生活追われていると、いつのまにか立ち消えてしまう繰り返し。
幾度となく考えてみても、子供達には考えも及ばないことでしかないし。
当然、親族の間ではいつまでも一人でいることを気遣い、何度か再婚を促された。
心配してくれる両親を安心させてあげたいけれど、他人をあてがわされる子供のことを思うと再婚は思いとどまってしまい、両親の希望にそぐえない後ろめたさから、今まで里帰りをしていない。
兄妹として仲良く遊んでる二人を見ていると、そう、そう思っていたかった。
孫の将来を気にかける両親の忠告に、耳を傾けたくなかったというのが本当のところ。
でも、微かに残る洋一の匂い、今まで築いてきた幸せな思い出を放り出して、新しい暮らしを生きていく自信もなかったから。
あれから月日が過ぎ、今の暮らしに親族が口を挟むこともなくなった。
一方で、まだ小学校に上がったばかりで、頼りにできるはずもない優児と、ついて慕ってくれる美智恵が、日々の生活を支えてくれる様は、毎日の暮らしの中で心の支えになってくれる。
美智恵の笑顔は、呼応して睦まじく遊ぶ優児が、不安を拭い明日への希望を抱かせてくれる。
できることは今有る幸せを信じ、子供の笑顔が続くことを願って生きていくこと。
幸恵は重い荷物をしょい込んだ外出着から、美智恵と優児と供に生きていく普段着に着替え、夕食の仕度に取りかかった。
いつものように食卓にそろう笑顔、かけがえのない一時。
食べ終えると、後片付けを手伝ってくれる優児と美智恵。
後片付けが終われば、子供は子供部屋に、幸恵はミシンの内職に。
ひとしきり仕事を終えて、幸恵はふと懇談の時の注意を思いだし、ミシン台に腕組みをのせてわずかに顔を傾け、物思いにふけった。
「夏休みの間は、お子さんとそろって過ごされる時間を、今まで以上にお持ちください。親子の絆が薄れていると指摘される昨今、どうかこの機会にお父さんにもお子さんと接する機会を増やされて・・・・」
先生の言われることも、一応理解できるけれど。
ほとんどの人はうなづき、身近な人同士で語り合っていても、話題に入れない幸恵は笑い顔で相槌を打つしかなく。
洋一さえ生きてくれていれば・・・。
幸恵は何を見るわけでもなく脇を見て、また顔を元に戻すと、溜息をついて父親のいない家庭を憂いてみる。
振り返る日々には父親はいない。
先生が指摘されるように、父親がいないのは良くないのは分かっていること。
父親の代わり・・・。
幸恵はぼんやりとして洋一の面影を思い浮かべていると あれから今まで暮らしてきた日々の中に、義父と子供たちが遊ぶ姿を見いださずに入られなかった。
そう、確かに洋一は逝ってしまった、でも・・・、ご両親は度々訪れてくださる。
ただ一人のご子息を失い、落胆は幸恵が味わったあの時よりも深く、しかもお寂しい歳月を生きてこられただろう。
なのに顔を合わす度に励まし、優児と美智恵の面倒を親身になってみてくれる。
父親の愛情と等しく、には無理にしても、義父の父親役は、少なからず子供達に良い影響を与えてくれている。
とりわけ美智恵に対しての心遣いには、幸恵は頭を下げずにはいられなかった。
幸恵は胸が締め付けられる思いに、うつむいて目をつむった。
洋一のご両親が今も大切にしてくれる絆。
感謝の念に胸に大きく息を吸い込んでみる。
ご両親に対しては、夫婦で、もちろん子供たちと、幸せな家庭の営みをおくることが一番の贈り物、なのに。
今は、思い悩む姿を、悲しみを溜めた瞳を、表にしないように・・・。
してあげられることは、頼ってあげることしか。
でも、いつまでも頼っていいはずもない。
反対に自分の両親は、気遣いよりも常識を押し付けようとするから。
と思ったところで、あれから帰郷していないことを思い起こし、幸恵は背もたれに背を押し当てて天井を見つめ、記憶を遡った。
事故当時は、無力感から挫けて里に逃げ帰りたかった。
でもそれは、洋一と共に築いていくことを望んだ家庭を投げ出してしまうこと。
そう恐れて、失意と不安に苛まれながらも、幸恵は今まで一度も帰郷せずに過ごしてきた。
しかも乗り越えられない恐れは未だにある。
それでもいつまでも帰らないままでいれば、いつかわだかまりが大きくなり、父母と疎遠になるかも。
頼れる人のいない今、帰れる故郷をも失うことになれば、それこそこれからの暮らしを危うくしてしまいはしないだろうか。
幸恵はここで嫌な思いがよぎり、フゥと息を吐いた。
両親が勧めてくれた再婚の話は、考えてみれば、洋一とのご両親との絆を切ることになりはしないだろうか。
なんて。
深刻に考えようとした自分にはにかんで、幸恵は首を横に振った。
父も母も、いつだって優児の身を案じてくれている。
子供達の健やかさを願ってくれているのに、親を悪く思うのはどうかしてる。
成長した子供達に会わせてあげれば、きっと喜んでくれるはず。
幸恵自身も連絡こそ取り合っていたが、事故以来足が遠退いていた故郷は恋しく、まして父親と一緒にいたいとも思うし、母親に甘えたいとも思う。
その一方で、父親の愛情も無く育った我が子の不憫さが目に映り、浮き立ちそうになっていた気分が再び沈んでしまう。
先生の言われるとおり、子供には父親が必用だと考えをめぐらせば、再婚・洋一・両親・洋一のご両親・優児・美智恵・自分・・・と、迷いの断片がいくつも頭をもたげてくる。
優児も美智恵も今の暮らしに不満を言わないのに、悩みを思い並べて落ち込むのも嫌。
今は洋一から離れたくない。
幸恵は無理矢理頭を切り替え、山積みの布地を手に取り、ミシンのスイッチを入れた。
その翌日、幸恵は故郷にその旨を伝える電話をかけた。
今までは、それぞれ身辺の話題を提示し合うだけで、帰る帰らないの話しもしなくなって久しい。
電話に出た母は、娘からの意外な提案に驚いていたが、電話の向こうで父にたずねた後、嬉しさを表してか、大きな声で繰り返し帰ってくることを喜んでくれた。
もちろん側で話しを聞いていた優児も美智恵も、見知らぬ地に旅するのは興味津々で、二人ともはしゃいで休みを待ち焦がれた。
月日が過ぎて一学期の終業式、そして夏休み。
八月の十日から二十日までの里帰り。
優児も美智恵も楽しみにしていたその日が来て、身仕度を整え一家そろって出発した。
船に乗ることも、そして父母に会うのも、今までの経緯からどうしても胸につかえるものがあるけど。
無事船は郷里の島に到着し、桟橋まで迎えに来てくれた父母は、大きくなった優児を見て大いに喜んでくれた。
なによりも女手一つで育てていながら、初対面の祖父母に優児は尻込みすることなく前に進み出て頭を下げ、寄り添う美智恵も笑みを浮かべてお辞儀するのに感心して、大変な歓迎のしよう。
今までも連絡は取り合っていたが、久しぶりの再会で、お互いの息災の確認に長い間かかってしまった。
一段落すると、祖父母は改めて孫達を家に招いた。
森林が覆う小さな島、一つだけの港とそこを囲むように漁師町があり、見上げる先には谷間の斜面に、僅かばかりの屋根が見える。
一行は漁師町から波寄せる海岸沿いの防波堤に出た。
しばらく歩くと河口に突き当たり、対岸の防波堤より下に、フジツボや海草のはりついた岩肌が見えている。
海岸沿いから陸に折れ曲がった先に橋が架かり、その下が砂地になっているのは、干潮時だからだろう。
橋を渡るとまた海岸沿いに出る。
一行は久しぶりの話に興じて声も高らかに歩いていく。
大人達は積もる話に夢中になろうとするが、優児と美智恵は見知らぬ地にはしゃぎ、かくれんぼをまじえたおっかけっこをしたりして、先に行ったり遅れたりしていなくなることがしばしば。
空気が変わったため、元気を持て余しているのだろう。
ちょっと油断した間に優児が防波堤によじ登り、後を追って美智恵がよじ登る。
母と世間話をしていた幸恵は、防波堤に立った美智恵に、慌てて注意を与えながら近づくと抱いて降ろし、優児にも降りるように促した。
優児は少し得意ぎみに防波堤に立っていたが、幸恵の急いだ対応にはっとして立ち止まり、促されてすぐに防波堤に腰掛けて下に降りた。
子供たちが列に戻ってくれたので、大人達は話の筋を遡ろうとするが、話が前後して噛み合わない。
さっきの話題を思い出していると、優児はまた列を離れ、その後に美智恵が続く。
いつになく先走りする優児を追って連れ戻すと、幸恵はつい小言を口にしてしまう。
そばで見ていた父母は、笑顔満面に子供の至らなさを寛容に受け止めて、慰(イサ)めてくれた。
しばらく歩くと道は少し上り坂になり、海辺から少しづつ遠ざかる。
見上げる坂の上に、網が立て掛けて乾してあるのが見え、錆びたトタンのひさしがのぞく。
思い出のなかに見慣れた漁師の家の情景。
「ほーら、ついたよー」
祖母は歩きながら腰をかがめ、優児に顔を近づけながら指を指す。
一瞬立ち止まった優児は見合った美智恵の手を引いて、歓声をあげながら幸恵の育った家に駆け込んだ。
元気良く走っていく小さな背中に、父も母も子供の健やかさを喜んでくれる。
温かく迎えてくれる家族に囲まれ、幸恵は故郷に持ち続けた不安を拭い、安堵の念を抱くのだった。

過ぎていく日々、祖父母について甘える優児と美智恵。
出迎えた父母を久しぶりに見たとき、顔の皺に過ぎた月日を感じたけれど。
孫と語らう父母は、笑いにより一層皺を増やしているものの、活気付いて若々しさを取り戻しているように見える。
子供たちと過ごす故郷の日々は、幸恵にとっても、遠く離れて幸恵と孫を思い続けていた父母(チチハハ)にとっても、心和む平穏な日々に違いなかった。
もちろん、誰一人として事故に関わる話をする者はいない。
幸せを壊されたあの日を、呼び覚まさないことを暗黙の了解にして、ただ、今目の前にある子供の笑顔に未来が必ず有ると、誰もが信じていたかった。
過ぎ行く平穏な日々、誰もがこのまま続くと信じていたかったのに、思いもよらぬ事件が起きようとは・・・。
それが、優児と美智恵の行く末を暗示していたと、この時誰が予測しえたであろう。
夏休みも過ぎていき、家に帰る八月二十日が近づいた。
そろそろ帰る仕度を、と幸恵は準備にとりりかかるつもりでいたが、天気予報は台風の接近を告げている。
十九日には海が荒れ始め、二十日には連絡船が欠航して、帰ることができなくなってしまった。
やむなく帰る日を延期して、今少し両親の世話になる。
といっても、荒れ狂う風と降りしきる雨にあっては、家の中で台風が通り過ぎるのを待つよりしかたない。
毎日のように、日のある間は海岸で跳ね回っていた優児と美智恵も、家に閉じ込められてしまっては元気の向けどころがない。
いつもは遊び相手になってくれる母も、祖母を相手に世間話ばかりして、家にいるときとは勝手が違う。
楽しいことはないかと子供達は家の中を走り回っていたが、祖父が土間で漁具の手入れを始めるのを見つけた。
土間の地べたに蓙を広げた上に胡座をかき、束ねた網を膝にかける。
束ねた網をかいくり、綻びを見つけると摘み上げ、穴が開いた網の一目を編む。
物珍しさに、優児と美智恵は祖父の向かいに正座して、器用に動く手を見入った。
ランニングシャツに履き古したズボンの祖父と、短パンにテイシャツの優児。
いかにも都会の子供が田舎の人を、物珍しそうに見ているように映る。
60前の祖父は頭髪の白さばかり目立ち、そこそこ歳がいっているように見受けられるが、肌着一丁の下は筋骨隆々として、未だ現役の海の男そのもの。
使い慣れた網に精魂込めるように、よじれようとする網緋を素直に這わせ、結び目を造るのに肩から腕にかけて力を込めて引っ張り、長さのある網に手を入れていく。
網を手繰る手元を見つめて、何か話だす風でもない。
優児は蓙の上に並べられた、見慣れない漁具についてたずねたかったが、熱心な仕事ぶりに臆したのか、いつもの先走りもなく祖父の仕事を見入っている。
網の手直しを続けた祖父も、一休みにと網を膝において傍らの湯飲みに手を伸ばし、少し口に含んで喉を通すと顔を上げた。
漁を生業にしてきた力強い男らしく、低い声で優児に話しかけた。
「面白いか?」
「うん」
「道具はな、使うだけではだめなんだ。使わせてもらうことに感謝して、痛んだらその度直しておく。こうやって日々手をかけていれば、道具をよく知ることもできるしな。道具の手入れを怠らないことで漁師も続けられる」
「へー、じゃぁ、ここにあるもの全部知ってるんだ」
「当たり前だ」
「じゃ、それは?」
「これか?」
優児の質問を聞いた祖父は、指差す銛に手を伸ばし、得意げに話して聞かせる。
「これはな、見て分かるとおり持つところが長いだろ。海に潜って魚を突くのは短いこっちのやつだ。これは釣った魚が大きすぎて網ですくえないとき、魚に突き刺して船上に引き上げるのに使う。船の上でこの銛を握るときは胸が躍るものだ。分かるか?」
そう言った後、祖父は手に持った銛を元のところへ置いて、網の手入れを再開した。
先程はひた向きに手元を見つめていた祖父が、手入れの合間に優児の方をちらっちらっと見る。
祖父の手の動きをしばらく追っていた優児は、顔を上げると祖父と目があった。
見つめられて言いだしにくくなったのか、優児は言葉を飲み込んでしまったが、祖父は手を止めてそのまま少し待ち、また手元に視線を落として手を動かす。
また少しして、祖父は優児を見た。
「訊いてもいい?」
言いだしにくそうにしていた優児は、そこでようやくたずねることができた。
「いいぞ」
許しを得た優児は、両手をついて身を乗り出して話に聞き入り、祖父も嬉しそうに応えていた。
優児のそばにいる美智恵は、話よりも祖父の手が器用に動くことの方に関心があるのか、傍らで大人しく見つめている。
