AI 人口知能に任せてひきこもろう

AI 人口知能の弊害はすでに侵攻中。
おいらのブログは「BMI 思考制御」でググってもスマホで出ない。
物事には、肯定的なことでも悪い・否定的なことは包含しているし、逆に否定的なことでも良い・肯定的なことも包含している。
それをAI 人口知能がその「人間が求めることに沿う」、つまり、その人が求めたい嗜好に取捨選択すれば、現実との齟齬・乖離で炎上・無視になって当然だし、人が情報を求めるときに、否定的・肯定的に偏ることで、理解や思考がチープになる。
というところでAI 人口知能の弊害、つまり人間が取捨選択の捨をすることがいかに理解とは隔たることかを、「ひきこもりをなんとかしよう」の否定論で愚痴ろう。

「ひきこもりをなんとかしよう」は社会側の要求としてならしょーがないことだが、「ひきこもり」当事者にすればしょーもないこと。
「社会に出ている人」が「社会から遠ざかってる人」を考えるってな、180°立場が違うことなのでもともと無理な話。
「ひきこもりをなんとかしよう」と言ったって、当事者やしようとする人、さらにさらに周辺の問題をピックアップしていったらてんで話にならん。
「肯定的」だけでなく、「否定的」なことも付き合わせにゃ「問題解決」にはならん。
結局のところ「AI 人口知能」は、「使用者の求めるに沿うものでなければならない」ということで、「ひきこもりをなんとかしよう」ということの否定的な面の情報をAI 人口知能側と、その「ひきこもりをなんとかしよう」としている人双方で弾いてしまうのがそもそもの致命的な欠陥。
というところで、「ひきこもりをなんとかしよう」の否定的な面を愚痴愚痴列記する。
当然、「ひきこもりをなんとかしよう」と言う人には論外役立たずなことだが、そのことで当然「ひきこもり」をなんとかできることはない。

すでに愚痴っているが、「ひきこもりをなんとかしよう」は社会側の要求としてならしょーがないことだが、「ひきこもり」当事者にすればしょーもないこと。
まず、専門家とかが対応していることだけれども、自閉症とかアタマノオカシイ人はそれこそ専門家任せということだが、残念ながら、「ひきこもり」の人でも「専門医」で診断をあおいだ人しか「病名」は分からん。
しかも「専門医」の専門性と言うかその能力で計るところの診断というものが必ずしも適切ではないというのが、かかる専門医によって診断も治療方針も違うとか。
それを、そういうビョーキの人を素人が「ひきこもりをなんとかしよう」とどう対処しようってんだい?。
で、そういう「アタマノオカシイレッテル」を張りつけられればまだしも、「コミュ障」やその他「アタマノオカシイレッテル」を張りつけられたことに嫌気がさして「ひきこもり~♪」とか。
つまり、「ひきこもる」というのは、それぞれの人の事情があるということだ。

「ひきこもり」と言っても様々な状況・理由がある、のは当然。
だがその様々な状況・理由なんて「ひきこもっている者」であることで理解するに役立つ情報の質や量もなかろうに。
「ひきこもりをなんとかしよう」と言う時には、そういう人は上から目線ということになろうが。
事例として出した「頭のおかしい人」が相談する人というのはそれこそ勉強をしてモンノスゲ~頭の良い人ということになる。
が、そういう人が相談される立場での注意事項と言うか能書きというか、そういう「頭のおかしい人は、相談してくれる人の力量を計っている」ということだ。
当然のことだが、母親が子供を医者に連れていくとか、下手なことをすれば医者の力量なんて母親はこてんぱんに評価するのが常だろうに。
会社に平で行ったって、上司だろうがCEOだろうがこてんぱんに評するだろうに。
それこそ日常だが、親のことであろうが、近所の人であろうが、会う人身近にいる人、関わりのある人、それこそ実際のことなど知りもしないマスコミから流れてくる人を計るのは人間としての常だろうに。
で、「ひきこもりをなんとかしよう」と言う人はその「ひきこもり」を計ることはするとしても、「ひきこもりをなんとしよう」と言う人たちは「ひきこもり」に計られていることは意識しているのかい?。
「自分達はひきこもりをなんとかしてあげようとしているのに、なんでひきこもりに計られていなければならないんだよ」ってのは、そもそも「人間を相手にする」ことの理解が欠如しているんだよ。
そういう輩はそもそもそういうことには向かん。
大人が子供を相手にするにしても、子供は相手にしている大人を計っているのは常識・当然ごと。
まして大人の「ひきこもり」なんて大人の知恵を持って相手を計っているということだ。
押し入れに押し込んだ人形を引き出して話しかけるのとは分けが違う。
今まで生きていて、少ない経験にしろ他者を計ってきた物差しで計って見ているということだ。
で、その「ひきこもり」が「ひきこもりをなんとかしよう」として来ている人を計っていることが分からないなら、その人の人となりが分からないということだから、一方的に言っているだけのこと。
まして「ひきこもり」が持つ計りを否定するのは、その人の、生きてきた事実、を否定することだから拒否されて当然ごと。
だいたい、「自分が人を計っている」ことが理解できていない者が、人に関わろうってのが整合性が無いと言うか食い違いごと。
食い違っているのだから、コミュニケーションが成立しないのは当然。
「自分が人を計っている」のはだいたい「多分に否定的見方」であって「自分自身を見るのは大部分肯定的」ならばそれこそ食い違いごと。
いや、「ひきこもる」、まぁその一部の人ということになろうが「自分のことに否定的」というのであれば、「自分を見るのは大部分肯定的」の人が相対すれば、それこそ食い違いごとだろう。
加山雄三が森田童子の歌が理解できんと言っていたが、逆に、森田童子は加山雄三の歌は理解できんといったところか。
要は、自分の立場の考えを押しつけたって理解してもらえない。
「ひきこもっている」ことが理解できん、というのが一般論のはずなのに、その「理解できていないことをなんとかしよう」、というのがそもそも食い違いじゃん。
その食い違いを前提にせんのに、「ひきこもりをなんとかしよう」、分かりもしていないことができるわけないじゃん
抜けた、「ひきこもりをなんとかしよう」と言う者は「ひきこもり」を計る術はもちえてないが、「ひきこもり」は「ひきこもりをなんとかしよう」と来た者を計っている、ということだ。
うがった見方をすれば「計られるのが嫌になった」として「ひきこもり」になったとすれば、「ひきこもりをなんとかしようとひきこもりを計りに行く」とすれば、それこそ相入れないだろうに。

「明るい」「社交的」は子供の頃から求められるもので、そういう性格・人間性で無いのであれば、子供時代ず~と友達もいないで仲間に馴染めず、とかすれば、社会に出て社会が馴染めないのは当然。
そのために学校で集団生活してる、とかではなく、子供は様々の性格の集団をその時々で造っていくもので、その様々な性格になる集団に臨機応変に馴染むことが「子供の社会性」ということだ。
が、そういう子供集団ってのは情動的に激しいとか躍動的だとかで、物静かな子供にすれば取り残されごと。
だけど、社会に出ると、逆に情動的に激しいとか躍動的なことは爪弾きごとで馴染めないわけだ。
「落ち着いて静に」
当然のことだが、社会に出るというのは、生活や人間性を定型にして、自分らしさを押さえつけて暮らすことが求められる。
これができんと社会に馴染めないのは当然。
情動的に激しいとか躍動的なことを社会に拒絶されたから「ひきこもり」になったと言う時に、生活や人間性を定型にして、自分らしさを押さえつけて暮らすのを求めます、とすれば言わずもがな。
で、OVA アルテア 作がブラックポイントだったけか、作中で「戦闘で精神攻撃を受けて頭がおかしくなって、それを治療してまた戦場へ」とか、働くことに疲弊した「ひきこもり」はブラック企業で働かせればいいじゃん。
「ひきこもり」を受け入れる社会側が、必ずしも健康的ではないことも考えておかないと、対策が最悪自殺という結果にもなりうるということだ。
それじゃぁ、「ひきこもり」を矯めて人を殺す、じゃん。