漁具を手にする祖父は、女の子である美智恵に気にかけているそぶりもなく。
仕事の手を止め、タバコを手にして大きく吸い込み、ゆっくり煙を吹いてから、意味ありげに優児を見つめた。
「こんな日に漁に出るのは馬鹿げているが、魚を捕らなければわしらは暮らしていけない。多少波が立っても出ることもあれば、晴れていても急に雲行きが変わり、突然高波をかぶって海に落ちそうになることもある。だがそんなことを恐れていては漁師はやっていけない、投げ出されれば命を落とすことになるかもしれないが、荒れる波を目の前にしながらも恐れることなく立ち向かう。それが男ぞ」
「ふーん」
祖父は海の男たる心掛けを自信たっぷりに話し、優児も共感を持てたのかゆっくりと相槌を打っている。
「今時男気なんて、古くさいだけでしょうに」
少なくなったお茶を注ぎ足しに来た祖母が、呆れたように口を挟む。
「最近の若い者は安住を求めてつまらん。男なら冒険心や度胸を持っていないとな」
「冒険もいいですけど、優児には勉強の方を頑張ってもらわないと」
「えー」
「話の分からん奴だ」
話に水を差されても、祖父はニッと笑って見せると、優児も考えていることは同じと言わんばかりに、声は出さずに笑い返した。
風雨に洗われ、風に煽られる外の気色は痛ましくも見えるが、家の中にいる子供達と、子供たちを囲む大人たちの顔からは、笑顔の絶えることのない一日が過ぎていく。
台風が通り過ぎた次の日は、まだどんよりとして風もあり、打ち寄せる波が時に防波堤を越えていた。
連絡船の運航再開までには、今少し猶予が必要だろう。
もっとも幸恵の心中は、夜の間荒れ狂った嵐が耳に残り、船に乗る気にはなれなかった。
今しばらく様子を見て・・・。
風に吹きさらされる外の気色を見ながら、幸恵は慎重に帰る日を待つつもりでいた。
台風が通過している間は、家から誰も出ることができなかった。
その間、元気を持て余している子供たちを家に引き留めて、大人しくしているように言い聞かせる。
何ごとも無く台風が通りすぎたことに胸を撫で下ろすが、子供達を外で遊ばせるのには、まだ気が引けるところ。
目を家に戻せば、台風のために買い物に行けなくて、子供達のお菓子が残り少ないのは、気にかけてあげないと。
幸恵は母親と相談して、子供を連れて島の商店に行くことにした。
都会にいると、風の強い日には家の外に出る気になれないけれど。
海風が吹き抜ける小さな島にあっては、吹く風など気にかけてもいられないが、はだけるスカートの裾を嫌って、幸恵は母から絣のモンペを借りて履いた。
モンペの裾は足首をゴムで締めつけているが、時に吹きつける強い風は、まくりあげてしまいそうなほどに布地をはためかせた。
優児は青の短パンに黄色のティシャツ、美智恵は白のワンピース、どちらもいつもの普段着で、風にあおられて臍がのぞくと、二人とも服を押さえてはしゃいでいる。
子供と出かけるには風の強さが気になるところ。
  多少の風なら気にしないつもりでいても、子供の有様から子供は留守番を、と考え直す気になる。
子供たちにしてみれば、吹いている風は遊びの一つくらいにしか思っていないらしい。
幸恵は家の出口で考え込んだが、先走る優児は美智恵を引き連れ坂を下っていく。
子供達を追いかける道すがら、辺りは昨夜の風雨を物語るように、ごみ箱をひっくり返したような散らばり様(ヨウ)。
子供達が先走しるのを追って幸恵は細い坂道を下り、優児が何かに気を引かれてち止まっているところを右手でつなぎとめる。
側で兄を持っている美智恵にもすぐに左手を差し出し、幸恵は子供達と連れだって港町に向かった。
川沿いや道沿いに出ている島民たちは、壊されてしまった損を愁いながらも後片付けをし、その中に混じって、ゴミを片付けている父親が、痛んだ漁具を手にとってため息をつくのが見えた。
道すがらの小さな川の橋は、さも田舎のもののように橋の両横に欄干は無く、全体にセメント造りで橋の両横には土手がつけてある程度のもの。
欄干なら子供の背の高さぐらいあるのに、その土手は道から20cnほどの高さしかない。
ふだんなら橋から川底は大人の身長程、しかも砂地が濡れる程度の水が川底を流れていた。
小さな島の川だというのに、雨が止んでしばらくした今も、勢いよく水の流れが下っている。
川は海に真っすぐ伸びていて、橋から下流まで見渡すことができる。
流れのうねりを聞けば恐ろしくもあるけれど、島の嵐の後にはいつものことと、幸恵は気にとめることなく橋を渡った。
港町でお菓子などを買った、その帰りのことだ。
幸恵親子は、この橋を渡れば、あと少しで家に着くというところ・・・。
急に川の下流から、優児を呼ぶ声が聞こえてきた。
幸恵親子は橋の上に立ち止まり、下流に向けて聞き覚えのある声の主を捜した。
橋から河口に向かって川沿いを見渡していると、下流の方で誰かがこちらに手を振っているのが見えた。
川沿いる父が、他の島民と供にこちらに向かって手を振っている。
「ほら、おじいちゃんよ」
幸恵は応えて手を振りながら、腰をかがめて優児に指差して教えた。
祖父を見つけた優児は、大きく手を振ると、調子付いてつないでいた手を離す。
祖父に恰好つけてみせるように、橋の土手の上に乗り、平均台を渡っているように両手を広げると、バランスをとって歩いてみせた。
「危ないから降りて。落ちたらどうするの?」
「だいじょうぶだよー」
幸恵の注意を笑って聞かなかった優児。
危ないから降ろして、と幸恵は胸の内でつぶやいている途中だった。
強い風が吹き抜け、優児は風に揺らされて足を滑らせ、突然幸恵の視界から消えた。
ザバン!
濁流の中に掻き消される優児が落ちた音を聞いて、幸恵は息を飲んだ。
それから一歩足を踏み出すまでに、息を吸い込む時間があった。
ところが美智恵は優児が落ちると同時にその後を追って駆け出し、土手を蹴って流れに向かって飛び込んでしまった!。
ドボーン!
飛び込ん-水面に沸き立つ白い泡は、急な流れに飲み込まれすぐに掻き消されてしまう。
晴れた日には子供は川底の砂地で遊んでいたというのに、増水した川はうねりも荒く、小さな子供の体は流れに引き込まれて姿は見えない。
事件を目撃してた周囲の人影は叫びを声を上げ、一斉に動きだし、川のほとりを流れに沿って慌ただしく駆け出した。
今見た現実が信じられなかった幸恵は、橋の上から川の流れの中に駆け抜ける記憶に見ることも追いつかず、思い悩む全てがはじけて考える力を失い、ただ騒がしさを追って、ゆっくりと歩き出す。
「美智恵ー!」
水面に浮かんでいる美智恵を見つけた父が、川下の方でけたたましく叫んでいるのが聞こえてくる。
「溺れているのか?」
河辺りで呼応した島民が問い返すと、父はかすれんばかりの声を張り上げた。
「優児は、男の子はそっちでみつけられないかー!」
「一人じゃないのか?!。二人か?!」
「そうだ!!」
無論父の血相は見るまでもなく、状況が伝わり行く島民たちは、事態の深刻さを理解するにしたがって緊迫の度を高めていった。
平地の少ない小さな島は勾配が急で、加えて人工的な川は直線にしてあり、雨が降れば島の雨水を一気に海に注いでしまう。
急流に押し流される美智恵の姿を追って、父は勾配のあるコンクリート造りの堤防を、転げ落ちるように追いかけて行く。
「美智恵!。優児か?、優児を見つけたのか?」
川のうねりの中に見えた美智恵の姿、何か黄色い物が絡まるよう見えているものは、優児が着ていた服に違いない。
「船を出せ!、溺れてしまう!」
「陸に揚げてあるからすぐには出せん!」
父の慌てようからの嘆願だと知れるところだが、島民は冷たいと分かるも現実を叫ぶしかなかった。
人の足は必死になって川沿いを追いかけてるが、小さな島にあっては留まるところも無く、急流は瞬く間に海に注がれ、美智恵は河口から海に押し流されてしまった。
流されることはなくなった、が、事態は変えって深刻になった。
太平洋の小さな島にあっては普段でも波は高く、まして台風からの吹き返しで波が防波堤を越え、岸辺に近づくのも危ぶまれる。
台風に備えていたためすぐに動かせる船もなく、たとえ出せても操舵もままならないだろう。
波に見え隠れする幼い子供を見つめ、祖父は、島民は、打つ手も無く河口前の橋で立ち尽くしてしまった。
そのはるか後ろ、足取りも絶え絶えの幸恵が歩いていた。
島民が見つめる荒れた海には、波間に見え隠れする美智恵はいつのまにか衣服も無く、素肌の肩で首をもたげて辺りを見回している。
優児は意識を失っているのか、黄色の布地が海面に見えるだけで、状態は確認できない。
年端のいかない少女が、自力で、いや兄を抱えていつまで海に浮かんでいられるだろうか。
策を講じることもできず、途方にくれている大人達の不安は悲観に変わりゆく。
波間に見え隠れする美智恵は、河口を離れて防波堤沿いに流されているのか。
この海の荒れようでは、誰一人として幼子が泳いでいると見る者はいない。
けれど、少し沖にあった小さな体が、しだいに防波堤に近づいてくると、まさかと誰もが思い出す。
しかし、盛り上がる波は容赦なく防波堤に叩き付けられ、砕けて波しぶきを上げている。
島民の一人がこの状況から想像したことを、口ごもらせてつぶやいた。
「まさか泳いで・・・、防波堤に這い上がるつもりじゃ・・・」
「あがってきてほしいさ、だがこの波飛沫にどうやって防波堤に掴まる!」
波の荒れ様を見つめていた父は、怯えたように甲高く叫び声を上げると、いても立ってもいられず駆け出した。
坂を駈け下りゆく背を見ていた島民も、慌ててその後を追う。
背丈以上に上下している海面は、美智恵の自由を奪うには充分すぎる。
にもかかわらず、波に揺れながらも美智恵は防波堤のすぐ側まで近づいていた。
そのため、陸からは美智恵の姿が隠れてしまい、島民たちの不安は悲痛さも伴いだす。
打ち寄せる波は防波堤にぶつかり、砕けて海に押し戻され、あるいは防波堤を越えて陸に打ち上がっている。
こんな波では、人が這い上がれないのは誰もが理解していたが、それでも姿の見えない美智恵の元に急ぐ大人たちは、なんの策も捻出できないまま浮足立っていた。
繰り返し押し寄せる波は、美智恵の目の前で、容赦なく防波堤に打ち付けられている。
海に投げ出されて溺れているなら、うろたえて手足をばたつかせるのが人の常なのに。
ひどく波立つ海面に浮かんでいる美智恵は、水鳥が羽根を休めるように、波に揺らされるのに身をゆだねて身動きを止めていた。
このまま波に押されて防波堤に近づけば、何度も体をコンクリートにぶつけてしまうところだが、美智恵は繰り返し寄せてくる波に逆らって、防波堤との距離はなぜか縮まらない。
美智恵は顔を傾け口を歪めながらも、防波堤に砕ける波を見つめている。
波は打ち寄せると共に盛り上がらせて防波堤を拍り上がっていくが、より大きな波にはより大きな盛り上がりを伴って海面を隆起させ、防波堤に飛沫を上げながら越えていく。
防波堤に見える波の動きを美智恵が見ているとしても、稚い美智恵が状況を理解できるはずもない。
優児を引き寄せているはずの美智恵は自由もきかないはずなのに、防波堤に向かって近づいていく。
防波堤の手前の盛上がりが大きくなる辺りで沖の方を向き、海にもまれながらも盛り上がる波を見つめた。
そこで二度三度波をかぶっていたが、海面が美智恵の目の前で一際大きく拍り上がってくる。
海の盛り上がりが次第に高くなるのを美智恵はやりすごし、防波堤にぶつかった波の盛り上がりに身を委ねる。
防波堤にぶつかった波はしだいに海面を上昇させて防波堤から空に向かって飛沫を立ち昇らせても止まらずに、海水の流れとなって防波堤を洗う。
波が洗い流した防波堤の上に、忽然と美智恵が姿を現した。
美智恵は防波堤に優児を横たえたままにして、先に防波堤の下の道に降り立った。
直ぐに次の波が防波堤を洗い流す。
美智恵は優児の手を握ったままでいたが、波に驚いて防波堤の下に足を垂れ下げ、優児に覆い被さった。
防波堤を洗い流す波は、横たえられた優児を包み込んで漂わせ、波間に引き戻そうとする。
美智恵は防波堤に太股をこすり付け、優児を抱え込んで波の勢いをしのいだ。
波が引くと、髪から顔へ下たる水を拭いもせず、美智恵は優児を陸に向かって引っ張り、宙に浮いた優児の体の下に自分の体を入れた。
おんぶをしよとするも、小さな体はよろけていたわしい。
美智恵は防波堤から少し離れた傾斜の有る場所に、うずくまるようにしゃがむと優児を横たえ、泣き叫びながら優児の体を揺すった。
「お兄ちゃん!、お兄ちゃん!」
髪から流れ落ちるしたたりは絶え間なく頬を伝い、やがて髪からの雫が絶え絶えになっても、頬を伝う流れは止まらなかった。
すぐに駆け付けた祖父は、美智恵を離してぐったりしている優児を抱き起こしそうとした。
けれど美智恵は、差し出される漁師の手を振り払った。
思わざる事に、祖父はびくりとして美智恵の後ろ姿を見つめたが、何か恐れを成したように後ずさりをする。
眼下には着ていた服を無くし、下着一枚で小さな背を丸めた少女がいるというのに、祖父の顔は突然こわばった。
父を追って、防波堤に駆けつける島民は次第に増えていくが、当の幸恵はまだかなり後ろを歩いていた。
歩むのはの遅くとも、海が次第に近づいてくる。
吹き抜ける風はかなり強く、モンペは風をはらんでばたばたと振るわせ、うつろな幸恵の体をよろめかすには充分すぎていた。
遙か後ろを歩く幸恵には、目の前さえ虚ろに映り、空白化した心中は外界と離れて、吹き抜ける風が微かに運んできた美智恵の叫び声も、すぐに判然としなかった。
?
何がどうしたというのか・・・。
防波堤に近づくと、聞き覚えの有る声が確かに聞こえてくる。
「お兄ちゃん!、お兄ちゃん!」
一瞬耳を疑ったが、まさに美智恵の声。
幸恵は立ち止まり我が耳を疑ったが、すぐに無我夢中で走り出した。
次第に駆け付ける島民たちは、海に漂っていた子供の姿が今ここに有ることに驚き、遠巻きにしたまま、何を成すべきかも思い付かずに立ち尽くしている。
その中で、何か物の怪にとりつかれている物を見据えるように、祖父は仁王立ちしたまま美智恵には近づけないでいた。
その眼下の美智恵は、何度も優児を呼び続けいる。
人垣は河口から海岸沿いに離れたところにできていて、堤防を駆け降りてきた幸恵は河口で立ち止まり、人垣を目にすると不安を飲み込んだ。
優児も美智恵もここからでは姿は見えないが、人垣の向こうから優児を呼ぶ美智恵の声が聞こえてくる。
聞こえる美智恵の声、我が子の姿を求めて走り寄ると人垣をかきわけ、幸恵はその前に出た。
目に入ったのは、立ち尽くしている父と、ぐったりしている優児を必死にゆすっている美智恵。
幸恵は父を押しのけるようにしてその前に出、美智恵の横にしゃがんで優児を抱き抱え、優児の頬を二回、三回と立て続けにピシャピシャ叩いた。
「優児ぃ!、優児ぃ!」
幸恵の必死の呼びかけに、優児は力無く反り返っていた首を、頭を支えるようにゆっくりと起こし、うっすらと目を開けた。
「優児!」
「お兄ちゃん!」
優児の両頬に両手を添えた幸恵は、顔と顔を付き合わせ、我が子の無事を信じようとしている。
美智恵は幸恵の横顔に顔を付けて、目を開けた優児を見つめている。
父は何か面白くない顔をしていたが、孫の無事を見て我に返り、仁王立ちの肩の力を抜いて幸恵に近づいた。
取り巻いている島民は、息を吹き返した子供に胸を撫で下ろし、口々に幼い美智恵に不似合いな有様に、不思議がったり感銘したりしていた。
とりあえずは医者へ。
息災に安堵して早々に家に帰り、塩気を落とすために風呂に入る。
突拍子も無いことで、人伝えに聞いた祖母は慌てもしたが、急いで風呂に入れる用意をする。
「まだぬるいけど、じきわくからゆっくり温もりや」
風呂の火を見ながら祖母は気遣って声をかける。
濁流に飲まれ、荒れる海を漂った恐怖、それは美智恵にしか分からない。
川に落ちてすぐに意識が遠ざかった優児は、その後のことは分からない。
ただ、意識を取り戻したとき間近に見えた、目を見開き見つめていた母親の必死の顔。
涙を溢れさせ悔しさとも思えるほどに、顔に力を込めて目を細めていた美智恵の顔。
なぜ自分がこうしているのか思い返してたどった記憶。
それらから状況を理解したとき、絶えようもない不安に襲われ、震えが止まらなかったという。
幸恵は小言の一つも言いたくもなるけれど。
腰掛けに座っている優児の背は丸く、しょんぼりして小さな体が一層小さく見える。
いまだ不安を拭い切れない様(サマ)に、小さく溜息をついて湯船のお湯を手桶に汲み、その小さな背に流しかけた。
簀の子の上で膝っ小僧立ちに、優児の背中を両手で上から下に、下から上に洗う美智恵は、もう普段の顔に戻っている。
自ら川に飛び込んだ美智恵は、優児と一緒にいたかったと繰り返すばかりで、あの濁流の中でどうして優児を見つけられたのか、どうやって陸に上がったのか話してくれない。
小学校に通い始めた女の子に、詳しく説明しなさい、というのも無理なことかもしれないけれど。
いつものように賑やかさの無い風呂場も、湯船からは湯気が上がりはじめ、風呂場の空気を暖めてゆく。
頃合を見計らって、幸恵は声をかける。
「美智恵ちゃん、もういいでしょ?。入ってぬくもろぉ」
「うん」
幸恵は手桶にお湯を汲み、美智恵に手渡した。
受け取った美智恵は、少しずつ優児にかけ、身体を洗った石鹸の泡を流した。
優児の身体から泡が消えると、幸恵は先に湯船に入った。
美智恵も入ろうと湯船に手をかけたが、優児は座ったまま動こうとしない。
「優児君」
美智恵が気にして待っているのに、少しして幸恵は呼んでみる。
でも、優児は動かない。
美智恵は動きを止めて見つめていたが、向きを変えて優児の真ん前に立つと、両手で優児の右手を持ち、かがみ込むようにして引っ張った。
「お兄ちゃん」
多少つんのめりそうになりながら、ようやく優児は立ち上がる。
付き合わす顔は、一方は笑顔で見つめ、一方は精彩もなく、向ける顔がないようにそらしてしまう。
でも美智恵は、そばにいられることが嬉しいように、優児の腕を小脇に抱えるようにして湯船に入ってきた。
親子兄妹で身体を寄せ会えることで、幸恵は不安を拭えたことを確認しようとする。
我が子の健やかさの確認に、うつむく優児の小さな肩を両手で包むようにして起こし、ついで美智恵の背に右手を回す。
近づいた美智恵の嬉しそうな顔を見ると、幸恵は気掛かりに答えてくれそうに思い、もう一度訊ねた。
「美智恵ちゃん、もう一回聞いてもいい?、どうして川に飛び込んだの?。怖くなかったの?」
「うん・・、だって、お兄ちゃんいなくなったら、美智恵一人になるから」
「それだけのことで?」
「お母さんお兄ちゃんがいなくてもいいの!。兄ちゃんいがなくなったらいやァー!」
突然のことだった。
見つめていた瞳に涙を溢れさせ、美智恵は優児にしがみつくと、堰を切ったように泣き出して優児の方に顔を背ける。
今までいつもの美智恵を保っていたのは、無理をしていたからだろうか。
幸恵はまばたきを忘れて、顔を少し左右に振りながら、ただ美智恵を見つめることしかできなかった。
涙を流す美智恵は幸恵に反発してか、背けた顔を優児の身体にこすり付けるようにして目をつむっている。
泣き続けていることで、時たましゃくる美智恵の身体が湯船に波紋を広げている。
聞いてははならないことを聞いてしまったつもりはないが、広がる波紋は幸恵の心をも揺らせていく。
幸恵は美智恵を見つめることができず、波紋の広がりと供に、心の内に広がるものを押さえようとしていた。
幸恵は熱くなる目頭を洗い流そうと、緩慢な動作で両手で湯をすくおう顔を傾けたその時、湯船を絶え間なく揺らす波紋が紛れていることに気が付いた。
息につまる美智恵が時たま揺らす波、他は・・・。
小さな揺れがどこからわくのか、その出所を探した幸恵は、小刻みに肩を揺らしている優児に目をとめた。
優児が震えている。
美智恵が悲しみをはじけさせて、優児は再び不安に襲われているのだろうか。
失うことへの恐れ、嫌というほど味わったはずなのに。
もしかしたら、優児も美智恵も失っていた。
身体から血の気が引いていく幸恵。
美智恵と優児の広げる波紋は絶え間なく湯船を揺らし、幸恵の心の内さえも揺るがせてゆく。
胸に張り詰める不安は、どうしようもなく目から溢れ、優児と美智恵を滲ませる。
優児と美智恵が遠ざかる恐れを感じた幸恵は、倒れかかるように二人を抱きしめた。
「一人は嫌よね。みんなで、みんなで生きていたいよね」
二人を抱きしめても震えは止まらず、今ここに生きている確かさをすぐには持ち得ない。
寄せ合う肌は互いに震え、思いは同じだと伝えあえる。
顔を背けていた美智恵も、顔を起こして幸恵の背に手を回し、優児と供に抱きしめてくれる。
ついで優児も幸恵にしがみついた。
確かめ合う家族の絆。
もう問い詰めることは無い。
ただ、これからも三人そろって生きていたい思いが胸の内にに満ちていた。
外で風呂の火を見ていた幸恵の母は、話しの成り行きにいつのまにか立ち上がり、右手の甲で左の頬右の頬と涙を繰り返し拭っていた。
湯加減を聞いておかなければと思っていても、溢れる涙にいても立ってもいられず、声をかけないままこの場から足早に離れた。
家に上がり込んだ母は、一人居間で胡座をかいている父の隣に、涙を拭きながら座り込む。
事故は済んでしまったことなのに、家に戻った父はの表情は硬く、右手に吸わないタバコを挟んで膝を掴んでいる。
母は涙を拭きながら、今しがた風呂で聞いたことを、口ごもらせて話したが、父はよそに目をやってしまう。
「分かってる」
父のすげない返事に、母は一層表情を高ぶらせ、今まで幸恵が育ててきたこと、美智恵が仲睦まじく慕っていること、優児を助け上げてくれたことを並べ立てる。
言いたいことはあるというそぶりの父ではあったが、母が話し続けている間は黙ったままで聞いていた。
話が途切れると、父は手に持ったタバコを口に運んだが、火がついていないことに気がつくとタバコを折り曲げて膝に押しつけ、そこここに顔を動かして目のやり場を探し、聞き入れたくない風で相槌を打つ。
「分かってる」
このあと母はうつむいたまま何も言わなくなり、何かやりきれない思いの父は黙りこくって、母の傍らで折り曲げたタバコの始末に手を焼いていた。
その間に幸恵は風呂から上がり、子供たちの体を拭く手助けの声が伝わってくる。
父の耳にも、母の耳にも、幸恵の声は届いているはずなのに、二人は座ったまま動こうとしなかった。
そろそろ着替えも終わる頃、父は風呂の気配を気にかけて、胡座のまま肩越しに振り返ってみる。
視線を交えないようにしたのは、母が動くだろうという予測があったからだが、反して動き出さないのに煮えきれず、前に向いて右肩を落とした。
幸恵が風呂場から出ても動き出す気配がないのに、父は顔をしかめて母の方に向き、一息吸い込んだのだが。
風呂場との行き来につかっている下駄は聞こえても、聞き慣れた風呂上がりにはしゃぐ声は聞こえない。
呆然としていたあの日、濁流に飲み込まれた今日。
失う恐れをまた蒸し返そうとするのか。
履き違えられた運命に怒りを向けても取り戻せはしない。
分かっていても、怒りを向けたい心境を追いやることができずにいたが、沈んだ空気に感情に走ろうとしていた父は、罰が悪く感じて身をすぼめ、母に寄り添った。
正座の膝に両掌を揃えている腕を右手で優しく掴むと、押し上げて立ち上がらせようとする。
うつむいていた母は、顔をのぞき込む和らいだ父に素直に従い、髪にそして目の下を、少し折り曲げた人差し指の横で撫でて、身だしなみを気にしながら急ぎ足で居間を出ていった。
本土に近づいた台風は、スピードを上げながら急速に衰え、やがて弱い低気圧へ。
翌日には晴れ上がり、連絡船も運行を再開され、島の暮らしはいつものように活気を取り戻す。
ただ、幸恵の周囲には、まだ回復の兆しはあらわれていないけれど。
帰る予定の日が過ぎていて、幸恵は持ち帰る荷物を支度しても、手伝ってくれる母との間でさえ、指示と返事程度の語らいしかなかった。
優児は相変わらず沈んだままで、表に出てもうずくまったままで動かない。
美智恵は側を離れず、砂に絵を書いたりして、優児の元気が戻るのを待っている。
父は島の人達にお礼に回っていた。
家族揃って過ごす最後の夜も、言葉少なに過ごしていた。
一日置いた早朝、幸恵は故郷の家を出た。
荷物は幸恵と父母が分け合って持ち、美智恵は優児の腕にしがみついて、海辺の道を物静かに歩いた。
桟橋に出た幸恵は、荷物を父と母から受け取り、足下にまとめた。
まだ気がかりがあるように、少し離れて並んで見送る母と父に、幸恵は近づいて分かれを惜しんだ。
「せっかく帰ってきたのに、あんなことになってごめんなさい」
「ん」
「お父さん、元気で」
「ん」
「お母さんも」
「お前も気を付けてな」
それからの言葉を続けられず、幸恵は父母の顔を交互に見つめ、語らいはないかと待っていた。
他の乗客は先に乗り込んでいて、幸恵の父母以外に見送る者もなく、海風が吹き抜ける桟橋は別れもともなってどこかもの寂しい。
運行時間が近づいて、乗り降り口に降り立った係員は、出向に備えて船への搭乗を促す。
幸恵はゆっくりとした動作で、父母から見つめながらも向きを変え、手荷物を持ち上げると連絡船のタラップを歩いて上がった。
幸恵親子は桟橋側のデッキに立ち、桟橋で立ち尽くしている父母を無言で見下ろした。
やがて出向の時刻になり、係員は収納されるタラップに注意をはらい、桟橋と連絡船を繋いでいたロープをほどいて船上に投げ上げる。
動力のうなりが急に大きくなると、連絡船は徐々に桟橋を離れていく。
幸恵はこの場にいることに理解も無いように、桟橋で立ち尽くしている父母を見つめていた。
未だに沈んだままの優児は、なんの挙動もみせないでいる。
側につきっきりの美智恵は、この場で切れてしまいそうな絆を繋ぎ止めるように、優児の肘を持ち上げて振らせ、もう片方の手も挙げると、桟橋の祖父母に向かってゆっくり振りだした。
美智恵の振る舞いに、幸恵も何気なく手を挙げて小さく振る。
桟橋に残る父母も、肩口で手を振りだす。
お互いに手を振る姿を見つあい、離れることに寂しさを感じあって、一層大きく手を振りだす。
「また帰ってこいよー!」
「どんなことがあっても挫けたらいけんよー!」
繰り返す呼びかけに、幸恵はいつしか涙ぐみ、声にならないまま手を振り続けていた。

あの日、急な呼びだしがなければ、度重なる悲運に巡り合うこともなかった。
別れ、そして出会いは、その後の生き方を、予期せぬ道へと歩ませてしまう。
恵まれない家庭を一人護っていると、ふと思い返すあの時のうつむいた正和を。
父親に連れられた微笑ましい家族は、母子だけで暮らす幸恵にはうらやましく映った。
そのすぐ後、急な呼出しから呼び止める我が子を振りはらい、岸辺は立ち去ってしまう。
置き去りにされ聞き分けのない正和に、他に術も無く言い聞かているばかりの絹代の姿は、幸恵には人事に思えなかった。
亡き洋一が、取材の関係で岸辺と面識を持っていた。
ただそれだけのことなのに。
あの日から連絡を取り合い、お互いに訪ねあうようになる。
あの日と同じように、正和は父親のいないことに意地を張り、そのたびに絹代が言い聞かせていた。
その度に居合わせて立ち尽くしてしまう子供達は、同じ気持ちが込み上げるのだろうか・・・。
哀しみを溢れさせはしないが、身動きも止めて見開いたままの瞳は、真っ直に正和を見つめ、何かを訴えているようにも見える。
しばらくは不平を言い続けるが、絹代がなだめ幸恵の誘いを聞き入れた正和は、言葉少なに優児と美智恵を遊びに誘う。
求める父親は側にいない。
子供達の心の内には、寂しさは少なからぬはずなのに、優児も美智恵も和やかに三人で遊び始めてくれる。
不思議なことに、幸恵は子供達と連れだって何度も訪ずれたが、正和が友達と遊んでいるところに居合わせることはなかった。