で、根本的に、「ひきこもりをなんとかしよう」という者の人間性に問題があるとすれば、よりこじらすことこそ有れ解決することは無いのは自明ごと。
中学の時に仲良くさせてもらっていたクラスメイトは、今になって考えてみれば「外向的コミュ障」だった。
いつぞやの中学の下校時に、おいらが初恋した人に「外向的コミュ障」の人が「一緒に帰ろう」と誘ったことがあったが。
その誘いに、今まで見たこともないようなムとした不機嫌な顔をしたのに、それでも「外向的コミュ障」の人が満面の笑顔で誘い続けていたが。
そういえば、この初恋の人は夢見る乙女っぽい人だったと思うが、こういうシャカイノクソリクツごとを考えていたかどうか不明、つまり夢見る乙女であるとするならば、もしおいら化物顔が付き合うことがあったとしても話が合わないということだ。
ついでに思いだしたが、初恋の人の女性幼馴染み。
この人は社会性ということでは良くできていた人だと思うが。
仕事とか社会的行事とか任せておけ安心、という印象。
が、思いだしてみるに、「異性との交流」とか、あるいは決まった友達以外と仲良くしているのを観た覚えが無いような・・・。
つまり、定型的な社交性は持ち合わせているが、「ひきこもり」以前に、周囲の人とのコミュニケーション能力ということでは疑わしいということだ。
「ひきこもり」が問題、とした時に、じゃぁこうゆう人が「ひきこもり」をなんとかできる、でなくて、近隣・会社内とか「ひきこもり」になりそうな人に対応できるのか?。
あるいは、最初に就職した職場に、とにかく自分は親分肌でなんでも見事なまでにしている、と言う確信をもっていて、なんでも不出来なことしかできない現実とか、人の評価叱責なんて、まるで理解できん人がいたが。
「わしが言うようにしたら良いように言うたるで」とかそのさせようとしていることは短絡のクソ間違いだし。
「良く言うてやる」たってその労力と言うか人を使うと言う理解、顎で使う、とかの社会的常識の無さ丸出しだし。
その系統で、繰り返しおいらが非難している「健常者キチガイ」のように、自分を優位尊大に思い込みながら、見下す者を求めて言いなりにできるものだと思い込んだり、はたまた「下の者」ということで自身の精神安定剤にしたり。
そんなん職場で相手にせにゃならんで、その上虐げられることにでもなれば「ひきこもり」になろうっちゅうもん。
二人目の「健常者キチガイ」の時は、半年もすれば自滅していなくなる、と経験上思っていたが、三ヶ月でいなくなったが。
そういう、人と相対して不快感を与えるとか、もともと対人関係を破綻させるような者が「ひきこもりをなんとかしよう」と「ひきこもり」のとこへ押しかけて、「ひきこもり」を重篤にさせてしまうのは当然っちゅうもん。
しかも、こういうろくでもない輩は「自分の正当性と尊大さ」に執着していたいから、自分の間違いも相手の気持ちもまるで分からんのにいけしゃぁしゃぁと「自分くらい正しいことをしている者はおらん」くらいにしか思わん。
一人目の「健常者キチガイ」は「わしがおまえに合わしてやっているんだ」とかぬかしたが、こっちが合わしてやっていたのは分からんだろうが!。
「ひきこもりは人を遠ざけたい」ということが一番の視点・前提ちゅうに、押しかけていって自己宣伝していれば上手くいくと思ってろ!。
この一人目の「健常者キチガイ」は、現実の立ち位置の認識の整合性を破綻させてしまって、精神的にまいって引っ越したが。
こういう輩が「ひきこもり」になった、社会に出てくるな!、ちゅうの。
人に迷惑かけるような者共など誰だって身近にしたかねぇ!。
で、「人を言いなりにする」のは悪い、とは誰しも分かることだが、実際には「不出来苦手」に付け込んで「儂が目をかけてやっているんだ」の傍若無人の自己中はいくらでもいる。
で、イジメとか三ヶ月で辞めた「健常者キチガイ」で分かったのに、言いなりにする者がいることが、回りにいる者共にとっても肯定・必要としているということだ。
言いなりに使われている者に、労力や嫌なことや負担だと思うことを押しつけられていられれば回りの者共は楽じゃん。
で「自分が子供の頃にはイジメは無かった」とのうのうと大人は言っていられる分けだ。
だって「自分がイジメた事実は無いもん」。
が、力づくで嫌なことや負担だと思うことを押しつけられた者は、その回りののうのうとした者共には恨みはらさでおくべきか、ごと。
その味方の無さから「ひきこもり」を選んだとすれば、回りにいたであろう者共が「ひきこもりをなんとかしよう」と押しかけても信用が得られるはずもない。
ということで、「ひきこもりをなんとかしよう」側の人間性が問題、ということはおざなりに問わない、ことで上手くいくはずもない。

一方で、社会問題系は専門家を含めてみんなヌルイ。
人間の認知・認識・理解等々は、ずれと分断、簡略に「認知・認識・理解等々には断層がある」のだからしっかたないが。
実際問題、「個性・自分らしさ」は人との関係性によって成るもの。
一方的(しかも単調・単純)に否定・攻撃を向けるのは人との関係性を無視してだから。
よって、「関係性を無視した多数の人間による否定・攻撃」は一様なことで「個性・自分らしさ」は多人数のエージェント・スミスのように「同様の人」に染まってしまう。
この、「彼ら」と言うか集団化というのは今のネットから子供の「イジメ」とか国家から小さな集団まで現れる人間現象だけれども。
ナチズムとか日本の差別とか、歴史的に集団での攻撃性は繰り返されているのに、大学や大学関係の人間理解では当て糞が無い。
あるんなら歴史的に集団での攻撃性は繰り返されていることで子供のい「イジメ」も同様の集団現象と啓蒙しとけや!、つーところ。
化物顔としては、「見下したようにしないから、あれはわしを見下しているんだ」のキチガイ論法には辟易してきたが。
要は、「生意気だ!」とか大人社会ではフツーあるいは必需のこと。
大人では「地位」関係を決めつける関係性が横行するが、子供でも同様に人気キャラの取り合い、集団ではガキ大将(今は死語だが人気取的に中心にいたい)の関係性とか、考えてみれば、大人社会への準備とも言える。
したがって、「イジメ」の加害理由付けの一つである「見下したようにしないから、あれはわしを見下しているんだ」は、大人社会の方から理解・解決していく必要性がある。
が、大人社会ではこれが社会秩序の中に組み込まれているものであり、また「見下したようにしないから、あれはわしを見下しているんだ」のキチガイ論法は大人自身が否定的・問題があるとされることを拒みたいことで、よってこの「イジメ加害者の方法論」での「子供のイジメ」を解決するべきではない。
「見下したようにしないから、あれはわしを見下しているんだ」・・・つうか、ネット社会で「専門家」を「素人が自分の思うようにならない」ことで食ってかかっているのは滑稽なことでしかないんだが。
大人社会が子供の「イジメ」を考えるとか、だいたいは「空孝」とか「空論」、というとこに「子供の時にイジメられた事実」突っ込んでも鳩に豆鉄砲ごとだが、「空孝」とか「空論」話題で考えたつもりになってれば大人側は良いじゃんごと。

「あれが、ああいうことをするなんて」とか、人を勝手に決めつけてしまうことはよくあることだが、これが時に深刻な「イジメ」になる。
「イジメ加害者脳はイジメ被害者にもある」ということで決めつけが激しいと攻撃(イジメられる)ごとになるが。
思い込みと言うか、性格・人格・人間性・知的水準等々なんて、その人でない人が決めつけられることではないじゃん。
それを強硬にすることは、人権・人格権の否定でしかない。
これは、「他の人に否定的なことを勝手に決めつけてしまう」のは痛みが無いから分からないごとだが、「自分に否定的なことを他人が勝手に決めつけてしまう」のは激昂ごと。
が一方で、性格・人格・人間性・知的水準等々決めつけて、その人がそのとうりにしてくれているのは安心していられるごとだが。
前例の「健常者キチガイ」の見下し相手とか。
が、これは大人社会で往々に横行していることであり、場合によっては虐げられていることになり、時に反逆的に事件にもなりうる。
当然、ガキンチョもこれが常態なことで、小さないざこざから深刻な「イジメ」にもなりうる。
前の会社で「健常者キチガイ」にやられたが、「認知の歪み」のある野郎なので手順を踏まない性急なことをしておいらが間に合わせないことで「仕事が遅い」とか言い触らした挙げ句早々に首になったが。
もちろんおいらの未成年時にも「化物顔」ということで決めつけられたが、まぁだいたい知的水準の低い奴等ばかりだったので、今はもうもうろくしていることだろう。
もうろくしていなくたって、再会したときにはその「決めつけていたこと」をそいつの孫とかの前で言わしめてやる!。
性格・人格・人間性・知的水準等々を決めつける、ことをするというのは、短絡的でそうしたことごとを実際・事実関係を知らない(まるで無視、ということだろう)で決めつけてしまうということだ。
考えてみれば当然のことだが、「知らないことは決められない」。
その人を知らないのに「あれが、ああいうことをするなんて」とか性格・人格・人間性・知的水準等々を決めつけるんでっか?。
だけど、人間、そうすることがフツーのこと。
ということは「知らないことを知っているから決める」ということになるけれども、「知らないことを知っている、というのは妄想だ」ごとじゃん、当然。
ついでごとで思いだしたが、家族の介護とか障害者の付き添いをしなければならないために「ひきこもり」しているとしたらどうよ?。
そんなメンドクセーことはたいがいの周囲にいる者は忌避ごと逃げだ仕事じゃん。
そんなんこそ「ひきこもりをなんとかしよう」ってやれ!つーの。
つまり「ひきこもりをなんとかしよう」は現実を見失った安易・短絡ごとでしかねー!つーの。
一方で、前に住んでいたアパートに引っ越してきたトラックの運ちゃんは、仲間を集めてサバトを開いて、奥さんには金も出さず家族なんて知ったこっちゃないだったが。
こういう輩は下述しているけれども、「社会」には出ているが「つるむ」ことで地域社会からは「ひきこもり」なわけだ。
さらにはその家族も、収入の余裕もなければ地域社会の体面も無いことで「ひきこもり」しているとしたら?。
当然、そう言うと時には、その原因にしてしまっている、家族や社会状況を解決せんとどーにもならんのは自明ごとだが。
「ひきこもりをなんとかしよう」と言う者共は、そういうムズカシイバックグラウンドは見て見ぬ振りして見易そうな「ひきこもり」を選んでなんとかしましょう、かい?。