ただ一度居合わせたのは、十月始めの休日であった。
あのときは、郷里から海の幸が届けられ、洋一の両親の家にお裾分けをした帰りに立ち寄った日のこと。
いつもなら都合を確認して訪れていたが、その日はお裾分けをしてすぐに帰るつもりで、連絡も取らずに一人で訪れた。
降り立ったバス通りから、少し歩いて路地に入る。
左側には小学校があり、その校庭には道に沿わせて間隔を開けられた、大きな木が何本も植えられいた。
深まる秋に紅葉して、少しづつ、だが確実に、吹き抜ける風が枝から枯れ葉を払い落としていた。
その下で、見知らぬ子供たちはしゃぎながら、木が落とす影の間で、伸び隠れする影を踏み合っている。
公園から子供の歓声が聞こえてくると、留守番させている我が子のことを思い、幸恵は声のする方に顔を向ける。
夕暮れ時までは間があるものの、雲はわずかに赤みを帯び、太陽がちょうど目に入ってまぶし かった。
しばらく歩いて行くと、道に沿うように構えた岸辺の家が見えてくる。
コンクリート造りの車庫より手前にある門を通り抜け、飛び石を歩いて玄関の前に立つ。
家から突き出た玄関は、勾配のきつい合掌の屋根。
ドアは開き戸で、装飾ガラスがはめ込まれている。
玄関のドアが少し開き、隙間から、転がっている小さめの運動靴が二足見えた。
「いいじゃんかよーぉ」
初めて聞く男の子の声が、何か強引に押し切りたいように聞こえてきた。
続いて強い調子の正和の声。
「嫌なんだ!」
「これだけあるんだから、一つくらい開けたっていいだろ」
「一つも開けたくない」
間髪いれず別の男の子の声が聞こえてきたが、それでも正和は拒否したいらしい。
「ケチー」
「いこいこ、おまえんちでゲームしてようや」
「そだな、ゲームがあるのにさせないヤツなんか、相手にしてられっかよ!」
続いて階段を駆け降りる足音が響き、廊下かから玄関に飛び下りた子供はせわしなく靴を踏みつける。
靴を履くのもそこそこに、戸口で手をさしかけたままの幸恵の傍らを走り抜けていく。
「正和!、意地を張ってばかりいると友達なくすから・・・」
家の中から聞こえてきた絹代の声の感触に、幸恵は来訪も告げられず立ち聞きしてしまう。
強い呼び声のあと、かすれぎみに尻すぼみの声からは、苛立っている、というよりも、情けなさが聴き取れる。
聞き分けがないのはいつものことだとしても、親ばかりでなく友達にまで意地をはる正和に、絹代は何を言いたかったのだろう。
思いを巡らせる時間はあっても、親子で言い合う声が聞こえてこない。
気どられていないらこのまま帰ることも考えてみるが、子供との仲たがいは気にならないわけはない。
少しの間をおいて、幸恵は半開きのままのドアを静かに閉め、今し方来たようにチャイムを鳴らした。
「ごめんください」
呼出しに応じてくれるだろうか。
「はい」
「こんにちわ、海原です」
「海原・・・幸恵さん?、どうぞ中にお入りください」
今は母子だけの関係でいたはず、驚いている?。
家の中から小走りに降りてくる音が響き、玄関の装飾ガラスにごしに絹代らしき影が写る。
内心取り繕うためなのだろうか。
わずかに時間を取って玄関の戸が開いた。
肩口までのストレートの髪を外に少しカールを付け、キリっとした顎に目鼻立ちのはっきりした顔、女性にしては背丈の高い絹代が、多少落ち着きのない風で幸恵を出迎えた。
相対して頭を下げたあと、絹代と顔を合わせた幸恵は、ゆっくりとした口調で訪ねてきた旨を伝えた。
「突然お邪魔してすいません。郷里の島から季節の物が送られてきたものですから。正和君が喜んでくれたならと」
話しながら手元を確認して、手提げの紙袋から包みを出し、両手に持って絹代の前に差出した。
玄関の上がり口に立つ絹代は、正和を叱り付けたことを隠すように、取り繕った笑顔を浮かべていた。
それが他人行儀のような硬い挨拶を聞くとすぐ、困惑したように顎を引き、上目づかいに幸恵の顔をうかがった。
  一段高いところで不自然に背を丸め、何も口にしないまま包みの底に手を添えたが、強張っているように支えは弱々しく、次に何を話さなければならないかも捜しあぐねているかのよう。
弱みに触れてしまった気配は感じ取れる。
だからといって、立ち聞きしたとは切り出せない。
気どられたらしく早々に立ち去るのが最善、と思いたくは無かったが、他に考えも無く、幸恵は絹代の返事を待てずして、帰りの挨拶を切り出してしまった。
「ゆっくりお話しもしたいのですが、時間も遅くなりますから、今日はこれで失礼します」
幸恵は深々とお辞儀をして、再三頭を下げながら振り返ると、ドアのノブに手を伸ばした。
このまま踵を返すのは、後々訪ねる気がねになるのは間違いないと分かっていたが、相手の返事も待てず振り返えてしまった自分は、何に急(セ )いているのだろう。
「幸恵さん」
小さな声は、どこか厳しさをはらんでいた。
幸恵は伸ばした手そのままに、身動きを止めざるおえなかった。
  呼び止め-絹代は、二人の間の不安な空気を飲み込み背筋を伸ばした。
「おあがりください」
女性にしては響きに低音が交じる絹代の声は、いつより重く耳に響く。
幸恵の返事も待たずして、絹代は体の向きを変え、廊下を歩いて奥のダイニングルームに向けて歩く。
立ち止まり、次の動作にうつれなかった幸恵は目を伏せると、頬に力みを加えて手を降ろし、後味が悪そうに体をおこした。
今となっては、選択の余地もない。
玄関を後にした絹代は、ダイニングルームのドアを開けたまま部屋に入る。
テーブルの上に受け取った包みを置きはしたものの、戸惑いがあるようにうつむいた。
わずかにテーブルの椅子に手をかけて身動きを止めたが、ゆっくりと顔を上げ、目の前の冷蔵庫や戸棚を見る。
内情を知らせしてしまった動揺が、平常心を失わせてしまっていることに気が付いた絹代は、ともあれテーブルを回って戸棚に歩み寄った。
戸棚の袋菓子を皿に移しかえ、冷蔵庫からジュースのパックを取り出してコップに注ぎ、それぞれテーブルの上に置いた。
簡単に支度を調えると深く息を吸い込み、開いたままのドアに向かって幸恵を待つ。
開け放たれた戸口で、幸恵はうつむき加減に立ち止まる。
暗転した思いは、意地を張る正和を思い返させる。
無論、親子の不和に対する恐れは人事ではない。
正和は母親に訴えるけれど、美智恵も優児も言わないから。
求めることのできる正和でさえ不満を向けてやまないなら、求めることのできない不満は言い出せなくてもあるはず。
その一方で、正和の憤る姿は、父親の不在を意識づけてしまう不安に駆られてしまう。
場面によっては粗暴さばかりが目について、ケンカでも始めたらどうしようとも思う。
不安が先行してしまうのは仕方ないこととしても、身近な友達を作ろうとしない美智恵が、正和と会えることを快く思っているのは間違いないし。
当の正和も、自ら和やかさに気をつかい、優児も美智恵も楽しくしていられるように、振る舞ってくれている。
改善を望みたいもの、求めたいものは正和一人の内にあり、できれば取捨したい正直な気持ちを話したい、でも。
抱える悩みを回りから指摘されたくない。
それは絹代さんも同じ気持ちのはず。
できることなら、話題を避けて帰りたい、自分の悩みからも逃れたい。
でもここで逃げ出してしまえば、悩みに屈してしまうばかりでなく、美智恵も行き場を失ってしまう。
巡らす思いは、心の隅に押し込めていた恐れを呼び覚ますが、その都度言い聞かせていた覚悟を確認するしかなかった。
幸恵は足を踏み出した。
顔を上げた目の前では、テーブルの向こう側から立ち尽くしている絹代が見つめ、促すように左隣りの椅子を引いていた。
奥まったダイニングルームはやや薄暗い。
夕方も近くなって、窓から取り込む日も少し弱く、かといって明かりをつけるほどでもない。
幸恵はテーブルを回り、絹代が引いた椅子にコーナー側から絹代の顔色をうかがうように腰を曲げて座った。
内心まだ逃げ腰で、絹代から距離を取るように椅子の端を少し開けて腰掛けてた。
絹代は黙ったまま椅子に腰かけ、菓子の器を右手で押して勧め、幸恵も応えて頭を下げた。
ついさっきの成り行きを、むしろこれまでのことを慮(オモンバカ )るのか、黙り込んでいる絹代はうつむいて、テーブルに目を落とした。
気まずい時間はまとわりついて進まない。
やおら絹代は顔を上げ、首を左右に振ったあと正面を向いたが、話すきっかけを捜しているらしく、見る当ても無く眼差すところは動いていた。
幸恵も自分から話しを切りだすわけにもいかず、絹代が何を話すのか恐れながら待つしかなかった。
長く待たされたわけではないが、もともと来た時間も遅かったため、幸恵は内心時間の経過を気にして、絹代の顔を横目使いに見た。
絹代は見られたことを意識したのか、ゆっくり目をつむる。
しばらくして目を見開き、虚空の一点を見つめると、小さな声で口火を切った。
「幸恵さんは正和を煩わしく思います?」
「いいえ・・・」
「先程のように聞き分けがなくても?」
「・・・」
あまりにあからさまに訊かれ、絹代の横顔を見ていた幸恵は、思わず手元に視線を落として黙り込んだ。
絹代はと言えば、弱みを自ら提示しても、引け目に黙することはなかった。
「そうね」
やや肩を落とし、少し幸恵の方に顔を傾けて一言呟くと、気だるさを滲ませて話しを続けた。
「精一杯なだめているのに聞き入れてくれないときは、いい加減叱り付けたくもなります」
「・・お気持ちは・・・」
「本当は違っているのでしょう」
「違う・・・?」
「反抗したいから意地を張っているのでしょって、つい思ってしまいたい。でも主人と一緒にいられることに諦めを持たないから、いつまでも言うことを聞いてくれない。本当はは、大切にしてあげなければいけない気持ちのはずなのに」
「絹代さんがはねつけないから、正和君も思う気持ちが言えるのでしょう」
「そうだと思います、でもだめね。分かっていても、その場にいるといっそはねつけることができればと考えてしまいます」
苦肉に話を肯定的に方向付けようとしたものの、絹代の受け答えは、幸恵にとっても、思わず口を揃えたい話しの成り行き。
しかし、しかし今話を合わせてしまえば、供に生きてきた思いに水をさしてしまう。
一方で、他人の愛情の不備に口を挟みたくはない。
だとしても、お互いに我が子と共に生きていきたい気持ちは、変わらないはず。
ならば疎遠に思う気持ちに賛同して、望む思いを逆撫でれば、親子の絆を確認したいと思い直してくれないだろうか。
相対する考えが幸恵の脳裏を駆け抜けたが、どちらを選びたいとも思えず、うつむいたまま沈み込むよりほか無かった。
「もちろん主人が家にいてくれたら、正和も食い下がったりしないでしょう。たまの休に一緒にいることができたなら、それは楽しそうにしていますから」
子供の笑顔が安息と幸せの実感であることは、親として誰でも同じと信じたい。
絹代の口振りが、多少歯切れ良くなったかなっと感じるのは、気のせいではないだろう。
父親と一時を過ごす正和、初めて出会ったあの日は今でも思い起こせる。
同時に、父親が立ち去る落胆の叫びが、うつむいている幸恵の首に重みをかけてくる。
「主人が仕事から離れて家にいてくれることは、正和だけでなく私も希望したいことです。ただ主人や私の考えだけで決められることではありませんから」
今まで気にしていなかったけれど、正和は当然家にいるはず。
絹代の声だけが響くダイニング、聞き付けて足を運ぶ者もなく、他に人の気配も届いてこない。
「指示された研究だけに身を傾けていれば、主人も普通の生活ができるでのしょう。他に講演会の依頼に応じたり、何か有るごとに自分から地方の視察に赴いたりすることもありますから、その度に家を空ける日が続いてしまうのです」
話し続けた絹代は、物思いにふける様に静かになる。
うつむいて聞いていた幸恵は、話しが途切れた少し後に顔を上げたが、目線を手元から動かすことができなかった。
空白が心の内に広がりだす。
二人でいるという意識も薄れそうで、不安に押し潰されないためにも何か話さなければ。
「お気持ちは・・分かります」
そう口にするのが精一杯。
絹代は顎を引いて考え込み、その後も少しの間黙り込んでいた。
しばらく思うところを選りすぐっていたのだろうか、幸恵に絹代は顔を向け、ありし日の記憶を話し出す。
「そうでしたよね。洋一さんも家を空けられる日は多かったでしょう。その間に取材し掲載された記事を、主人は興味深く読んでいました。急に亡くなられたことを主人も惜しむばかりでしたが、多少の肩代わりができればと、地方に足を伸ばす日も増えたように思います。洋一さんは海を守るために取材を重られね、多くの人に実情を伝えようとされていましたね。主人も同じように海を守ることを望んで、少しでも意志を継ぐことができればとこぼしていました」
どういうものだろう、どこか厳しさが感じ取れていた絹代の声が、少し柔らかく聞こえだす。
話し続けたから、気分は楽になれたかも知れないのだが、逆に幸恵は辛さを感じずにはいられなかった。
「もちろん、主人一人の思い込みで海を護れるはずもないでしょう。洋一さんが記事を書かれていたことに比べれば、主人の主張が一目に触れることは限られていますし、立場上私的な考えを公言するのは制約受ます。社会に対しての非力さは認める以外にありません。それでも海を守ろうとしている主人を支えていたいのです」
話し続けた絹代は一旦話しを切り、腰をひねって幸恵の方に向いた。
「正和には辛いことでしょう。主人がそばにいなければなんの解決にもならないのは分かっています。できることと言えば不満を聞いてあげるより他はありません。主人もそばにいられないことに負い目を持っていて、帰るときには流行の遊び道具を買い求めたりしているのですが。昨日帰宅したおり、近所の子供が抱えていたオモチャに興味を示して遊びに来てくれたのが先程のことです。ただ、最近は目に見えて意地を張り、抗議のつもりでしょうか、与えられたものの封を切らずにそのままにしています」
絹代は自分の手を幸恵の手に添え、前に乗り出すと、言い方を強めて話しを続けた。
「正和の気持ちを落ち着かせてくださることには感謝しています。本当なら幸恵さんに助けを求めるのお恥ずかしいことです。ですが、どうぞ今までどおりいらしてください。いつも正和はあんなことをして、友達をつくることも間々ならない。唯一優児くんと美智恵ちゃんとしか遊ぼうとしない。お二人もいなくなってしまったら、このまま正和が周囲から孤立してしまわないかと心配でならないのです・・・」
絹代に覗き込まれ、視線を避けた幸恵の目には、辺りの情景が虚ろに見えていた。
訪れてから時間もそれほど立っていないが、窓の外は夕日に染まり、少しずつ暗さを増している。
差し込む薄日は周囲の物に赤みを帯びさせ、ダイニングルームも日の明かりだけでは暗くなっていた。
力なく頭を下げる絹代の肌も、差し込む夕日に赤く染まり、照らし出されている顔は起伏の影を落として、年に似合わない苦労の皺を刻んでいる。
普段は理知的で、忍耐強く正和の相手をしている絹代だが、この時ばかりは子供を育てる自信の無さが滲んでいた。
はっきりとした返事はできなかった。
むしろ、否定的な考えが支配的であった。
解決の糸口を探さないで、身近な知人に押し付けたいなんて・・・。
家に帰る間、幸恵は何も考えたくなかった。
考えたくなかったのに、繰り返し耳元で絹代が話しかけてくる。
「お帰りなさい」
落ち込み、誰とも話したくない。
と思って我家の玄関に体を預けるようにしてドア引くと、家の中でいつものように美智恵が出迎えてくれる。
気だるさから身をかがめていた幸恵であったが、美智恵の声を聞くと、反射的に元気を装って家に入った。
マッシュルームカットの丸い顔、黒く澄んだくりくりっとした目が、いつもと同じように幸恵を見つめている。
「ただいま、遅くなってごねんね」
やわらかな声で少しトーンを落とし、調子もゆっくりにして話す。
いつもはなにげなく使っている言葉遣い。
「美智恵ちゃん、お兄ちゃんと仲良くしてた?」
「お兄ちゃん、遊びに行ってたから」
「寂しかったでしょ?」
「ううん」
「美智恵ちゃんは遊びに行かないの?」
「お兄ちゃん、帰って来るのを待ってた方がいい」
「お兄ちゃんは仲良しがいるからでしょ?、美智恵ちゃんも仲良しいるでしょ?」
「学校に行けばいる」
「美智恵ちゃんは学校から帰って遊びに行ったりしないの?」
「お家にいる・・・ねえ、正和君いた?」
「いたわ、今日はお友達も来てたみたい。だから、美智恵ちゃんも仲良しつくろぉね」
持ち合わせてしまった悩みが、伝わることは避けたい。
と、幸恵はいつも以上に注意を払って話しかけていた。
そばに寄り添い、見上げる瞳に疑いはない。
絹代の話しは美智恵に知らせたくない。
もうあの家には行きたくない。
とはとても言えない。
親しくできる相手がいる気安さを奪われたなら、憤りに身を任せる様を目にすることの覚悟も・・・。
求めたい思いが満たせるから、身近にいて欲しいと思う。
幸恵は吹っ切れないままに、そう言い聞かせるよりほかはなかった。

悩みが表面化することを恐れていても、美智恵から、絹代からと求められれば、幸恵はその度に岸辺の家に出かけていた。
そうしている間に一学年進級し、その一学期終業式の前に訪れたときには、子供達の間から夏休みを一緒に過ごそうという話題で持ち切りになった。
美智恵が正和に、そして絹代も喜んで話に乗る。
夏休みに一緒に遊べたらたら楽しいよね。
子供たちにすれば、遊び相手を求めたいだけ。
幸恵には、気の進まない話し。
親元に帰る予定を示して、幸恵は遠回しに難色を示した。
ためらう幸恵に対して、正和と一緒にいたい美智恵。
当然絹代は、美智恵を選んで誘いをかけた。
「お盆の頃には会えないのね。だから夏休みが始まってすぐは遊びに来てね」
「うん」
「じゃ、約束よ」 出来上がってしまった約束、美智恵が嬉しそうに優児を見れば、優児も黙って見つめ返す。
幸恵の思惑も入れられないまま、求めあう間で話しがまとまってしまい、美智恵はカレンダーをめくって目を輝かせる。

七月二十日は海の日。
初日だというのに、正和はご機嫌斜め。
夏休み、それも世は休日だというのに、父親は少し前から遠出して家には帰っていない。
向けどころのない憤りは母親に向いているらしく、何か指示される度に返事のアクセントが強すぎる。
子供同士の間では、さすがに美智恵に辛くあたりはしないけど。
子供同士3人でいる仲を、美智恵は笑顔で取り持ってくれている。
もし憤りを押さえられなくなれば、なだめる時間を費やすことになりはしないかと。
不安から幸恵は家に戻りたい気持ちになるが、子供の笑顔が見守れることを喜ぶべきなのか。
当の正和も、いつまでも不機嫌でいられないのは承知しているのだろう。
昼前に来たときの不機嫌さも昼食の頃にはさほどでもなくなり、昼食後の片付けには素直に応じてくれていた。
夏休みの日課の始まり。
朝方の勉強は移動のためにできなかったが、午後からはお昼寝。
子供が寝静まると、幸恵と絹代も一息ついてうたた寝をしていた。
ことは届け物からおこった。
ピンピーン!「ごめんくださーい。宅急便でーす!」 気持ち良くソファーに身を委ねていて、そろそろ起きようかなっ、という頃、大きな声が外から家の中を通り抜けていく。
「はーい」
すぐに絹代は起き上がり、玄関に向かった。
宅急便にしては小さな段ボール箱を受け取った絹代は、幸恵も誘って子供を寝かしている部屋に入った。
日差しを避けた一階西側角の部屋は、網戸からの風の通りも良く、畳も手伝って蒸し暑さはそれほどでもない。
子供達は入って左側のガラス戸に頭を向け、正和が奥の窓側に美智恵を挟んだ優児が並んで昼寝をしている。
夏は盛りとセミの声も部屋に響くが、気にせずに寝入っている。 普段はあまり使っていない部屋で座卓が一つ、それも昼寝のために正和の頭側に寄せてあった。
「お昼根の時間は終わりました。起きなさい」
ちょっと大きめの絹代の声ではあったが、優児は寝たまま目をこすり、美智恵も目をぱちくりして起き上がらない。
正和は起きたが、目を見開いて身じろぎ一つしないまま絹代を見つめている。 絹代は部屋の奥に行くと、座卓を取って正和の足元の傍らにおいた。
絹代について部屋に入った幸恵は、優児と美智恵の間の足元に腰を下ろした。
座卓の前に座った絹代は、正和の寝ていた敷布団の上に段ボール置き、蓋を止めているテープを引っ張って剥がす。
「これはお父さんが仕事先から届けてくれたのかな?」
部屋のみんなに語りかけるように、絹代は柔らかな口調で言ったつもりだが、突発に正和が叫んだ。
「開けるな!」
「せっかくお父さんが送ってくださったのに、開けないわけにはいかないでしょう?」
  正和の機嫌に気遣いすることなく、絹代は話しかけながら中の物を取りだして座卓の上に並べた。
いくつかの袋と小さな箱が数個入っていて、その箱の一つに目を止めた絹代は、目の前に持ち上げて確認すると、座卓の上に置いて封を解いた。
箱の中には、五百円硬貨より少し大きいペンダントが入っていた。
それを箱から取り出した絹代は、チェーンを持って子供たちの方にペンダントを見せた。
とたんに正和は飛び起き、絹代の膝元に詰め寄った。
「こんなものいらない。箱へ戻せ!」
「正和、お父さんからの贈り物なのに、そういうことを言うの?」
「母さんはこんなもので嬉しいの!。父さんが家にいなくて平気なの!」
「仕事だからしかたないでしょ?。でもお父さんはこうして私たちのことを思ってくれているのよ」
言い争いながらも絹代はチェーンの止め金をはずし、襟首に手を回そうとした。
「つけるな!」
険しく叫んだ正和は絹代の手からペンダントをむしり取り、むきになって廊下の方に投げ棄てた。
宙を舞ったペンダントは、戸口横の壁に当たって畳の上に落ちる。
「正和!、なんてことするの!」
「母さんが父さんを引き止めないから家にいないんだろ!」
「お父さんにはしなければいけないことがあります。そのために家にいられないのは仕方のないことでしょう」
今までになく正和は気荒く絹代に食ってかかり、そばで見ている幸恵は唖然としたまま、身動きもとれずにいた。
「家にいるより仕事している方が良いなら、いない方がいい!」
「正和、そんなことを言っても良いと思っているのですか」
あまりのことで、優児は臆して幸恵の背に体を押し付ける。
優児の動きに気が付いた幸恵は、このままではいけないと考えをめぐらせようとしていたそのとき、美智恵が毛布を払って起き上がり、正和に向けて歩み寄ろうとした。
幸恵はとっさに美智恵の手を握り引き止めたが、その目は少し潤み、なにか悲哀さえ感じられるものだった。
引き止めたものの、ただ引き止めただけでしかない。
幸恵は黙ったまま首を横に振って見せたが、このまま何もしないままなら、美智恵の目に滲む情動も、いずれは押さえられないものになってしまいそう。
幸恵は辺りを見回した。
相変わらず言い争っている絹代と正和。
座卓と、その上の父親からの届け物。
投げ棄てられたペンダント・・・。
幸恵は美智恵を引き留めた手を引き寄せて向き合うと、その小さな肩に手を添えた。
「美智恵ちゃん、あのペンダント拾ってきて」
言ったあと右手を降ろし、左手で美智恵の背を軽く押した。
幸恵に言われて、美智恵はちらっとペンダントの方を見たが、正和の方を気にして踏み出す足はそちらに向かない。
「今は正和くんに言わせてあげて。聞いてあげられるのは、正和君のお母さんしかいないの。だから今は、お母さんの言ったとおりにして」
幸恵に促されても美智恵は正和を気にしていた。
かといって、今の正和の剣幕に近づけないし、美智恵は仕方なさそうに押された方に歩く。
美智恵が拾ってきたペンダントを受け取った幸恵は、右手の掌にのせ、そこに描かれたレリーフをながめた。
立ち上る波の切れ目に立つ男性が、人魚を抱きかかえているのか、それとも波に運ばれてきたところを受け止めようとしているのだろうか、どちらにも取れる彫刻が刻まれていた。
幸恵は右手から滑らせるようにしてペンダントを下に垂らすと、左右の手でチェーンの留め金を持った。
「いい?」
幸恵はチェーンのつなぎ方を美智恵にしてみせ、自分の首にかける素振りをしてみせる。
それから美智恵の耳元に近づいて、小さな声で言い聞かせた。
「美智恵ちゃん。これ、正和君のお母さんにかけてあげて」
幸恵は美智恵の手を取り、そっとペンダントをその掌にのせた。
意図するところが汲めない美智恵は、不安そうに幸恵を見上げる。
「正和君はお母さんにまかせて。言ったとおりにして。ね」
相変わらず堂々巡りの言い争いを続けている二人の方に、柔らかく念を押した幸恵は美智恵の背を押した。
美智恵は戸惑ってか、押されて一歩は踏み出したものの、そこで少しの間立ち止まった。
その間に何かを考えたのだろうか、 美智恵は正和の前は避けて絹代の背後を回り座卓の前を通って座卓の窓側に立ち止まった。
「休みの日だから父さん仕事なんかしてるはずない」
相当気持ちも高ぶってるのだろう、甲高い叫び声が涙声のように湿っぽくかすれ、それでも正和は精一杯の大きな声を張り上げ続けている。
食ってかかる勢いは、相手が大人だということも眼中にないのだろう。
ところが美智恵は、情動に任せる正和の方に向けてペンダントをかざしてみせた。
投げ棄てたペンダントを差し出されたことで、正和は抗議を途切らせて美智恵の方に顔を向けた。
手に持ったペンダントのチェーンを広げて歩み寄った美智恵は、正和に見えるようにして絹代の斜め前から首にまわそうと手を差し上げる。
「つけるな!」
「正和くん!」
正和が絹代の喉元の小さな手を握り、美智恵の体を揺するくらいに引っ張るのを見た幸恵は、今までにない強い声で正和を呼んだ。
とっさに正和は手を止め幸恵の方に向く。
恐れからの呼ぶ声は表情もそうなってのことだが、幸恵はゆっくり笑みに移し変え、おだやかなトーンを落とした声で、正和に話しかけた。
「正和君は、美智恵ちゃんに、何をしたいの?」
はっとしたように、正和は幸恵から美智恵に目を移す。
「正和君は、美智恵ちゃんの笑ってる顔を見ていたいでしょ?」
美智恵は不安を表して、半開きの口に横目使いで正和を見ているが、手の力は抜いているらしく、引っ張られるのに任せて伸びていた。
「手を放して。正和くんのお母さんが、お父さんの贈り物を着けているところみたいな。私も、美智恵ちゃんも・・・。着けさせてくれない?」
柔らかく、短く、ゆっくりに。
状況は急を要しているが、幸恵は注意深く正和に話しかけた。
先んじて考えるのは、正和が気分を害したことから、届け物をしまうことが近道。
でもそれでは絹代も父親も救われないし、まして父親を遠ざけることになってしまっては、正和のためにならない。
父親からの贈り物。
今しなければならないことは、正和に理解を求めること。
もちろん正和は手を放す気配はない。
「美智恵ちゃん、手、大丈夫?」
「うん」
美智恵も合点してくれているのか、ペンダントを放さないし、握られた手を逆らわさせようともしない
  多少潤んでいるようにも見える美智恵の顔に、正和はそれでも身動こうともしない。
しばらくは幸恵も成り行きを静観していた。
絹代にしてみれば、正和を静めるつもりで言い聞かせようとしたが、反して声を荒げる正和に苛立ちを押さえることができなくなっていた。
その最中(サナカ)に、美智恵が手を回してきたことでの正和の剣幕に、我が子の怒りの強さを知って言葉も思いも全てを止まらせてしまった。
思いも動かせないまま幸恵のかける言葉を聞いていたが、我が子の悪態がいたたまれなくなった絹代は、何か言いたげに幸恵の方を見る。
幸恵は黙って首を左右に振った。
怒りはもしかすると美智恵に向けられるかも知れない。
でも正和はわずかにでも美智恵に傾く気配がある。
信頼できない握ったままの手。
・・・不信の本(モト)を受け入れたくない正和と、意に反して身近にしようとする美智恵。
強硬な態度は押さえることができたと言えなくもないが、正和は握った手をけして緩めようとはしなかった。
少しは正和が上げた手を降ろしてくれないかと幸恵は待ち望んだが、一向にその気配がない。
幸恵は改めて、正和に促す方法を捜し求めて話しかけた。
「美智恵ちゃんは、正和君を信じたい?」
「うん」
「正和くん。正和くんは美智恵ちゃんを好きでいてくれる?」
話す順序を考え、正和の気を引こうとした試みも、今は空振りに終わったのか、その背はピクリともしなかった。
これには拍子抜けの感があったが、幸恵は動揺せずに次の言葉を捜す。
「でもいいな。正和くんは、お父さんのそばにいることができるのに。なのにお父さん、帰らなくていいの。正和くん?」
これには少し手が下がったが、それとも少し疲れただけなのか。