で、おいら化物顔は、朝の通学路の子供の顔を見るのを楽しみにしていたが、不審者として広島市牛田新町小学校に警察に通報されて、ノータリン警察官に職務質問されたぞい。
ということで、牛田新町小学校周辺とか避けて、なるべく「ひきこもり」するようにしていたら、だいぶんたって、「お困りごとが有りましたら相談してください」とかボランティア活動か知らんポストに投函されてたが。
ふざけんじゃねーよ、化物顔がうろついているから子供を護ろうって通学路見回り強化していたろうに。
その地域住民のはしくれが、な~にが「信用してください・お相手してあげましょう」だ!。
すでに愚痴垂れているが、幼少期に「明るい」「社交的」「(今時の話題性を持っている)」で無いことで追いやられて、あるいは人とは変わっていると相手にされないで人との関係性に馴染んでいない。
そういうところで、「ひきこもりをなんとかしよう」という人が突然話し込みに行って、その当事者が持っていない話題ですんなり話に応じるわけないだろうに。
「自分は社会に受け入れられていない」という思い込みは勘違いの場合も有るが、現実に今まで生きてきて、自分が属すことができる集団の中で他者との肯定的交流をしてきた経験が無いとか少なければ、あるいは集団から不審者とか相手にしたくないとか否定的に見なされてきたとすれば、仲間内輪の者共の中に身を置くことが了解・容認できるはずもない。
「不審者を身近にしたくない」は社会的に正当なことだろうが、「不審者と見なされる」ことの憤怒を「ひきこもりをなんとかしよう」の能天気頭共には分かりっこねぇ!。
「不審者に見なされたひきこもり」に対しては、「ひきこもりをなんとかしよう」は完膚無きまでに間違いだ!。
「不審者に見なすものは社会からいなくなれ!」と地域住民は断固たる態度で言ってろ!。
それが正論!。
だいたいもって「不審者とみなす」ことの理解が一般論として有るのかよ?。
社会的には一般論として使われているが、その「意味」ということで誰もが理解している、ものではなかろうに。
「不審者とみなす」というのは、不審な行為行動がある、ということからだろうが、おいら「化物顔」は「キモチワルイ不快な顔」ということで広島市牛田新町小学校に「不審者」として警察通報ノータリン警察官職務質問ということだった。
「行為行動」ということでは、子供の顔を見るのが楽しみとは言え、おいらは学童通学時にも子供にあまり近づかないように動作していた。
屋外にすれば、パーソナルエリア(心理学用語)は1m以上な分けない、せいぜい半径70cmくらいなもんだ、それを意識して子供との距離は常に取っていた。
が、不快感あらわのパープー(パープルコーディネート服装)女児の被害妄想からってところ。
実際問題、「不審者」というか、身近にいれば危ない人はいるわけで、そういう人を排除しなければ自身の安全は保障されない、ということはあるのだが。
ただし、その判断は事件が起こってしまわなければ正否の判断はできないし、事件が起こってしまえば取り返しがつかない、ということだ。
「不審者」という判断は、例示のように被害妄想の場合も有るし、判断はつかないところだが、「不審者」とみなすとなれば、いなくなってくれた方が安心感につながるし、「行為行動」の如何に関わらず「不審者」の方に全ての罪・責任があるとする言い分だ。
一方で「不審者」にされる立場にすれば、その「不審な行為行動」をするとしても、そういうことをすることでさえ正当化したいろくでもない者もいたりするのが人間の常だが。
が、「不審者」とされるということは、「社会的地位の剥奪」であるとともに、自尊心を貶められ自らのここで生きている(つまり行為行動)正当性を否定される断じて認めらないことだ。
したがって、社会に「不審者」というレッテル貼りをされたときに、戦う気力があれば戦うだろうし、かえってそれで「不審者」というレッテルが強化されてますます爪弾きということも有るだろうし。
戦う気力が無ければ、社会に嫌気が差して「ひきこもり」にもなろうが、その嫌気に社会が「ひきこもりをなんとかしましょう」ってお話にならない馬鹿丸出し対応。
まして「ひきこもり」をしたことでますます「不審者」という決めつけを社会は強化していろ!。
なんで「おまえのような者は信用できない」と面と向かって突きつけておいて、「社会を信用してください」だ!。
おいらは広島市牛田新町小学区の地域住民は断じて信用できん!。
抜けた。つまり「不審者」と決めつける側は対象者がいなくなれば良い、全て対象者に罪・責任がある、としたいが、「不審者」とされた側はそれ以上に「不審者」にした者を「不審者」と決めつける!、ということだ。
「不審者」と決めつける側及び社会がその認識が無いことで、そのことでの「ひきこもりをなんとかしよう」ということはまったくもってお話にならん!。
まだ抜けてたが、「不審者」にされたことで「ひきこもり」になったとして、それを周知の立場で「ひきこもりをなんとしよう」というのであれば、「自分達は格上で不審者は見下す者」という関係にするということだ。。
もちろん、そうは思っていないとか阿部総理質疑応答並みのまことしやかな理屈は言うだろうが。
「不審者」とされた者が、その関係性で「ひきこもりをなんとかしよう」と言う立場で相対されるということは、正に自尊心を貶められていることでしかない。
「不審者」とみなされた事実を「口車で無かったことにする者」など信用すできない!。
前述したように、「不審者」とされた者は「不審者に決めつけた者をそれ以上に不審者に決めつける」ということだ。
まぁ、勝手の良い様に「ひきこもりをなんとしよう」という者が否定していれば理解してない無いことで「ひきこもりはなんともならない」の空虚ごとだろうし。
じゃぁその「不審者」が「不審者と決めつけた者」に、「自分のことを信用して仲良くしてください話を聞いてください」と言えば「不審者と決めつけた者」は信用して仲良くしてくれるのかよ?。
また抜けた、と言う状況として、じゃぁ「不審者」とされた者が「不審者とした者」にエラソーに理屈こいてやろうじゃぁーないか!。
そんなもん「不審者とした者」は腹立たしくてそれこそ警察に「不審者対応求めたい」だろうぜ!。
つまりは「不審者」とされたから「ひきこもり」を選んだ、と言う時には「ひきこもりをなんとかしよう」とする者が「自分達はひきこもった者よりは上だ」という思い(無意識的であっても)でするとなれば、「ひきこもり」にとっては「不審者がいると警察に不審者対応求めた」どころではない怒り心頭だということだ!。
それでも「ひきこもりをなんとかしよう」という者の言いがかりで、「なんで切れたのか分からない」だとか「親身に関わっているのにひきこもりをやめない」とぬかすわけだ。
関係性も「不審者とされる」こともまるで理解が無くて解決するわけねぇ!。
化物顔がお買い物~。
と、ある路地に入ったら、20代くらいの女性がおいらを見つめて「気持ち悪い!」、おいらが自撮をツイッターTLに張りつけたらそんなことでツイッターが削除指定されたってところか。
だから、それが「正義正当」ってんなら、原爆投下されてケロイドになろうが天然痘で痘痕も笑窪になろうが、そうなれば自分や家族や有人や恋人などなどが肖像権削除して社会から抹消ごとな世の中で良いじゃん。
でもって「人間としての尊厳」「基本的人権&平等」も剥奪されることにしてしまうことにしとけや!。
だけれども、「醜い」と「醜悪心」丸出しに蔑むとしても、いざ「醜い」と非難される容姿になれば、自分が「醜い」と矛先を向けてたのはどこ吹く風で、自らの立場の尊厳を護ろうとする身勝手得手勝手「醜悪心」丸出しなのが人間ではあるが。
素顔が化物顔だけど、「化物顔の素顔」をTLから削除するのは差別ではないと?、ツイッターさん。
どこぞで少女が顔にスプレーかけられて全治三カ月とか、キモイならTLから被害を受けた少女の顔を削除しろよ→ツイッター。
「化物顔は不審者として警察逮捕で死刑にしろ!」
「子供が顔にスプレーかけられて全治三カ月」を、「健常者」の人達はどの程度理解しているのやら?。
「美容整形」とは違うんだよ。
「形整形外科」なんだよ。
おいら「目玉焼き(第3度だっけかの大火傷で上下目蓋が委縮して常時粘膜が露出してたことでついだ徒名)」は45年前くらいに植皮して治したけれども。
これが、てんで見栄えが良くなってなかったのはツイッターさんがおいらの自撮りをTLから削除指定したとうりのことで。
その手術を受けた翌年に、新しい植皮術ができたということで、この植皮術を受けていればもう少し見栄えは良くなったんだろうけど(あいにく、おいらはその結果を見たことが無い)、おいらの植皮術は剥がすと移植を同時にするが、新しい植皮術は月日をおいて「3回」しなければならない。
「醜い顔」の者(高校女子・・・小学女子だって病棟にはざら)には負担が大きい・・・黒痣・赤痣・奇形・火傷・・・健康・生活上問題も無ければ、保険は適用されない、今はどうか知らんが。
だが、問題なのは、「社会が醜いことを許さない」ことなんだよ。
身勝手な判断の者共は正義や同情を振りかざしてろ!。
広島市牛田新町小学校に不審者として警察に通報されてノータリン警察官に不審者対応されたけれども、おいらは(無職ということで職探し中だった)「顔が悪いけぇ接客業とかできん」、ノータリン警察官は「そんなことないですよ」、そのことで通報されたことで警察官の職務として職務質問してんだろうが、ドアホウ!。
すでにツイッターがおいら化物顔に実践しているように、「気持ち悪い・キモイ」は社会から抹消ごと。
全治三ヶ月の女子に今同情しても、やたらと傷が残って大人になってたら「キモイ」と社会から抹消されていろごと、ということで「全治三カ月」ではなく「全治一生」になりうるかも、なんだよ。
「全治三カ月」で治ったとしても、「キモイ」と社会から抹消ごとにして「全治一生」にするのは「社会・世間」だからな。
「正義・同情」振りかざして、そういう顔に実際に会ったら「キモイ」と糾弾しとけよ!。
おいら化物顔ノータリンは、"世の中絶望だらけ"だな。
ねぇ、化物顔はTLから削除の差別実践のツイッターさん。
「全治三カ月」で治ればよし、が世間・社会が「キモイ」と糾弾するなら「全治生涯」だよ。
おいら化物顔自撮がツイッター削除指定だが、大人がそうしているのだから子供同士で「キモイ」と糾弾(つまり「イジメ」)して当然じゃん。
それを「大人」が「子供のイジメ」と言う時には、「同情・正義・子供への憧憬・・・等々」とか自己満足でお茶を濁してきてるから、過去から未来永劫子供の「イジメ」に大人は対応できないことの繰り返しなんだよ。
「イジメ」ということでは、大学や大学関係者は「老害教授」に辟易されてしまえ!ごとだが、「老害教授心理学」とか向き合うことも無く、大学ではその人間の否定的な面とは向き合わないで、(マネーロンダリングをもじって)education launderingしているから、「イジメ」とか人間の否定的な面の理解なんて全うに考えもしようとしない、大学生の集団強姦事件とか、それこそ「全うに調査・面接」したのかよ?。
繰り返すが、世間・社会が「キモイ」と糾弾するなら「傷害は生涯全治しない」。
そうなった(つまり犯罪の被害に遭った)理由なんてカンケーナインだよ。
一目瞭然「キモイ」が今の社会の糾弾を向ける「正義・善良」だよ。
おいら化物顔はここんとこ小学5年くらいの女子に目をつけられてるから、「不審者」としてまた通報されるかも知らんが。
「キモイ」とか「好み・機嫌等々」的なことで人を糾弾・蔑むというのは「醜悪心」の露呈でしかない。
まぁ、どうせ人間は「醜悪心」を捨て去ることはできないのだから「クサレ」同様、「キモイ」となれば「人外と見なす」ことは繰り返されること。
それは、今回の事件の被害者の少女がどの程度回復していて、これから大人になって社会・世間から「キモイ」と糾弾されなければ、だが。
社会・世間が「キモイ」と糾弾するのが我こそは正義ごとなのだから、子供同士の間で「キモイ」と「イジメ」て何が悪いんだよ?。
「子供同士は仲良く」ふざけんじゃねーよ、子供は社会性が育ってないことで攻撃的に思ったことを言うもんだよ。
悲報、言っといてやるけれども。
おいらは重度の火傷の繰り返し手術化物顔だが、おいらの顔を見て「どこの病院(おそらく頭のおかしい者を隔離しておく)から来たんや!」という頭のおかしい者はそこら中にいる。
つまり「おいら化物顔を不審者と決めつけた地域社会の不審な住民は信用できん!」ということだ。