「いて欲しいから、いないから怒っているの?。正和くん、考えて。お父さんは、帰りたくないのに、贈り物を届けてくれたの?」
わすがに動く小さな肩、確かに正和は聞いている。
だからといって、今ここにいないことに、すぐに許しを求めても受け入れてはくれないだろう。
「正和くん、お父さんと遊びたいでしょ?。美智恵ちゃん、美智恵ちゃんも正和君のお父さんに遊んでもらいたいよね?」
「うん」
「でも、正和くんは、お父さんがくれたものは嫌なんだ。お母さんが付けているところが見たいから贈ってくれた。それなのに、お父さん帰って来なくていいって。私も、美智恵ちゃんも、悲しいな・・・」
落ち着いて言い聞かせようとしているのに、気持ちはだんだん高ぶり、併せて語り口も強くなるが、ついて感情も高揚してしまっては、声も尻すぼみになってしまう。
続ける言葉もついて出ない。
正和の動向に注意を向けてはいても、幸恵には対処を続けるだけの考えがついていかなかった。
交わす言葉の途切れた部屋をセミの盛りが満たし、黙り込んだ幸恵も気だるさから肩を落とした。
差し上げたままの手は、意地を張り続けている時間からいえば、かなり疲れている。
美智恵は伸ばしていた肘を下げるようにして曲げ、うつむきかげんに正和の正面に向いた。
もちろんその目頭は潤み、悲しそうに正和を見つめている。
見つめる瞳を見つめ返しているはずの正和だが、いたたまれなくなったように顔を反らし、掴んだ手を投げ出すように美智恵の手を放した。
「ありがと」
小さく美智恵はお辞儀をして、絹代の正面をむくと、かかとを上げて小さな手を伸ばしてペンダントをかけてあげた。
その間、正和は顔を反らしたままで、未だに意地を張り続けているのが見て取れる。
当然、せっかくかけてもらっても、絹代自身喜びを美智恵に伝えることもできなかった。
するべきことこそできたが、変わらぬ正和の気持ちに美智恵も戸惑い、その場に立ち尽くしている。
ペンダントをかけた直後には、美智恵も笑みを浮かべる気配はあったが、眉をしかめた絹代と顔を合わせていては、声を立てて羨ましさを伝えることもできない。
捨て置くつもりでいるなら、声をかけても聞き入れてもらえないだろう。
幸恵も付き合え切れなくなっていたが、一か八かのつもりで美智恵に指示を出した。
「美智恵ちゃん」
幸恵は美智恵を呼んで、卓台を指差した。
美智恵は幸恵の方に向き、指した指先をたどって後ろの座卓に振り向いた。
テーブルの上には、絹代が段ボールから出した箱が並べたまま{なっている。
美智恵はテーブルにある箱を眺め、その一つに右手を伸ばした。
左手に持ちかえた美智恵は、右手で箱の端をかきながら、不安そうに幸恵を見る。
幸恵はゆっくり首を横に振った。
もちろん事の成り行きは理解しているから、箱を開けてはいけないことは承知している。
美智恵は目を落として品物を見つめたが、すぐに幸恵を見て、正和の方に箱を持った手を伸ばした…。
幸恵はうなずいた。
美智恵の動きは止まり、目を見開いて幸恵を見つめたが、手を引き戻して両手で持った箱を眺めた後、正和に差し出した。
「正和くん」
わずかに声を震わせているだろうか。
顔を反らしたままの正和は、呼ばれるとすぐに美智恵を見たが、伸びた腕をたどって手に持っている贈り物を見たとたん、声を張り上げて放り出そうとした。
「開けたけりゃ開ければいいだろ!」
「正和くん」
「正和くん」
「正和くん・・・」
小さな声で呼び止める美智恵、続け様に幸恵もおだやかに呼び、それでも振り切って走り去ろうとする正和に、美智恵はもう一度呼んだ。
寂しそうな美智恵の声に、正和は上げた足を静かに床に下ろす。
「正和くん・・・、開けてあげて」
側に寄り、離れていきそうな正和の背に、幸恵は呟くように話しかけた。
「美智恵ちゃんは、正和君が嫌うことはしたくないの。そうでしょぉ?、美智恵ちゃんは正和君と仲良しでいたい。その正和君が開けるなって」
立ち止まっても、聞き入れてくれるようは思わない。
強く、絹代は言っていたばかりに。
静かに、正和が考えてくれるように。
幸恵は心素直なままに、正和の背に話し続ける。
「正和くん、美智恵ちゃんは、なぜ、贈り物を持ったの?。お母さんがうらやましいと思ったから。美智恵ちゃんもつけたいと思ったから。でも・・・いなくなるの?。一人の美智恵ちゃんはどうすれば?。お父さんを嫌いになって、どこかえへ放り出してしまうの。それで正和君の気持ちを大切にできたと思ってる。そう思う?、思いたくないでしょ?。だって、正和君もいてほしいと思う、美智恵ちゃんも好きでいたいお父さんだもの。美智恵ちゃんは、正和君が開けてくれるまで待っているわ。だからお願い、美智恵ちゃんに開けてあげて」
佇む正和は歯を噛み締めているのは後ろから見ていても分かる。
美智恵は静かに後に付き、正和が振り返ってくれるのを待っている。
目頭を熱くしてか、絹代は声もなく、目を伏せてうつむいている。
騒々しい蝉の声は、恐れをあおるばかり。
意地を張る後ろ姿は、説得を続ける気も失せさせてしまう。
すぐに走り出すだろう、ただ、父親を求めている強い気持ちから反発しているということが、唯一の希望だろうか。
案じて取り巻く者は、次の振る舞いを息をつめて見つめていた。
案じていたよりも易かったのか、正和はゆっくり美智恵のほうに振り向いた。
ゆっくりした動作で、美智恵の手から箱を取ると、丁寧に包装を解き、蓋を開けてペンダントを取り出した。
美智恵は手を下ろし、求めるように正和に歩み寄る。
無表情な押し黙ったままなのは気になるが、正和は美智恵の首にペンダントをかけた。
美智恵はかけてもらったペンダントを手に持って、レリーフを見つめた。
それから正和を見つめ、正和も顔を美智恵に向けていた。
ややあって、何か思い返す風に、正和はうつむいた。
正和を見つめていた美智恵もペンダントに視線を落とし、それから、ペンダントを手に下げて絹代に見せて、振り向いて幸恵に嬉しそうに見せた。
レリーフには、人魚と男性が両手を取り合い、足と尾鰭をそれぞれ外側にまげて向かい合う像が刻まれていた。
しんみりとしていた幸恵は、応えて笑顔でうなずいてみせる。
とすぐに、美智恵は座卓に駆け寄り、並べてある箱の一つを取ると幸恵に走り寄った。
幸恵の方に向いて包装を解き、箱からペンダントを取り出すと、美智恵は正和の方に向き直ると、抱きつくように正和の首に手を回した。
  美智恵の動きを追ってこちらに顔を向けた正和は、少し驚きの表情を見せている。
付け終わった美智恵は、一歩下がって腰を屈め、レリーフを覗き込んだ。
そこにも男性と人魚が刻まれていたが、少し遅れて泳いでいる人魚の手を引っぱる男性が、ペンダントから泳ぎ出るようなダイナミックな像が刻まれていた。
もし情動が静まらないのなら、はねつけて逃げ出したかもしれない。
美智恵が胸元に顔を近づけていたため、正和は身動きがとれなかったのだろうか。
まじまじと見つめた美智恵は、体を起こし、顔を傾けて、正和を笑顔で見つめた。
「美智恵ちやん」
隠れている優児の背に幸恵は腕を回して、正和の前に押し出しながら美智恵を呼ぶ。
美智恵は意図していることを解して、座卓に向かい箱を持って来ると、どう考えたものか、黙る正和に差し出した。
そのことに正和は何も言わなかったが、ややしてから美智恵の手から箱を取ると、封を開けて空箱を美智恵に手渡し、押し殺したようにたたずむ優児の首にかけた。
ありがとうと言わなければいけないところだが、優児も黙したままで、すぐに幸恵の後ろにあとずさりをした。
ともかく一通りのことができたと、幸恵は胸を撫で下ろしていた。
ふと見ると、美智恵はもう一つの箱を正和に差し出していた。
箱を見た正和は首を横に振って、受け取ろうとしなかった。
?
美智恵が箱を渡そうとした意図は、幸恵には分からなかった。
美智恵も一旦は箱を引き戻し、抱えて考えにふけっていたが、少し笑みを浮かべて包装を解くと、両手に持って勢い良く正和に差し出した。
正和は顔を横に向けて、相手にしたくない態度をとっているが、美智恵は笑みを笑顔に変えて、正和が受け取るのを待ち続けていた。
「正和、美智恵ちゃんがどうしてあなたに求めているか、分かってあげて」
自信を無くしている。
あれほど強く言い聞かせようとしていた絹代だが、自らのいたらなさに臆してか、うつむいたままの細い声で、正和に言い聞かせようとした。
母親に言われれば、正和はけげんそうに舌打ちをしてみる。
憤るように絹代をにらんだが、すぐに目線を下げて、ゆっくり視線を回す。
美智恵の足元を見て、正和はゆっくり顔を上げたが、美智恵はまだ箱を差し出したまま待っていた。
こころづもりを計るように、正和は美智恵の顔を見ているようであったが。
待ち続ける美智恵に根負けしたように、正和は体をよじるようにして右手で箱を受け取り、蓋を開けながら横を向いて中を覗き込んだ。
望んだことを正和が受け入れてくれたので、美智恵は自分に確認するようにうなずくと、急いで幸恵の背後に回り込んだ。
箱からペンダントを取り出した正和は、チェーンの端を両手で持ち、幸恵の正面に近づいた。
両手を伸ばしてチェーンを広げ、正和は幸恵の首にかけようとしているが、近づきすぎないようにしているため、手は幸恵の首に回し切れそうにない。
正和が伸ばした手に、美智恵は自分の手を添えると、覗き込むよおにして幸恵の襟首にチェーンをかけた。
成り行きにおいてきぼりにされていた幸恵は、ペンダントに手を添え、伏せ目加減に少し顔を左に傾けた。
肩越しの美智恵は体を覆い被せてでペンダントを覗き込みながら、顔いっぱいの笑みを幸恵の傾けた顔に近づけてきた。
岸辺から贈り物を受けるとは思っていなかったため、正和のなすままに幸恵はじっとしていたが、美智恵の笑顔につられて何気なく微笑を浮かべた。
幸恵に抱きついている美智恵は、目を細めた満面の笑顔で正和を見上げた。
「ありがとぉ」
無理を押しとされたきらいのある正和は、無表情に美智恵が喜ぶ様を見つめていた。
美智恵のお礼を耳元で聞いた幸恵は、ゆっくり正和を見上げ、すぐに自分の胸元に目を向けた。
少しの間そこに描かれたレリーフを見つめていたが、幸恵は座ったまま体をまっすぐにして、対処に迷いながらも再度正和を見上げた。
「ありがとう。正和くん」
返事は無く、表情を変えない正和は、未だ憤りを解消してはいないだろう。
とりとめなく正和を見つめていたが、幸恵は右手を抱きついている美智恵の左頬に差し上げた。
左肩口から抱きつき、顔をすり寄せている美智恵を、幸恵は見つめて撫で、見つめ返す目にうなづいてから、もう一度正和を見上げた。
「正和くん」
呼んでも返事は無い。
幸恵は美智恵を撫でていた手を、膝に下ろして両手を揃え、正和に対して姿勢を正した。
表情を変えない正和の心は、推し量るわけにはいかない。
父親への不満を吐露し、その対応に無理を通して一応の沈着はみたにせよ、絆を断ち切ってしまうな恐れが無くなったわけではない。
美智恵が求めたい絆。
不確かになってしまった関係。
もちろん時間が解決してくれる。
そお思いたい一方で、父親との関係が改善されるという希望を持てるかといえば・・・。
いずれまたこんなことが。
繰り返しそうな不安から、幸恵は父親の認知を求めての語りかけをこころみた。
「正和君、ありがとう。このペンダントはお父さんから、ううん、正和君からの贈り物と思っていいかしら」
注意してしたつもりが、美智恵が耳元で不満を告げる。
「お父さんと正和くんからの贈り物!」
美智恵の子供らしい抗議に、幸恵は思わず額を美智恵の額に寄せて、笑みを浮かべた。
「ごめんね、美智恵ちゃん。正和君とお父さんを分けてしまうのは、いけないことね。正和くん、ペンダントをいただいたから嬉しい分けではないの。正和くんのお父さんが、優児くんや美智恵ちゃんのことも、大切に思ってくださるから」
幸恵は嬉しさを表すように笑顔を強め 、後ろにいる美智恵を抱き抱えるようにして前に連れてくると、正和に向き合わせて膝の上に座らせた。
「でもね、箱のままもらっても、美智恵ちゃんは喜んでくれたかしら?。お父さんの贈り物だから、美智恵ちゃんが大好きな正和くんに贈ってもらったから、こんなに嬉しいの。正和くん、お父さんと一緒に遊べるのは楽しいでしょ?。お父さんはいてほしいもの。なのに、いないほうがいいって言わないで。美智恵ちゃんも、遊んでもらえて楽しいかった。それは、我慢するのは面白くなのも分かるわ。正和くん、美智恵ちゃんもお父さんがいて欲しかったのよ。今日は残念だったけど。でも、家にいるときには遊んでくれるでしょ?。だから正和くん。美智恵ちゃんが、お父さんと一緒に遊んでもいいでしょ?。一緒に遊んでくれるお父さんを、好きでいてもいいよね」
考えられる限りを並べたてた幸恵ではあったが、聞き入れない風で、正和は相変わらず表情を緩めようとしない。
どれだけ理解してもらえたかわともかく、現状から抜け出す術を求めることに、幸恵は焦りを感じていた。
「正和くん」
美智恵は甘えるような声で正和を呼んだ。
良い考えは浮かばないが、美智恵は正和を求めたい。
その気持を反映させて遊びに誘えば、子供同士いつもの子供らしさを、取り戻してくれはしないだろうか?。
「寂しいのは嫌よね。そうでしょ?、寂しいって楽しくないもの。美智恵ちゃんも、寂しいのは嫌い。だから正和くん、お父さんの分も遊んであげて。ね」
言い終わった幸恵は、美智恵を持ち上げるようにして立たせた。
正和は相変わらずであったが、美智恵は正和の手をとって、庭に遊び出たいと網戸の方に歩いた。
「池のお魚、見にいこおぅ」
誘う美智恵は満面の笑顔を向けている。
誘われる正和は、感情を押し殺したように無表情であったが、はねつけることもなく素直に連れられていく。
美智恵の明るい話し声、誘いに応じてくれた正和。
いつものように遊びはじめてくれるなら、もう心配いらない。
遊びに向かう正和を見て、幸恵は胸のつかえもとれ、息きをはいて伸ばしていた背を丸めた。
安堵した幸恵ではあったが、二人を追っていった視野に、佇む優児が入ってきたのに気がついた。
正和を静めようと、美智恵に役割を押し付けた。
美智恵は正和を思い離れようとはしなかったが、優児は臆して近づこうとはしなかった。
美智恵には感心するも、優児には無理もないこと。
でもそれも済んでしまったこと。