で、次だ。
一般的に「ひきこもりでない」人が「まとも」かというとそうではない。
おいらが中学校当時、自分がクラスとか馴染めないことで悩んだが、まぁ、そういうことはクラスの者共は知らないだろうが。
今時のSNSとか「価値観の共有」が価値があるということだが。
他に「つるむ」ということが友達とか集団になるのに必要な関係性だが、こういうことは「コミュニケーション」とはだいぶん違うものだ。
「コミュニケーション」というのは、一般論としては、「意志疎通」とか「あんうんの呼吸」とかとされているが、「折り合いのつかないところをどう折り合いをつけるか?」という技術や妥協という面も有る。
で「ひきこもり」と言う時には、そういうことに気がついて、自分にはできないということで「ひきこもる」という場合も有ろう。
が「価値観の共有」や「つるむ」ことを求めている・できている人は、そういうことに気がつく必要がなかった、気がつくことができなかった人達だと言えよう。
その関係性で考えるならば、そういうことに気がついて、自分にはできない、と思っている者に、そういうことに気がつく必要がなかった、気がつくことができなかった人達が「ひきこもりをなんとかしよう」、で「価値観の共有やつるむ」ことでの関係性を押しつけて「ひきこもり」が解決できるのかい?。
立ち返って「コミュニケーション」ということを考えた場合、「折り合いのつかないところをどう折り合いをつけるか?」という技術や妥協が必要ということなのだから、「価値観の共有」や「つるむ」というのはそういう徒労や技能をしたくない・してこなかった者、ということだ。
つまり「価値観の共有」や「つるむ」ことができない状況では「コミュニケーション」がとれない状況になるよりしっかたない。
つまり、「価値観の共有」や「つるむ」ことをしている集団に馴染めないとして「ひきこもる」ことを選んだとすれば、「価値観の共有」や「つるむ」ことをしている者が「ひきこもりをなんとかしよう」として「価値観の共有」や「つるむ」ことをしよとしてもコミュニケーション」は成立することは無いということだ。

少し前に、「健常者キチガイ」がいた時の職場の世話になった先輩に道端で呼び止められたが。
「私は旦那と一緒にいるのがストレスや」
知ったことか!、おいらはそちら70前のバーサンと話するのがストレスや!。
いや、おいらが広島市牛田新町小学校に不審者職務質問されたことで「ひきこもり」することにしているが。
ポストに「相談にのります」とか汚い字のボランティアかなんか知らん紙切れが入っいていたが。
大概そういうことは社会的に暇になった年寄がしていることで、年下の者からすれば汚くて融通の効かない年寄なんて近づきたくもない。
が、「年寄」からすれば、社会的に意味あることをしていると思いたい上に、話し相手ができれば鴨がネギをしょってくる恰好の暇つぶしだろうが。
たとえば、おいらは今でも実戦ロリコン(男の子でもするが)というかスーパーとかでチャンスがあれば乳幼児とかと非言語系言語でコミュニケーションとるが。
まぁ、乳幼児に限らないが、子供といる、ということは、「仲良くする」ということもだが、これは「寄ってきてくれる」ということだが、「側にいて警戒されない」ということにも注意してる。
それはつまり「ひきこもり」を相手にするとしても、「警戒している」とか「逃げていく」のはコミュニケーションが取れていないということだろうに。
つまり、「ひきこもり側のニーズ」に即していない上に、「ひきこもりをなんとかしようの側の一方的ニーズ」を向けても、それはまるで食い違っていることで、「ひきこもり」を深刻化させることこそあれ、解決の方法にはならないということだ。
このことで、「核家族化」の深刻な弊害の一つは、年寄以前に年の離れた者を身近にする習慣が無い。
その上で、「経済」が「価値観の共有」を価値付けしていることで、「価値観の違うこと」は論外にしてしまっている。
つまり、その二つを携えて「ひきこもり」に相対してなんとかできる、わけなかろうが!、ごと。
おいらはロリコン、だけでなく、化物顔ということで同年代の者には相手にされないことで、年寄とか相手にしてきたが、年寄と話をするってーのはそりゃーストレスフルだよ。
一方で、「年寄」は「喪失の時代」を生きていることで、自身の存在意義とか社会的意味とかで焦りまくっているわけだが。
いや、若くったって「自身の存在意義」なんて他者にはそれこそ他人事甚だ迷惑ごとの知ったこっちゃねーごとだっつーの。
何かをする、と言う時に、他の人のためなのか?、自分のことのためなのか?、そういうところを見失い易いのが人間、と言う視点がないことには「ひきこもり」のためにしているかどうか分からんごと。
人の気持ちを気にしている「ひきこもっている者」と、「ひきこもっている者をなんとかしようという人の気持ちの分からない者」、と言う関係もありうる分けだ。
いずれにしても、「ひきこもりをなんとかしよう」とする時には「社会に出てきてくれた」ことが評価としてあるということだが、そのことの吟味なく押しつけがましくしていることが継続し続けているなら、実害の方が多いということになろう。
それでも、人は「肯定的な意味」に執着していたいのだから、「ひきこもり」の側の了解の有無もなく「ひきこもりをなんとかしよう」と執着し続けることで「ひきこもり」をことさら深刻にしていこうということもありえるわけだ。

「顔が悪い(化物顔)のだから頭が悪くて考えも無い」のキチガイ論法に往生こいたが。
人間は違和感や否定的なことがあると、頭が悪いとか頭がおかしいとかみなしたいもの。
だけども、そういう否定的な評価を向けられればブロックごと。
いや、頭が悪いとか頭がおかしいとか言ってくる者に、「おまえの方が頭が悪いとか頭がおかしいんじゃろうが!」と言い返せば頭が悪いとか頭がおかしいとか言ってきた者は鶏冠に来るだろうに。
その鶏冠に来るような評価で「ひきこもりをなんとかしよう」と頭のおかしいことをぬかしてろ!。
だいたい、「頭が悪い・考えが無い」とすれば、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」ことにできると思い込みたいのが人間の常なんだよ。
だけど「頭が悪い・考えが無い」とすれば、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」わけではない。
フツーのこととして、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」とする者なんて誰しも身近にしたくないだろうに。
それこそ「キチガイ」のような人でも、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」と思い込んでいたいんだよ。
だけど、そう思い込まれていたなら、関係上深刻な問題になったり、その思い込みどうりにならないことで憤怒したりするわけだ。
「知的障害者」というかそういう類の人であっても、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」ことにしたいわけだが、そんなん「健常者」側からしてみれば、まったくもってお話にならないわけだ。
それを「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」としたいとかできるとか思い込んでいたいのが人間っちゅうもんだ。
だけど「頭が悪い・考えが無い」とすれば、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」としたいところで、その思い込みが、「できる」とか「正しい」分けではないところで関係性が成り立たない。
まぁ「枠組み」の中で牛耳れる・逃げられない状況ではできるわけだが。
なら「枠組み」から逃げ出して「ひきこもり」しようぜ!。
そんな、「頭が悪い・考えが無い」とすれば、「自分に主導権がある・自分が決められる立場にある」ことにできると思い込んで言いなりにしたいが「頭が悪い・考えが無い」として「主導権がある・決められる立場にする」と思い込まれて言いなりにされるのは拒絶!、という食い違いが役に立つか!。
でもって、「頭が悪い・考えが無い、頭がおかしい」というのは、短絡に「自分とは違う」という思い込みで、必ずしも論考した評価では無い。
人により得意不得意はあるし、経験や知識が違えば物事の考え方ややり方も違う。
その違いを排除したり周囲と同じようにするように矯正するようなことをすれば、ますます「ひきこもり」を強めるからどんどんしろよ!。
だいたい誰しも自分がしていることは「それが良い」と思ってしていたいし、否定されるのは拒絶ごとだろうに。
それを、「ひきこもりをなんとかしよう」という者は「これが善意で正しいこと」と「ひきこもり」に矯正を強制してろ!。
で、繰り返すが、「価値観の共有」や「つるむ」のはコミュニケーションでは無い。
そのことで、集団や社会に違和感があるとした「ひきこもり」を誘い出すことはそもそもできない。
おいらは若い時には70才前後のお年寄りとも話をしていたが、そんなもん「価値観の共有」とか「つるむ」ことで年寄と話ができるかー!。
もちろん子供には子供の話がある。
小2女子に、「これ知らんのん、おっくれてるー」と言われたが、さりとて子供の流行りに大人が合わす筋合いでもない。
実際、「価値観の共有」や「つるむ」ことをしなくても子供達からの人気を取っていた。
つまり、「価値観の共有」や「つるむ」ことをしている人はコミュニケーション能力が劣った人で、「価値観が違う」「ふだんつるんでない人」とはコミュニケーションがとりにくい、という場合すらあるということだ。
で、自分事とすれば、可能性としてこれから仕事を辞めるとか、年取ったことで社会から爪弾きになりだすクラスメイトとかから「仲良くしましょう」なんてそれこそ爪弾きだ!。
おいら化物顔はコミュニケーション能力が高いことで、若いネーチャンとか歓談しているが、振り返るに、クラスメイトなんてそれこそ、いや、今まで社会に出て会った人なんて、ほとんどコミュニケーション能力の高い者なんていない。
「枠組みのある中での価値観の共有・つるむ」ことをコミュニケーションとしているのが常。
が、「年を取る」つまり、年寄になってしまえば「価値観」はそれぞれの拘りになり、つるめる人もいなくなっていく(死ぬ・認知症・痴呆症・寝た切り・・・自分もなれば家族もなりうることでそれこそひきこもりにならざるおえないとか、状況によっては住むところを引き払わなければならない)ことで「違う者」を相手にしなければならないんだ。
同様に、知的水準も落ちていくことで、すること・できることも減少していく。
つまりそれだけ「価値観の共有」も「つるむ」ことも難しくなるわけだ。
が、おいらは「ひきこもる」にあたり、年を取ってもできることを準備してきたことで、当面「ひきこもり」をしていても残りの人生の時間潰しには困らない。
で、そういうところで、じゃぁ集団の中にいて「合わせる」ということだが、ちょっとまて。
今時「気が合う」ことが条件だろ?。
「合わせる」はストレスやろ?。
で、集団となると「集団を乱す」「変わっている」が問題になるが、それこそちょっとまて。
その「集団を乱す」「変わっている」ことが許せない・寛容になれない人の方が「合わせる」ことができないからだろうに。
「集団を乱す」「変わっている」ことが許せない・寛容になれない、つまり「合わせる」ことができない者の集まりに入るということは、ストレスそのものということで、しかも年を取れば、「合わせる」ことがより困難になるのだから、「集団を乱す」「変わっている」ことが許せない・寛容になれない者と関係性を持つのはストレスフルになりうるということだ。
会社とかで働くには、「集団を乱す」「変わっている」ことが許せない・寛容になれない、は必要な人間性だが。
「集団を乱す」「変わっている」が許せない・寛容になれない人が、それを良しとした会社などから離れて、多様な人間が集まるとした場合には、「集団を乱す」「変わっている」者は煩わしい。
となれば、「集団を乱す」「変わっている」が許せない・寛容になれない人、が「ひきこもり」になりうることも想定できるし、そうなった場合、多様な人間が集まる中に引き入れようとするのはその人にとってストレスフルなことではないのか?。

で、見下す・上から目線で「わしがおまえにあわせてやっているんだ」という「健常者キチガイ」がいたが、こちらが合わせてやっているのは分からんだろうに。
つーか、「合わせてやっている」なんてな見下す・上から目線ごとで、されていると意識したら不快感・腹立たしさでしかないだろうに。
で、おいらはというと、化物顔は忌避してやる、ごとで同年代は総じて相手にしてもらえなかったが、一方でおいらは子供や年寄は相手にしてきた。
それこそ子供なんて、「合わせてやっている」なんてことすれば嫌われれて当然だが、寄ってたかって遊んでくれていたので楽しかったつーところ。
ということで、「化物顔だから相手にしたくない」とかの輩は「合わせる」ことが苦手なことが想定できることで、年を取ったら対人関係に苦労することが想定できるちゅうーところ。
おいらは子供と仲良くすることができていたことで、そのできていたことを「喪失の時代」でどれだけ長く維持できるかだな。
そうすれば、楽しい老後が長く続けられるつーことだ。

一方で、地域社会は高齢化と、「価値観の共有・つるむ」者は地域社会からドロップアウトしていることで、地域社会は構成員の確保ができなくなっているわけだ。
で、「ひきこもり」されていては地域社会が運営できないから「ひきこもりをなんとかしよう」じゃねーだろ!。
「価値観の共有・つるむ」者が地域社会の構成員から逃げ出している方が問題だろうに。
まぁ、逃げ出していなくなっている者より、「ひきこもる」ことでそこにいる者の方がとっ捕まえやすい、ということはあるだろうが。
まぁ、双方問題だろうが、いずれにしても「社会」側が問題理解ができていない。
いずれにしても、「ひきこもり」を決め込んでいるおいらは、同年代以上の者などはなっから相手にしたくないし、年下の者にあれこれ言われても聞く関係性もなければ筋合いでもない。
大概の人間は、「人を相手にする」ことがそもそも理解になくて「主導権」と「自分が決める」ことに執着したいだけ。
それは「ひきこもり」を選んでいる者も同様のこと。
それだけのこと。
一部地域とか、仲良しグループとか、確かに集まって仲良くできる人はいるが、そんなんホントーに一部の年寄。
たいがい脳・身体の劣下で対人関係できなくなる、ということで、おいらは「ひきこもり」して一人遊びできるように若い時から準備してきた。
20代の時見上げた年寄の年においらはなってるつーところだが、現状目標として来た状態にはいる。
「合わせる」「面白く思う」というのは、年を取ると共に脳細胞が死滅していくことで、「できる」ことが減るだけでなく「面白いと思う」こも減少していく。
20才の頃見上げた年寄りの面白みの無さに比べれば、おいらの脳味噌はよく頑張ってくれていると思う。
その頑張ってくれる脳味噌が、いつまで頑張ってくれるかだが・・・。
これをどれだけ継続できるかだ。
寄る年波には勝てんてところ。

ヒデェーことを言うと、中学の同期学年が70人ちょっと、ということで、50才からこっち年二人づつ死んでいくものだと思っている。
もちろんその中においらも入っているが。
でもって、おいらのクラスメイトとか同年代は、おいらが20代の時に見上げた年寄同様年寄じみていると思うとうんざり・・・・会いたくも無いつーの。
ま、棺桶に片足突っ込んでる年になったわけだから、その内両足突っ込んで焼かれれば良い。
もちろんおいらも同様だから、独者は短命ということであと10年内外とかで死んでることだろう。
化物顔を忌み嫌い蔑んで遠ざけた他人共の年老いていく醜悪な容姿など見たかないね、今までどおり化物顔忌み嫌い蔑んで遠ざけてろ!。
死んでいく者より、いかに若い人と仲良くしていくかだよ。
だいたい、劣下している者を相手にしたって面白くねーじゃん。
「顔が悪い(化物顔)から、頭が悪くて考えも無いとみくだしてやる」の脳味噌腐敗論法者相手にせずに、子供とか若い素直な者と、いかに長く相対していられるようにしていくかだな。
どがんゆ~たって、年寄じみて老け込んでいくだけの話するより、夢も希望もある話が良いに決まってる。
「年を取ったから仲良くしましょう」だの、まして、「化物顔だから忌み嫌い蔑んで遠ざけていましたが老いていくから助けてください」などとは聞く耳持たん!。
年老いて醜悪な容姿になったからには社会から見捨てられていろ!。
醜悪な容姿になった年寄は「ひきこもり」になってろ!。

ついでのことだが。
「顔が悪い(化物顔)から、頭が悪くて考えも無いと見下してやる」の脳味噌腐敗論法にはおうじょうしたが。
これがだいぶん前に中学校とかの同窓会するとか案内がきたときの話。
案内文に「・・・がんす」って広島弁使ってるんだが、実家の隣の故奥さんは常時使われてたが、こいつが使ってるのは小中の間聞いた記憶が無い。
つまり、みょーにへりくだっている、一方でそれなりに噂を聞いていたのでカチンときた、ので、近況とか自己紹介的に書き込む欄に「人間以下でしたが、人並みくらいには生きています」と書いといた。
あとから「ほんまでっかTV」で、同窓会をするのは自慢話をしたいから(違ってるか?その類)と聞いて、「こいつが~」と膝を打ったが。
まぁ、求心力のある奴だとは思ってなかったが。
で、もう一人発起人だか一緒に段取り付けているのが、福祉系のとこで働いているとかのように聞いていたのに、その参加連絡文に「個人情報」を乗っけているのがおいらには怒り心頭気味。
そんなもん、同窓会の席で言い合うなら仕方ないが、必ずしもだ誰の目に触れるか限定できない配達文(一応封書だったが)に載せることではないだろうに。
「自慢話」をしたいと浮かれていたとしか思えん。
で、こいつは要領は良かったのだろうが、今となって記憶たどるのにクラスとかで交友関係が良かったとは思えんが、他のクラスメイトはどう思ってるのだろう?・・・・まあどーでも良いか。
で、同窓会の連絡文には「人間以下でしたが、人並みくらいには生きています」の記載は無かった。
ということで秒殺ゴミ箱へポイ。
で、こいつが連絡くださいということで、同窓会当日電話かけたんだが、案の定おいらと話をしたいと言う奴はおらんかった。
つまり、「会いたいと思っている奴はいない」と確認するために、この福祉系の奴の携帯にかけた分けだ。
「人間以下でしたが、人並みくらいには生きています」の記載は無かったことと、「会いたいと思っている奴はいない」と確認したことで、今後同窓会するとしても行かないこと確定。
「自分が子供の頃にはイジメは無かった」とか大人になれば、子供の頃のことは美談化、醜聞は忘却ごと。
これで大人が「子供のイジメを無くそう」、無くなるわけないじゃん。
イジメ被害にあってる子供は、今の「大人がする、子供のイジメ談義」はこの程度のことだと思い知っとけよ!。
で、「自慢話」って、言いたいことだが、聞きたくもないのがたいがいだろうに。
「人間には、認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」ことだろうに。
当然のことだが、「自慢話」は鼻高々したいわけだ。
一方で、聞く方にしてみれば、煩わしくて頭の良くないことをしている、と判断するもの。
有名人にでもなればもてはやされるだろうが、有象無象の無名な者が自慢話をするのは失せろ!ごと。
だけれど、「自慢話」に執着すると、弱っちい者が繰り返しすればウザイと「イジメ」対象ごと、で強い奴がすればショーガナイごとだが、「自慢話」を傷つけられたら攻撃ごと「イジメ」ごと。
これを、会社とか大人社会の組織とかでやってみんさいよ。
ときにドンダケー凄惨・非道なことになるか、思い知らされている大人はいくらでもいるだろうに。
繰り返しごとだが、つまり大人社会を見渡して、「子供のイジメ」を考えなければお話にならんし、それをしてきていないから、大人は子供の「イジメ」に無力なままの繰り返しの「子供のイジメ自殺」ごとだろうに。