あとはいつものように、遊びはじめてくれることを願うばかり。
幸恵に促された優児はわずかに躊躇したが、力なく足を踏み出してすぐに二人の背後に寄り添った。
張り詰めた空気も和らいで、ふと気が付けばセミは鳴き止んでた。
「あっ、雨がふってる」
網戸に両手を広げ、網戸を開けようとしていた美智恵は、がっかりしたように動きを止めた。
傍らの正和は外の様子をうかがった後、ズボンの後ろポケットを探りながら、幸恵のほうに体を向けようにして、自分が寝ていた毛布の上に座り込んだ。
右手でつまみだした丸めた紐を、正和は丹念にほどく。
左手の指を広げて編掛け、ホウキを束ねるとすぐにほどき、手早く両手にかけなおすと、両方の小指先を振るようにして、次々に一人あやとりをしていた。
外に遊びに出たかった美智恵は、未練を残しているのか、網戸に体をすり寄せるようにして、外の景色に見入っていた。
通り雨のようで、見渡す空の雲はあちこちで日もさしていたが、降り注ぐ雨脚は飛び出すには強かった。
美智恵は反らせぎみに網戸から体を離すと、傍らにいるはずの正和のほうに向いた。
そこに求める人の姿はなく、美智恵は振り向いて捜し、正和の前左側に横向きでちょごんと正座した。
正和は何気なく指から紐をはずし、簡単に編んで美智恵の前に差し出した。
美智恵は肘を折って掌を上向きにして手を広げ、軽く握り拳にしたあと人さし指を出して少し振り、一回その右手をちょんと下ろして上げたあと、正和の指から難無く受け取った。
代わって正和が受け取り、何度か交互に受け取った後、急に美智恵は立ち上がって、幸恵に近づき、紐を掛けた両手を差し出した。
幸恵は向きを変えて、美智恵と向き合った。
内側二本の紐が、右手の小指で交差するように外側に引っぱり上げると、それを相互に下ろし、内側から開いた人さし指と親指を上向きにかけて、幸恵は受け取った。
嬉しい美智恵は、またすぐ幸恵の手から受け取ろうとしたが、幸恵は立ち上がり、正和の前右側に腰を降ろした。
幸恵から差し出されると、正和は両手の人さし指と親指で、二本の紐の間の交差しているところを、指先を閉じて外側に広げてつまみあげ、上から二本の紐の内側に降ろすと、閉じていた指先を広げて受け取った。
幸恵もこれといって、声をかけることもなかったが、正和は下をむいて、紐をほどくと別なものに編み変えた。
それから顔を上げると、網戸近くで立ち尽くしている優児に向かって、手を差し上げた。
二人ともこれといって感情を表している風ではなく、どこか優児がためらっているところがあって、幸恵は促すようにうなずいてみせた。
積極的にというわけにはいかないのか、優児はゆっくりとした動作で美智恵が座っていた当たりに腰を降ろして、正和から受け取った。
幸恵のすぐ後ろについていた美智恵は、正和と向かい合って座り、すぐに優児に手を伸ばして受け取った。
続いて幸恵に差し出したが、幸恵は美智恵の背を押して、正和を相手に選ばせる。
美智恵は素直に従って、正和に受け取ってもらう。
あとはその順番であやとりを続け、幸恵は傍らで静かに見守っていた。
やがて網戸から、日が差し込んでいることに気が付いた美智恵は、優児ごしに外を見つめる。
順番に回していた優児も後ろを振り返り、美智恵は二人に誘いをかけると、あやとりをやめて網戸に駆け寄った。
雨上がりの和らいだ日差しのなかに、仲良く飛び出していく子供たち。
幸恵は右手を毛布について膝を揃えて折曲げ、目にした健やかさに心の和を見い出そうとしていた。
「今さら言い訳もないでしょう。物を買い与えて気をひこうとしていた。何が欲しいか分かっていたのに」
子供たちが部屋からいなくなるのに合わせて、絹代が弱々しい声で話しだす。
話しかけられる幸恵は、この上の関わりを遠ざけたくて、後ろに振り向こうとはしなかった。
「そんな正和があやとりをしたいと言い出して。回りの友達もしないことで、家に引きこもりがちなのが心配でした。どいうつもりで遊び始めたのかと思っていましたが、美智恵ちゃんのためにしていと思ってみたりします」
正和があやとりをするのは、今に始まったことではない。
今になって聞かせるのは、落ち着かせてくれた謝意を伝えようとしてなのか。
母親としての責任を負うことができなかった絹代は、座卓に向かってうつむき、次の動作に移れないでいた。
負い目に沈んでいても、それでも黙っていられないようで、ぼそぼそと話し続けている。
「身勝手なことだとは思いもしたのですが、寂しさから意地を張るのならまぎらせることができればと思って。ええ美智恵ちゃんがいたら我慢してくれる。そう・・・正直なところは後ろめたいとも思いました。手がつけられなくなることばかり恐れて、幸恵さんのお力にすがりたかったのです。悪いことに、主人は海の記念日に合わせたイベントの準備のためにここしばらく家を開けていたものですから。それだけでも正和には腹立たしかったのでしょう。世間では今日が休日だと叫ばれていて、正和も主人がいてくれると思っていたかったのに。私が・・・言い聞かせなければいけなかった。・・・正和はどうするか。ふだんの有様を思うと、とても私の口からは・・・。なんとお礼を申し上げたら」
盛りのセミの声にかき消されそうな絹代の声。
幸恵は乗じて聞こえないつもりで、外の景色に見入る。
やがて魚に飽きた子供たちが帰ってくる。
池に泳ぐ魚を見た嬉しさを幸恵に伝えたくて、美智恵は身振り手ぶりを交えて多少甲高い話しぶり。
幸恵は絹代との隔たった気持ちを伏せて、子供たちに機嫌良く相対す。
話しが一区切り付くと、幸恵は夏休みの日課を子供たちに指示した。
「さぁ、朝のお勉強できなかったでしょ?。お勉強しなくちゃ。正和くん、優児くんと美智恵ちゃんと一緒に勉強してね」
楽しい雰囲気だったのに。
ちょっと考えこむ気持ちも分からなくもないが、子供には子供の日課がある。
「正和君。正和君の部屋でお勉強しよっか。それとも下のお部屋でする?」
「二階に上がるよ」
「じゃ美智恵ちゃんと優児くん、一緒に連れて上がって」
あれほど攻撃的だった正和も、今は打って代わって物静かにしている。
返事はないがすぐに向きをかえ、誘う風でもなく廊下に出ていってしまう。
さすがに優児は乗る気がなさそうで、あとについて行こうとはしないが、美智恵はついて行きたくて優児の手を持ち、正和の後を追った。
二人の後ろ姿を追って行くと、廊下に出た正和はそこで待ってくれていた。
父親に対しての正和は、見てきたとおりで気を許せないが、今までの遊びを見ていても、子供同士ならまず心配はないだろう。
子供たちの気配も消えて、これからしばらくの間は、子供の関わりから離れ、大人だけの時間を費やさなければならない。
内心穏やかでいられない幸恵は、ただ網戸の方に向きを変えているように、ゆっくり部屋を見回して、絹代の横顔を見て取った。
正和との距離の遠さを悔やんでいるのか、相変わらず座卓の前に座ってうなだれたままでいる絹代。
ただ、さっきのように話し続けることはなかった。
当然、幸恵も話しを持つつもりもなく、子供たちの遊び出た影を外の景色に見ていようとしていた。
願わくは、何も無いままじっとしていたい。
楽しそうにしていた子供の姿を思い返していても、絹代に対する不快感を拭い切れず、雨に潤されて少し涼しかった部屋の空気も、吹き込む風が湿っぽく気分が悪い。
覚悟も無かった分けではなかったが、正和があれほどまでに気荒く迫るなど、幸恵は思いも寄らなかった。
誘いを断われなかった苛つきを抑えていると、なおさら苛立ちを感じてしまう。
かといって、絹代の落度として責めたててしまえば、負い目を子供と分かつことになり。
絹代の責を責めたとしても、指摘する全てを認めて平謝りを繰り返してしまうなら、やりきれない思いがつのるばかり。
考えれば考えるほどどうしようもなく、幸恵は晴れた空を見つめ、つとめて気持ちを落ち着けようとしていた。
晴れた空に向かって枝葉を広げる木々の間から、近隣の子供たちの歓声が聞こえてくる。
楽しみにしていた夏休みに、遊び相手を求めあって過ごしている。
美智恵も正和も。
楽しそうに遊ぶ子供たち、幸恵は苛立ちの静まる情景をばかり抜き出していた。
我にかえって考えてみれば、話しのぶり返しは気負い増えることになっても、何の問題解決にもならない。
第一よそ様の不和に関われるほどの余裕がある分けでもない。
「絹代さん、今のうちに買い物に行きません?」
「幸恵さん・・・」
「子供達がお勉強をしている間に、夕食の支度をしておきましょう」
まだ気持ちのの整理がつけられない絹代は、突然の幸恵の提案にとまどって、肩をすぼめたままで幸恵の方に顔を振った。
幸恵は率先して行動にで、そのままになっていた毛布をたたんで積み上げたあと、買い物に行くためにダイニングルームに向かった。
夕食の献立を考え、今有る材料を確認して、買い足すものを絹代に確認しようとした。
振り返ってみたものの、絹代の姿はなく、幸恵は奥の部屋に戻る。
未だに背を丸めたまま座っている絹代の後ろから、幸恵は背を丸めて絹代の顔に自分の顔を近づけ、ダイニングルームに来るように耳打ちする。
当然といえば当然だが、絹代は座り込んだままで立ち上がる気配はなく、幸恵は座卓に並べてあった品物を段ボールに戻し、部屋の出口から念を押してダイニングルームに向かった。
財布を出して手提げ袋にいれ、コンパクトで身だしなみに注意をはらい、火の元を確かめる。
ややあってから絹代が顔をのぞかせたところに、献立を提案して足りないものを言い並べ、食べ物の嗜好を提示して相違を聞かせるように求めた。
立て続けのことで、絹代はなま返事一つしたのみだが、幸恵は一つ返事を返すと、戸締りをして二階に上がる。
戸口から子供たちの様子を確認して、優児にお留守番を指示し、仲を取り持ってくれるように軽く正和に言い聞かせておいた。
幸恵はすぐに玄関に降り、靴を履いて玄関のドアを開けたところで、絹代に早く出てくるように促した。
庭に面した車庫の出入り口から入った幸恵は、絹代の軽自動車の後ろを回り、左のドアノブを持って待っている。
後から来た絹代を見て、幸恵はすぐに乗り込むしぐさで、車に体をすり寄せるようにする。
絹代は出入り口に立ち、窺うように目を伏せ加減で幸恵の後ろ姿を見つめていた。
すぐに出る素振りの幸恵に、絹代は顔を向けることもできないで、車に近づいてロックをはずすと車に乗り込んだ。
すぐに乗り込む幸恵は、絹代が行き着けているスーパーに行こうと告げる。
絹代は車を出すのをしぶって、すぐにエンジンはかけないでいた。
絹代の態度を構わない幸恵は、献立の材料や調理の仕方などを言い並べ、早々に戻り食事の支度にとりかかろうと話を結ぶ。
話しの繋ぎどころが無い絹代は、しぶしぶ車のエンジンを掛ける。
道のりの間も、幸恵は子供の好き嫌いや、絹代の主人の嗜好といった話題を選り、絹代の方からは話をはせさせない。
買い物から帰っても、夕食から寝際まで、そして翌日も、子供達の仲を中心とした話題に終始して、幸恵は岸辺親子の問題に関わろうとはしなかった。

初日に作ってしまた関係のままなのは、幸恵が恐れを遠ざけていたかったからだが。
四日めの昼過ぎに、父親から帰路についたと連絡が入る。
電話を受けた絹代が幸恵に伝えれば、そばで聞いていた正和は口をへの字にする。
正和に注意をはらっていた幸恵は見逃さなかった。
別段このことで、正和が機嫌を損ねたということもなかったけれど。
夕食を片付けて客室に集まり、母子向かい合ってソファーに座り、テレビをみながら一息ついていると、窓側の美智恵が一番早く車の音に気がついた。
それぞれが外に注意を向け、車が車庫に入ろうとしている音に耳を傾ける。
エンジン音が切れ、ドアの開け閉めの音が聞こえると、美智恵は立ち上がった。
すぐに玄関に行こうと話しかけ、正和の手をとって立ち上がらせる。
反対隣に座っていた優児は、そうした二人の姿をなんとはなしに見上げていた。
美智恵と客間から出て行こうとしている正和を、幸恵は咎めるような声で呼んだ。
「待って、正和くん」
正和が見せた父親の不在への抗議、ぶり返しを恐れ押し付けるように、幸恵は説得にでた。
「お父さんが帰ってきて嬉しくないの?。美智恵ちゃんはこんなに楽しみにしていたのよ」
呼ばれたのが自分ではなかったが、こんなときに、しかも聞き馴れない口ぶりに、美智恵はきょとんとして幸恵を見つめた。
「美智恵ちゃんはお父さんをお向かえに行くわ。だって側にいて欲しかったから。正和君もそうでしょ?。お父さんと美智恵ちゃんが困るようにしたりしない?」
正和は美智恵の動きに合わせていたが、まるで母親のような口ぶりで言われ、あからさまにではなかったが、気にいらなさそうに幸恵を見つめた。
幸恵は差し迫ったことと思い、説き伏せるつもりでいだが。
父親を向かえる正和が、ふだんどうしていたかを考えてのことではなかった。
意に反した問掛けであったように、正和はなにも言わないで立ち止まった。
その間に玄関に灯された電灯が、父親の姿をレースのカーテン越しに写しだした。
呼び止められた正和について、美智恵も立ち止まっていたが、玄関のドアの開ける気配がすると、待ち切れなくなって客間を出て行った。
居残ってしまった正和は、幸恵に対してなにも答えず、かといって、あのときのような攻撃的な態度も見せていない。
我慢をしている気持ちからにじみ出る空気は、容易に振りはらえるものではない。
反発が顕著に有るものとして、思わずそれを抑えようと口にしたが。
正和の態度がはっきりしないため、強く切り出してそのあとが続かなかい。
お互いに何も口にしない間に、父親と連れだって美智恵が戻ってきた。
当然のこととしてしまえば正和の立場もないが、我が子への挨拶もそぞろに、父親は客人のもてなしに気を配る。
硬い言い回しで丁寧に幸恵に頭を下げていたが、途中から美智恵に催促され、連れられて優児の右隣に座った。
求められた父親はまるで自分の子供の様に抱き寄せて、訪ねてきてくれた謝意を伝え、優児と美智恵の頭を撫でて顔をほころばしている。
求めたい父親の愛情は友に取られ、親子だというのに呼び立ててもくれない。
ぽつり佇む正和は、物憂いな面持ちで眺めていた。
美智恵は愛玩してくれる父親を見上げたあと、嬉しさを伝えるように幸恵に笑い顔を向けた。
笑顔にはすぐに応えるのに、成り行きがを思いもしなかった幸恵は、無表情に見つめ返すのが精一杯だった。