で、「自慢話」と対で「偉そうに」だが。
これは人間は「自分が決める存在」であることの知的生物としての下劣さの誇示。
「偉そうに」というのは、先入観とか固定観念を向けたいというところで、「違う」ことへの攻撃。
「偉そうに」と言う時には、人間性・個性・能力等々を決めつけているということで、その「型枠」に合う合わないといっているわけだが、「あんたが他人の「型枠」を決める立場にあるんかい?」ごと。
だけれど、人間は「自分が決める存在」であることで、「自分が決める」ことができない・「自分が決める」こととは違う、ことが腹立たしさや攻撃性になるわけだ。
ツイッターとかSNSで「画」とかが攻撃されるのは、「自慢話」のように理解することと「偉そうに」つまり「自分が決める」ことができない・「自分が決める」こととは違うことの相乗効果で激しいことになるといったところだ。
で「顔が悪い(化物顔)から、頭も悪くて考えも無い(あるいは考え方がおかしい)」とか、「型枠」だけではなくて、そこに確固たる思い込み、しかも否定的・不当な決めつけが強固に有ることが問題。
すでにどこぞかで愚痴垂れているが、「型枠」を嵌め込む云々などどーでもよいことでその確たる思い込みを向ければ、自己主張がとおるとか、相手の存在や主張を撥ね付けられる、とかしたいわけだ。
実際、「その現場」、「イジメ」もだが、原発反対とか「主張」のあるところではこういうことはフツーにあることだが。
だが、現実には相手は存在する上に、思い込みは存在している相手とは必ずしも関係無い上に、「型枠」に嵌めることがナンセンスなわけで。
当然のことだが、これは子供世界では深刻な「イジメ」になりうるし、大人社会の組織や対立になれば非道で凄惨にもなりうる分けだけど、大人は言わないわけだ。
が、それも集団の中にいて、多少なりとも力があるという前提なだけで、よぼよぼと年を取って「偉そうに」とか言っても、誰にも相手にされなくなる惨めな者、ということになる。
でもって、その「言う立場」にするときには、なんらかの言う立場を捏造するわけだ。
言う相手に対して相応の「正義」とか「道徳」とかの「力語」をかざすわけだ。
だけれども、とってつけた「立場」なんぞ張りぼてで、真っ向勝負になれば遁走・脱兎のお笑いごと。
だけれども、人間は「自分が決める存在」であることで、その関わるとした物事は「自分が決める」としたいことで、「自分が決める」としたことと違う・否定的なことには否定・攻撃せずにはいられないつーところ。
だけれども、「型枠に嵌める」ことが間違いであることに代わりはない。
もちろん「宗教(イデオロギーとか国家思想etc・・・)」の「型枠に嵌める」も子供がする「型枠に嵌める」・・・状況として「イジメ」も同じこと。
の割りには、「型枠に嵌める」ことをされると拒絶ごとだが。
結局のところ「人間は、認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」・・・「宗教」は特に他の「宗教」とはそうしなければならない立場だろうが。
「イジメ加害者脳はイジメ被害者にもある」、つまり許せない・寛容になれないのは「子供の時のイジメ」で深刻な問題であるが、年寄になっても深刻な問題になりうるということだ。
「顔が悪いから、頭が悪くて考えも無い」の「・・・だから、・・・だ」というのは、その間の理由とか関連付けが無いとか破綻ごとだが、考えるのに、「・・・だ」とかの攻撃性を向けたいだけで、そもそも「・・・だから」が取ってつけたことではないのか?。
ということであれば、ツイッターとかSNS上で「・・・だから、・・・だ」という主張には、質問&詳述を求めたり、否定をぶつけたりするというのは無意味ごとだということだ。
それはつまり日常においても。
だけれども、自他での行為行動を眺めてみれば、「自分でするから正当だ、人に押し付けるから正当だ」つまり「自分がしなければならないのは不当なことだ、人がしているとすれば不当なことだ」の勝手の良い使い分けをするということだ。
つまり物事が分かっている・適切に評価できるなら、「自分への評価と他の評価が一致する」ものでなければならないが、「人間には、認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」ことで「自分でするから正当だ、人に押し付けるから正当だ」つまり「自分がしなければならないのは不当なことだ、人がしているとすれば不当なことだ」の勝手の良い使い分けをするということだ。
こうなると、宗教に限ったことではないが。
まぁ「子供じみている」とは言えるが。
いずれにしても、人間は「自分が決める存在」であることで「自分が決める」ことが優先事項であって、「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」ことを詳らかにするなどとは論外どころか撥ね付けるわけだ。
そんなん話し合いも屁ったくれも無いごと。
つくづく人間は最も下劣な知的生物でしかないごと。

で、おいらは「年を取る」ことを中学三年からかなり悩んで生きてきたことで、「老化」ということの対応早くからしてきた。
2~30代頃には職場が年寄ばかりだったが、その劣下していく様にはうんざりしたが。
ということで、すでに愚痴垂れているように、自分はそうならない方法を模索して、劣下している年寄と比較して、今のところ年老いていく劣下は遅延させているのに成功しているかな、と。
だいたい、同年代ということでは、もうすでに認知症・痴呆症・アルツハイマー・癌・寝たきり・介護の年になっているわけだから、中学のクラスメイトとかに会ったってろくな話はないうんざりごと。
おいらとて、化物顔+腰めげで、さらに場合によっては家族の介護をせにゃならんかもしらん。
そんなんで、人事の話なんかどーでもええわ。
もう残り少ない人生だから、メーンドクセー人間のメンドクセー話なんか相手にせず、一人で楽しめることをしていた方が面倒臭くなくて良い。
孤独死まっしぐらってところ。
「化物顔」、要は、「助け(つまり負担をせにゃならんような)がいるような者は相手したくない」ということで皆遠ざけたかったわけだけど、遠ざけておいて助けを求めて化物顔に頼みに来るなんてふざけたことするんじゃーねーぞ!。
若い時には「化物顔の人間以下」と見下して言いなりにできるとか思っていただろうが、年取ると劣下して力が無くなると、「善人ごっこ」で目減りを減らそうとか求めるものは、自分で考えて求めようとする頭が無くなったことで下手な戦術をするわけだ。
「善人ごっこ」とかは「既知」つまりよく知った間柄ですれば良いことであって、知らない間柄で振り回すのは「詐欺師」だからな。
「善人」とかその類の言葉振り回してきたら「あんたは詐欺師か?」と聞いてやる!。
で、老化して劣下すると、自分に力がなくなっていることで、愛だの優しさだの道徳だの社会常識だの「外圧」を印籠のごとく振りかざして言いなりにしたいというのは予測の付くことだが。
「化物顔は忌み嫌い遠ざける」ことがおまえらの愛だの優しさだの道徳だの社会常識だったんだろうが!、と断固撥ね付けてやる!。
「助けを求める」ことの厳しさを思い知っている化物顔に、助けを求める劣下して力が無くなった者が甘ったれるんじゃーねーよ!。
だから、老後の人生を歩むためには、若い時からの人間関係と人間性がいるんだよ。
「価値観の共有」だとか「つるむ」ことでろくに人間関係も造っていない、人間性も良くない、ということで、世に孤独死が溢れて当然ごと。
どこぞの国の孤独死の抑制に向けた新制度なんて鼻で笑ってやる。
要は「個人の人間関係と人間性の問題」。

繰り返し愚痴垂れているが、脳味噌の劣下はすでに幼少期からある。
そういうのがいくらアンチエイジング頑張ったところで老化には勝てん。
山椒小粒の姉御(66才)がどんどん劣下している。
本人自覚だが、若ければ物事が他と平行してできていたのに、一つのことすると他がおろそかになる。
昔は気にしていたことが気に止められないとか、落ち度を注意すると怒られたり。
「できる」ことが当たり前で生きていたところでげんなりごと。
これが今からできないことが多くなっていくと思うと暗澹たる思いだが、しょうーがない。
人間が時として非合理的な行動をする←これは的を射ているようでそうではない。
「できる人」からすれば「できない人」は非合理的な行動をしているとしか思えないが、人はそれぞれ知的水準があり、得て不得手も有る。
ということからすれば、「できることを得意げにする」と「不得手なことを咎める」ことをするというのは不愉快なことだ。
誰しも「不得手・下手」ということで貶められたくないものだが、「不得手・下手」ということ責める・咎めることが、「人間の非合理的な行動(判断や認識や理解)をする」ということになる。
が、大学関係だと、「できる人」が集まり「できることを良しとする」ことに価値を求めることで「できない」ことの理解ができない。
一応「寄り添う」とか「目線を合わせる(だっけ?)」とか、対処法をまことしやかに教鞭とっているらしいが。
「(あえて差別的言葉を使うが)知恵遅れ」とか生まれながらに「できない人」は「できる」ことを求められる社会であることで生きにくいことは重大なことだが、「老化」という「できる」ことの「劣下」によって「できない」ことが増えていくのは、誰しも避けられないことであるにも関わらず、「できない」ことに悔しさを持ちながら「できる人」に理解してもらえず、さらには「できる人」から責める・咎められてしまうことの悔しさは理解されることは無い。
「不条理」というのもそうで「できない人」に関わらねばならなくなってしまうのは「できる人」には「不条理」だが、「できない」状況というのも「できない人」にとっては「不条理」そのもの。
世情が「できる」ことを基準にしていることで、「できない」ことは責める・咎めることになるが、老化により劣下してできなくなるのは順番ごとで、人間は「できない」ことの悔しさを噛み締めていれば良いごと。
おいら自身の今後のこととしては、老化すると劣下して力が無くなることで、愛だの優しさだの常識だの道徳だのといった外圧に頼って人を言いなりにしてやろうというのが世情のやり口だと想定しているが、今まで爪弾きにしていた者共には関わらない、当然。
関わるというのは「信頼関係」があることでするのであって、爪弾きにする、つまり、おまえなんて信用無いとしていたのを信用してあげましょうって掌を返すようなことをして、なんで信用できように。
化物顔を一目瞭然に不審者に決めつけていた娘や、相談を受けて警察対応にまでさせることになた娘の親が年食って助けがいるようになったから「化物顔でも信用してあげますから助けてください」、そういうのを「常識が無い」「厚顔無恥」って言うんだよ!。
自分が生きているということは、自分一人では生きていけないということで、どこで人の助けがいるか分からないから、爪弾きとかにしていると困ったときに助けを求められないとかになる。
おいらは今となっては長生きはするもんじゃないってことで、何か有ったら死ぬだけのことで、他人に助けを求めるのも他人に助けを求められるのも筋合いも無いし知ったこっちゃ無い。
「ひきこもり」して孤独死に向けてレッツゴー!。
すでに書いているが、平均余命からすれば、中学の同期学年も50才も過ぎれば毎年2人は死んでいる勘定で、もう10人くらいは逝っているかなぁ?。
つまり、もう死に逝くばかりの昔のクラスメイトと関係性持っても意味無いじゃ~ん、ってところ。
だけれども、年を取ると、と言う前に、自分達が若い頃には年寄を爪弾きにしていた、ってところで、若い者には相手にされないのが自明ごとだけど。
現状、おいら自身はあちこちで子供や若いネーチャンが話し相手になってくれる。
これをこれからどれだけ継続できるかだな。
自慢なんかするようなら嫌われるごとだが、要は「自己コントロール」ができるかどうか。
「自己コントロール」するためには「自己観察」が必須だけれども、老化するとこれがまるでできなくなる。
性のマイノリティでもいっしょ。
「なんで~」「それは違う」とか自分の考えにしがみついているだけの者共相手にしても時間と労力の無駄。
「自分の考えでなければならない」頑固年寄なんか誰しも相手したくねーよ。
性のマイノリティだって頑なに「自分の考えでなければならない」。
「人間は、悪い不当なことと自分は違う、という結論をもって考えようとする」けどね。
「炎上」とかTLの攻撃系の程度の低さと言うか、「自分の考えでなければならない」「自己コントロール」「自己観察」等々のことを参照すると、こういう連中は酷い老後をおくる者になるとしか思えん。
おいらは化物顔だけど、そのことで「若い時」にどんなにあがいたって「人並み」には扱われない、ということで、「老後」を勝負と定めて準備してきた。
一応、「準備」が功を奏しているであろうということで、1961年生まれつーか、その周辺の者共より「若く」生きていると思う。
「良い男」とか「成功」とかは若い時には必要だけれども、「年老いた」と言う時には「金」や「地位」にものを言わすとしても、たいがいの「凡」は寄る年波で他の者からは嫌われるもの、と若い時には見ていて、一般的に年取ってヒ~ヒ~。
「年取って人と仲良くできる」人、というのは%テージが低い、ということで老夫婦と言えども年食って仲良くしていられるカップルも多くはいない分けだ。
しかも、前から言っているが、おいらの中学の学年同期で言えば、50も過ぎれば毎年平均二人は死んでいる公算。
長生きすればするほど、知っている人が少なくなっていく。
で、年を取れば劣下していくことで、自分も自分以外の者も、人間性もコミュニケーション能力も劣下していくことで、新しく親しい人をつくるというのは困難になっていく。
ということで、年を取って劣下していくのをいかに遅らせて、若い人と仲良くできるか?、ということが老後の人間関係と言うか生きることの豊かさになるわけだ。
当然のことだけど、若い人の「若い」ことに「年を取った者」が合わせられる分けはないし、合わそうとすることが違和感となって年寄る加速になる。
コミュニケーション能力は、「話す」ことばかりではない。
「引く・退く」ことも必要なんだけど、年取って劣下すると、これが分からなくなるから若い人から敬遠されてろ!、ごと。
「年寄と話をしよう」と言うことが若い時には必要で、「自分には関係の無い話を自分のペースでは無く聞く」という訓練(教訓?)が必要だ。
ペースは年寄は遅く子供は速いが。
かつペースを合わせて受け答えをする。
が「自分のしたい(求めたい)話題を自分のペースでする」たって、年が違えば相手にされるか!。

この「頭が悪い」「頭がおかしい」ということは、現状の社会では意味があることであってはならないはずだが。
知的障害者、精神障害者、ダウン症、自閉症、アスペルガー・認知症・痴呆症・・・並べたら切りがないが。
でもって、長生きすることになれば知的水準が落ちていくことで「頭が悪い」ことになる、だけでなく痴呆症・認知症・アルツハイマーとかになれば「奇行」とか「頭がおかしい」行為行動・言動になる。
すなわち、社会の中で生きていれば、「頭が悪い」「頭がおかしい」者を身近にしなければならない場合もあり、また避けられないことにもなりうる一方で、自身もそうなりうる可能性があるということだ。
よって、「頭が悪い」「頭がおかしい」ことを責めるというのは現実社会では公にあることはよろしくないということだ。
むしろ、「頭が悪い」「頭がおかしい」と問題にしたり責めたりしてる方が「頭が悪い」「頭がおかしい」ことではないのか?。
もちの論で「頭が悪い」「頭がおかしい」人はいるが、「頭が悪い」「頭がおかしい」と問題にしたり責めたてたりすることは、自己肯定観とか安全の確保の破壊とかで怒り爆発でより「頭が悪い」「頭がおかしい」状態に方向付けさせてしまうことらしいが。
で、「顔が悪い」から「頭が悪い・頭がおかしい」ってのはなんなんだよ?、そこにどのような関連があるんだよ?、ってのが「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」人間が知的生物としてもっとも下劣な証左だが。
「・・・だから、・・・だ」というのは一般的な人間の思考ルーチンだろうけど。
大学や大学の人間理解は当て糞が無いところで言えば、心理学、ユング派から見てフロイト派は?、逆にフロイト派からみてユング派は?と言う時に、論旨も無く「・・・だから、・・・だ」というのはあったはずだ。
「師匠の受け売り」だっけ?、とか自身の学問の態度とかで「・・・だから、・・・だ」というのはあったはずがeducation launderingして考えたくも無いだろうけど。
だけれども、「・・・だから、・・・だ」という論法は、子供の「イジメ(福島から来たから放射能に汚染されている・・・だっけ?)」から国家・人種・民族・宗教・イデオロギー・・・人間が考えるところでなんにでもその論法はある。
だけれども、「・・・だから、・・・だ」の「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」のはその関係性の論旨も無かったりこじつけだったりしてまともなことじゃないじゃん。
で、これは「人間は、結論を持って考えようとする」つまり「先入観・固定観念」が先で、それを正当化しようってだけのこと。
正否はまるで問題ではない、「先入観・固定観念」ありきで、理由なんて考えたくないということ。
で、すでにどこかで愚痴垂れているけれども、「障害者に理解を」は、身近にしないときには綺麗事で「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」ことで、身近にすれば「・・・だから、・・・だ」と「先入観・固定観念」が露になるごと。
だけれども、education launderingして考えたくも無い大学や大学関係は人間理解が当て糞が無いことで、「・・・だから、・・・だ」と荒ぶれて振り回す「老害教授」に蹂躙されてれば良いじゃん。
そんだけのこと。
「老害教授」に蹂躙されるのが嫌なら、「・・・だから、・・・だ」を研究して荒ぶれて振り回す「老害教授」に対抗できる研究して、それを公知周知してくれや!、でないとこちとら「顔が悪い(化物顔)から、頭が悪くて考えも無いとみくだしてやる」に往生させられるだけや。

で、「否定的な決めつけ」は年寄の専売特許だろうに。
それを子供の時に過剰に決めつけているというのは、子供の時から脳味噌が老け込んでるからだっちゅうに。
「若い脳味噌」なら柔軟性があるよ。

以前ツイッターTLで、福島避難民生徒イジメで、「イジメ」に遭った生徒が高尚なことを言っているのは親がそういうことを吹き込んだからだろう、と揶揄してい野郎がいたが、事実関係知らないじゃん、回りの者は。
でもって、子供に危害が及んでいるとすれば護ろうとするのは親として当然じゃん、親は子供が「イジメ」に遭っても口出しするなって?。
「知らないことを決める・決めつける」ことがいかに愚かさの丸出しかだよ。
だけれども、人間は、知らないことでも決める・決めつけたいんだよ、大人・大人社会であろうが子供であろうが、で、「知らないことを決める」:ということでは、ホリエモンの待機児童の口出しだが。
若い時にはおいらの部屋が近所の子供のたまり場になっていたが、社会情勢が変化した後々で思い返してみるに、そら恐ろしい状況であった。
部屋に子供を引き入れることがどれだけ恐ろしいことかは、今の社会情勢や事件を参照すれば自明ごとだ。
ムチムチの小6女子とか一人で遊びに来てくれたりもしていたが、現況アウトやからなぁ。
外で小3女児と遊んでるときに怪我をさせてしまったのに、親御さんに温厚に接してもらったりして助かったが。
つまり、「子供を預かる」というのは「社会的重責を負う」ということだ。
それを、軽々しく責任の軽い(つまり専門的知識も無ければ訓練も受けて無い)人を傭えば良いとか、というのは「知らないことを決める」というか「知らないことを知っていると言うのは妄想だ」ごと。
だけれども、人間は、「知らないことを知っている」ことにしたいし、「知らないことでも決めたい」ことで問題を噴出させて深刻化させるわけだ。
「あれが、ああいうことをするなんて」と決めつけて(「決めつけてしまう」「決めつけたようにしないから攻撃する」ことが「イジメ」の実践)「イジメ」てやろうぜ!。
これが大人にしても子供にしても「イジメ」があることの常態だよ。