もちろん美智恵は笑い返してくれると期待してのことだが、ソファーの脇で立ち尽くしている正和に気がついて、考えこんでしまったように笑みが消えた。
美智恵はすぐに立ち上がり、正和の元にいく。
そばに来た美智恵が手を差し出してきても、正和は反対方向に左腕と体を反らした。
事の経緯を知る者は、ぎょっとして正和の動向を見つめた。
絹代はこわばらせた顔を父親に向ける。
それで父親は、日頃の我が子の有様を気付かされた分けだが、今となっては正和の気持ちを察知するのが遅すぎる。
当の美智恵ははしゃぐように笑って、正和が反らした腕の脇の下に自分の手をこじいれ、抱き抱えて強引に引っぱってきた。
父親の右隣に座らせるつもりだが、正和は意地をはるように、棒立ちのまま力を入れて動こうとしない。
初日の出来事を知るものは、情感を沸き上がらせはしないかと恐れ、見つめている。
正和は周囲の視線を避けて遠くを見るようにし、自分の思いにそぐわない美智恵の行動に逆らっていた。
美智恵は動こうとしない正和を笑って見つめ、体(タイ)を入れ替えるように回る。
正和の背にソファーがくるように強いると、美智恵はじゃれつくように正和の横顔に自分の顔を押し付けて倒れかかった。
思いがけない負荷が上体にかかり、正和はたまらずソファーに尻餅をついた。
一緒になって倒れ込んだ美智恵は、正和に抱きついたまま足をソファーの端に上げ、横向きになるとそのまま頭を後ろに倒した。
父親の太股の上で仰向けになった美智恵は、笑い声を立てながら二人の顔を見上げた。
強引に状況をつくる美智恵の行動は、直後には父親はあっけに取られてしまう。
だがすぐに美智恵を覗き込んで笑い、その小さな額に右手を添えたあと頭を抱え、左手で正和の頭を胸に抱き抱えると、二人の顔に交互に笑いかけた。
父親の腕に抱かれた正和は、周囲の恐れに反して大人しく、緊張を解いた顔で向かい側のどこか低くにまなざしを向け、なされるままに任せていた。
予定した期日になると、幸恵はやっとの思いで岸辺宅を後にした。
初日を除けば、恐れていたほどのことはなく、美智恵は正和との別れを惜しみ、絹代ももう少しの長居を求めていた。
子供は大人の気持ちとは隔たりがあるもの。
子供は大人の気持ちを感じとっているもの。
時によりいずれか一方のみを意識しているが、いずれを無視して供に生きていくのは心苦しい。
かといって、相反した双方は同時に思えるものでもないし。
子供が友を求めあう気持ちを、否定したくはないけれど。
せめて、家庭の暖かさに触れられる友を選べたなら。
絹代への、いや、望まない家庭から去ることができ、日常の暮しに戻れることに幸恵は吐息をつく。
でも正和を求めたい美智恵は、今度いつ会えるかと小首をかしげ、細めた目で幸恵を見上げてくる。
人を信じていたい、素直な微笑み。
大人になれば、こんなにも人を信じられないものかと悔いながらも、幸恵は夏休みの予定を並べ、早くには無理だと笑いかけていた。
余所様の家とはいえ、家族の増えた暮しから遠ざかり、子供たちだけでいるとなんとなく寂しい。
幸恵はそうも感じたが、早々に逃げ出したかったことを思い返すと、身を置いていられない憤り、心満たせることだけを求める身勝手さ、その双方に嘖まれる。
子供はより以上に、寂しさをているというのに。
岸辺家とは遠ざかりたい、と幸恵は気持ちの上では思いながら、決断するまでには考えをすすめられないでいた。
岸辺宅から戻った幸恵は、日をおいて帰郷の準備に取りかかった。
先々のことを予見すれば、再び絹代からの誘いがあるだろう。
そのことで沈みもするが、故郷に帰る日が近づくと、忙しさにかまけて思い返すことも忘れていた。
不安に気持ちを奪われることもなく、平穏に日を送っていたのに、出発する前日になって、思いも寄らず正和との関係に向かいあう事になった。
幸恵は家族で着る服や土産などを準備して、居間で荷造りをしていた。
海や祖父母に会えることを楽しみにして、子供たちもそれぞれに準備をしている。
時たま持って行きたいものを問い合わせに、美智恵と優児が二人して、あるいは別々に幸恵の元に通っていた。
持って行く物を揃え、旅行鞄へ詰め込むのも終わりかけたころ、優児と美智恵がそろって幸恵のもとに来た。
すでに夕食もすみ、あとは体を洗って、明日のために早めに寝つかせておきたい。
ただ、不安というわけでも無いけれど、優児はいまだに島で被った事故が身に堪えているのだろうか。
助けてもらったことが、今もなを負い目になっているように、自分を押さえて美智恵の後についている。
聞き分けは美智恵も良くて、幸恵はしつこくならないように、抑えた声で手短に注意を与え、お風呂に入れるように促した。
短かめに話しを切り上げた幸恵は、祖父母に会えることが嬉しいと二人に聞き、喜ぶ顔を見て取ると、荷物の整理をひとまず終えた。
幸恵の問いかけで二人は一層期待を膨らませ、顔をほころばせた優児は美智恵の横顔をを見下ろしたあと、振り向いて居間を出ていこうとする。
美智恵はなぜか居残って、少し寂しそうに幸恵にたずねた。
「ねぇ、いつ正和くんと遊べる?」
「正和くんと?」
「うん」
「夏休みの間は無理かな?」
「そう」
「おじいちゃんとおばちゃんは、会いに来て欲しいって。美智恵ちゃんも会いたいでしょ?」
「正和くんと一緒がいいなぁ」
「遠いところなのよ。美智恵ちゃんはお母さんといっしょだけど、正和君のお母さんは家にいなければお父さんも困るでしょ?。だからといって、正和くん一人を連れて行ったら、正和くんのお母さんは、きっと寂しいもの」
「海で遊びたかった・・・」
「だいじょうぶ、しばらく会えないからって、どこかえ行ったりしないから。ね、もうお風呂に入っておやすみにしよう。明日はおじいちゃんとおばあちゃんが、美智恵ちゃんに会いたいって待ってる」
「うん!」
仲良しと一緒にいたい、もちろん祖父母に会いたい。
どちらにしても、会いに行けることを楽しみにしていたい。
元気に返事を返してくれた美智恵は、駆け足に居間を出て行った。
幸恵は安心して、美智恵のあとについて行くつもりでいたが、不意なことで身動きを止めた。
「また行くの。正和君のところへ」
トーンを落とした速い調子の声は、背後に警戒心を潜ませているようで、幸恵はすぐに返事ができなかった。
わずかの間にそお言い放つ気持ちを推し量ろうとしたが、聞きなれていない声にそわ ついて、湧いた思いが幸恵の口をついて出た。
「どうしたの?。優児君行きたくないの?」
知られたくない気持ちを言ってしまったらしく、優児は後込みをして質問には答えなかったが、見つめている目には食い入るような雰囲気がある。
「美智恵ちゃんは行きたいって」
「だから・・・」
「だから?」
幸恵が聞き返すと、優児は後ずさりに向きを変えるそぶり。
  優児の身の振りようを見ていると、このまま話しを切るのには不安が残る。
「美智恵ちゃんは正和君と遊びたいって。優児くんもそう-しょ?」
話しかけられた優児は身動きを止めたが、見つめる目は湿っぽくなり、泣き出しそうにも見えた。_
「そっか」
優児の目頭に問いかけた理由を感じ取って、幸恵は正座の足を崩して向きを変え、立ち尽くしているそのそばに寄り添った。
幸恵が近づいて来ると、優児は心の内を隠すようにうつむいてしまう。
優児の左側に寄り添った幸恵は、うつむく顔を覗き込んでたずねた。
「正和くんと、美智恵ちゃんが、仲良しでいたら嫌?」
返事が無いという確かな返事。
「正和くんに美智恵ちゃんを取られてしまう。そんな心配しているのね」
優児は図星を突か}た様子で、うつむいた顔をさっとあげて幸恵を見た。
「美智恵ちゃんは、正和くんと遊んでいると、楽しそうでしょ?。だって、正和くんは美智恵ちゃんに会えないあいだ、どうしたら楽しくできるか、考えているの」
黙りこんだまま見つめる優児は、涙をこらえるように目を細め、美智恵が離れていく恐れを、少なからず持っていることがうかがい知れる。
絹代との関係から、優児の気持ちに同調したくもあったが・・・。
「美智恵ちゃんだって、楽しいことが好き。優児くんだってそうでしょ?。だから美智恵ちゃんは、正和くんに会いたいの。なのに優児くんが、正和くんのこと嫌いだと知ったら、美智恵ちゃん、どう思う?」
美智恵の気持ちを持ち出しても、優児は答えようとしない。
優児の見つめる目は、抗議をする正和の視線に似て、幸恵は焦りを感じずにはいられなかった。
もしここで、増長させてしまったら・・・。
「優児くん。美智恵ちゃんがどおして、正和くんのところへ行きたいかわかる?。正和くんは、美智恵ちゃんが来てくれたら、こんなことがしてあげたいって、考えてくれているの。優児くんだって、美智恵ちゃんにしてあげたいと思うでしょ?。だから美智恵ちゃんは、優児くんのそばにいたい、正和くんに会いに行きたい。優児くんがいて、正和くんも一緒にいて、そうして仲良く遊んでくれたら、美智恵ちゃんは、どんなに嬉しいかな?」
言い聞かせようとしてはみたが、正和と一緒にいれば、美智恵は正和の方についていく。
気にとめることもなかったが、優児はずいぶん気にしていたのだろう。
「だいじょうぶ、美智恵ちゃんは、優児くんをおいて、正和くんのところへ行ったりしない、だって、美智恵ちゃんにとって、優児くんは大切なお兄ちゃんだもの」
幸恵は優児の横顔に笑い顔を近づけ、なんとかわだかまりを取り除こうと話しかけた。
にもかかわらず、固まったまま見つめ続ける優児の思いは、推し量れないほどの強さを持っている。
優児の気持ちを受け入れ、岸辺家との交流を、留保に向けて傾けたいとも思うけれど。
子供が大人と同じように、隣人に疑心を広げてしまうのは・・・。
岸辺の家庭の事情は受け入れられないものの、子供の仲を引き裂いて、優児や美智恵が素直なままでいてくれるとも思えない。
美智恵が人を求めたい気持ちは大切にしていたい。
目の前にしている優児では、無理には言い聞かせられそうにない。
我が子のことだから、今すぐでなくても、時間をかけて話して聞かせることはできるはず。
幸恵は少し悲しい顔をして、突きはなしぎみにいい聞かせた。
「優児くん、そうなの?。優児くんは美智恵ちゃんが一緒にいてくれなくなるって。美智恵ちゃんは優児くん信じているのに。優児くんは美智恵ちゃん信じてくれないなんて、お母さん、悲しいな」
幸恵の態度の変化は、優児に心地悪さを意識づけ、見つめつづけていた視線はあっちに方に向けてしまう。
やはりすぐに言い聞かせるのは無理。
「美智恵ちゃんは優児くんを信じてくれている。優児君は美智恵ちゃんを信じてくれる?」
話し終えたとして、幸恵はついていた膝を伸ばして立ち上がった。
その直後、廊下を走ってくる音がして、美智恵が駆けこんできた。
「お兄ちゃん、お風呂に入ろう。待ってるのに来てくれないんだもん」
見れば美智恵は下着も脱いで、バスルームから裸で走ってきたのだろう。
人の交わりの推移におかまいなしに、美智恵は居間に駆けこむとすぐ、今もなお幸恵の顔をまばたきもせずに見上げている、優児の右腕に絡み付いた。
話しを切ったつもりでいた幸恵は、美智恵の誘いを幸いにして、笑い声をはさみながら優児に再度言い聞かせた。
「ほら、優児くん。美智恵ちゃんを待たせちゃったでしょ」
母の優しい気遣いに、あるいは信じて求める美智恵に応えてか、かたくなにも見えた優児は、いつものものお兄ちゃんに戻っていた。
求められた優児は向きを変え、一緒なって歩き出したところで、美智恵は幸恵に振り向いた。
「お母さんもはやくぅ」
「はいはい」
正和への拒否が取り払えた分けではないけれど、それぞれの仲を取り持ってくれた美智恵の誘いに、幸恵は信頼を込めて返事を返す。
もちろん不和に対する恐れは拭えてはいない。
大人になれば、だから大人に近づくほどに、人への不信感を抱えてしまうのは避けて通れないけれど。
優児に限らず、身内や岸辺の家族でさえも、美智恵がそばにいれば優しくなれるのに。
幸恵自身も含めて、幾度も不信感を向ける場面に居合わせてしまうのは、心苦しいばかり。
不信感を広げながら大人になるというなら、せめて子供の間だけでも、人を求めたい気持ちを大切にしてあげたい。
寄り添いあう小さな背を見つめながら、度重なるであろう不信感の現われにどのように対処すればいいものか・・・。
居間から出てバスルームに行く間、幸恵は将来について考えようとしながら、それでいて、通りすぎていった事柄を漫然と思い返していた。

故郷への道のりは遠く、見渡す限りの海が、水平線の遥か向こうまで続いている。
乗船した時にははしゃいでいた優児もは、いいかげん退屈して幸恵に頭を預けて眠りについていた。
美智恵はといえば、眠りについた優児からそっと離れ、船室から出て海に向かって甲板の柵を両手で掴んでいた。
マッュルームカットより少し伸ばした後ろ髪が波風にそよぎ、島影さえも見えない海を、飽きることなく見つめていた。
楽しみにしていた島への帰郷は、悲惨な記憶を思い起こすことにもなるけれど。
不安は尽きないものの、両親の元にいれば、ほとんどの悩みは思い返さないでいられる。
身内の間では恐ろしい記憶は蒸し返さないように心がけ、できるだけ子供たちの健やかさに話題をふる。
子供たちは元気をもてあまし、波が穏やかならば親子で砂浜に出かけた。
都会の汚れた海とは違って、島の周囲はきれいな海。
先に港に出ていた父の持ち前の漁船に乗り込んで、海の遊びにはことかかない。
美智恵は祖父に頼み込んで、少し沖に舳先を向けさせる。
何が有るわけでも無いのに、舳先からはるか彼方にある水平線を見続けているのには、首をかしげもするが。
優児が銛を手に取り、あるいは網を投げる素振りをするのには、子供の成長を見て取る祖父も目を細めている。
遊んでばかりもいられない祖父は、仕事の段取りをつけたいようで、ころ合いを見計らって舳先を入り江に向けた。
帰り支度に取り掛かったところで、さて子供はと見れば、美智恵はするりと舳先から海に飛び込んだ。
舵を握っていた祖父は、漁船のエンジンを止め、ゆっくりとした足取りで舳先に向かう。
舳先にしゃがんで、のぞき込んだ海に向かって話しかけ、おもむろにタバコに火をつけて吸う。
その一本を吸い終えて、肩で息をした背が海に傾き、伸ばした手が美智恵を引き上げた。
美智恵を甲板に降ろした祖父は、ゆっくりと歩いて再び舵を握ると港に戻る。