「イジメ」というところで「孤独死」には納得できんところがある。
おいら化物顔は何人か出会ったけれども「健常者キチガイ」。
要は「不出来」な人間性だけれども、そういう者が見下して言いなりにしてやろう、つーか不出来だからこそ言いなりにしなければ自分のことができないというか。
「不出来」なというのは、社会性やスキルが劣っているということだが、が、当人は自尊心が強いと言うか、自分の能力や周囲の評価を理解しようともせず、とにかく誇大に自己評価を持ちたい。
で、「不出来」な存在であることで、見下す者を求めて言いなりに使いたいわけだ。
で、これが年老いるともともと自分のことすらできてないことがよりできない上に、周囲も年老いていることで「不出来」を補ってもらえなくなるわけだ。
当たり前のことだが、「不出来」なのに自分は尊大だと誇示して、他を見下して言いなりにする、のが年寄になるわけだから、そんなもん煩わしくてメンドクセーから相手にしたくない、ということで「孤独」になるわけだ。
まぁ、それでも「うまいことやる」とか「運が良い」ことで、「孤独死」にならない者もいるのも事実だが。
だけれども、「不出来なのに自分を尊大に思って他を見下していいなりにする」のは孤独になって当然のところを、「全人格的ケア」とか支援しなければならないってのはなんなんだよ?。
「不出来」なところを「他の人を顎で使う」ようなことをしてきたから、年寄になってますますできなくなった、当然じゃん。
で、その人が顎で使ってきたように、顎で使われてあげましょう、ってか?。
ということなら、つつましやかに生活しているよりも、傍若無人、人を虐げてでも好き勝手に生きた方がいいぞ、ということだぞ→イジメ被害者・虐げられてる人達よ。
「そんなことはない」とか「なんでそういう話になるんだ」というのは「不出来なのに自分を尊大に思って他を見下していいなりにする」のは置いといてとか言わせないことにして、で、おいらは「健常者キチガイ」とかに虐げられて来た事実から「そんなことはない」とか「なんでそういう話になるんだ」と否定されるのはお話にならないごとだが。
「人間は、都合が悪くなると、事実・現実をも無視否定排除しようとする」のだから。
ということで「不出来なのに自分を尊大に思って他を見下していいなりにする」者がでかい面して幅をきかせて「イジメ」とか虐げるとか野放しな社会で良いんだよ。
どのみち、福祉なんて行き届かないのも世の常だから、たいがいの「不出来なのに自分を尊大に思って他を見下していいなりにする」者は「孤独死」していけば良い。
これ、他人事でもないんだよなぁ、「できない」ことに対する世情の非情さときたら・・・。
悲報、「不出来なのに自分を尊大に思って他を見下していいなりにする」者はここそこで声を荒げているのだから、福祉にも声が届くだろうが、つつましく生きている者は声を上げるのもつつましくしてしまうことで福祉の手も届かずということもありえる。
つつましやかに生活して声を上げないばかりに「孤独死」することになった、で良いじゃん。
結局のところ、「不出来なのに自分を尊大に思って他の者を見下していいなりにする」傍若無人に人を虐げて生きていく方が生きやすい社会ということだろう。
「不出来なのに自分を尊大に思って他を見下していいなりにする」のを見習おうぜ!。
どの程度こういう輩が世間にいるかは知らないが、1000人に数人はいるはずだと思う。

「わしが言うようにしたら良いように言うたるで」←あんた何様のつもりだよ?。
こういう輩は、人にそう言ってやらすのがその人のため社会のためとか思っている節があるが。
意訳をすれば「おまえは言いなりになるべきで、嘘八百・作り話で満足しなければならないんだ」ということ。
だけれども、じゃこの人に「わしが言うようにしたら良いように言うたるで」と言うてやってみ。
当然聞きやしないから。
「人間には、認知・認識・理解等々には断層(ズレとか隔たり)がある」ことで、共感も無ければ自分がしていることの行為も意味も、理解不能。
で、こういう輩は、「人を言いなりにできる」ことがアイディンティテイと言うか自己確立、で言いなりにできることで、自分を確認すると言うかより尊大に思い込みたい。
ことで、言いなりにならなければ世のためおまえのためのことをしないのが悪いと、ことさら見下してやるごとで始末が悪い。
ということで、「パワハラ」や「イジメ」ということになるが、「パワハラ」と言う時には、企業とか会社が温床というかそれでやっていることで、「人を言いなりにできる」ことで自分を尊大に思いたい集まりということで、大人側からの子供の問題とか解決策とか言われたくない。
かくいう大学とて、「人を言いなりにできる」ことで自分を尊大に思いたい集まりなので、「パワハラ」と言う時には口を濁すと言うかお茶を濁す程度のことしか言えないわけだ。
となれば、大学が「パワハラ(当然子供の「イジメ」も含む)」について理解どころか効力のある解決策なんて提示できるはずもないのだから現状「パワハラ(当然子供の「イジメ」も含む)」に虐げられている人はご愁傷様、なおかつ働いている限り「パワハラ」に苦しみ続けてやってください。
しかも子供とて大人になればそういう社会の構成員にならなければならないわけで、「言いなりにされる立場」になれば、おめでとうございます、ごと。
で、大学は「パワハラ」をまともに考えることもできないことで、大学は「パワハラ」の権化の「老害教授」という極悪病魔に蝕まれていれば良いごと。
「老害教授」なんて「パワハラ」まんまじゃん。
「老害教授心理学」とか打ち立てて研究すればだが、紺屋の白袴・医者の不養生、大学の老害心理学教授とでもなれば呆れ果てるごと。
見下していたい者共は脳味噌がどんどん劣化していくばかり←物事の事実関係を無視して決めつける、というのは偏屈頑固年寄脳だからね。
ご愁傷様。
脳味噌が物事を事実関係を参照した上で柔軟に理解しようとしないのなら、固まって機能しなくなって当然。
抜けたけれども、「権力闘争」のところでは「わしが言うようにしたら良いように言うたるで」とか言われても、「いつか自分もエラクなる」「その集団の中で上手いことできる」と思えれば中国政治体勢のごとく従えるわけだ。
考えてもどーしようもできんが、人間は自他で「認知・認識・理解等々には断層(ズレとか隔たり)がある」ことで、「自分は言いなりにされたくない」が「他の人は良いななりにできる(できなければならない)」と、人間の脳味噌は両極端な無茶苦茶な処理系だから、人間問題は解決することは無いわな。

ま、人間社会なんてこういうことさ(元ネタは「格好いいとはこういうことさ」だっけ?)。
傍若無人、人を虐げてでも好き勝手に生きた方がいいぞ。
おいら化物顔は「孤独死」できれば良いが、野ざらしが関の山だろうな、人間社会なんてその程度のもん。

「イジメ」ということでもないが関連でもあると言うか。
「それは違う」「不当だ」「被害を受けた」・・・でたいがい「自分の要求することは正当だ」とか「要求できる」とかを(マネーロンダリングをもじって)education launderingしている大学や大学関係は考えてくれているのやら。
まぁ、「女性学」とか振り回していた「女性助教授」の体たらくからして、しているわけはないだろうが。
「それは違う」あるいは「間違いだ」というのは言いたい人はおいらも含めて言いたいことだろうけれども、向けられた側にすれば怒り心頭、つーか、自分は正しい・正当だと思っていたいのに不当・間違いだなどと否定的なこと言われたくない、というのが人の常だろうに。
ふと、オネェ系の「なんで~」は「そういうことを言うな!」、「それは違う~」は「自分には思い込みがあるから人の意見は聞かない」の強い意思表示だと理解した。
つまりオネェ系とかが、「なんで~」「それは違う~」言い出したら相手するだけ労力・時間の無駄、ということ。
「自分の考えとは違うから、それは間違いだ」は妄言だが。
こちらの考えを間違いにできるあんたの考えはなんの評定をもって正しいにしてんだよ?。
「不当だ」も同様ごとだが、「あんたの求めることに反するから不当だとぬかしてんだろ!」ごと。
言い返したらそれこそ怒り心頭ごと必死、ろくなもんじゃない。
「見下すようなものだから言いなりになれ(言うたようにしろ)」は人間関係の常だが、これを「悪いことだ」としても日常茶飯事ごとで付ける薬はなし・・・これで「イジメ」日常万歳!だね。
ねぇ、大学の「イジメ」研究。
まず、「自分にとって良くしてくれるから聞いてあげましょう」が常識で、「違う」「不当だ」「「見下すような者だから言いなりになれ」とか否定的なことを向けられたら言うことなんて聞きたくないじゃん。
でもって、こういう輩はより多くの欲求を得たいとか優位性だとか支配欲というか牛耳るとかに執着したいわけだ。
合わせて認知の歪みがあるとしか言い様が無い。
こういうのが典型の「イジメ加害者脳」。
繰り返しだが「イジメ加害者脳はイジメ被害者にもある」、力関係とか状況でこういう傍若無人なことをすれば、矛先が向けられて当然だからね。
愚痴ってもしゃーないがこういう「劣下人」を避けるためにも化物顔は引き篭もってるようりしゃーない。
老化が問題なのではない。
「イジメ加害者脳はイジメ被害者にもある」、問題言動の子供と年寄を標準語で併記したらそんなに変わらないはず。
そういったところで「イジメ」の深刻化もあるけれど、教育の当事者であるところの大学や大学関係は、(マネーロンダリングをもじって)education launderingして考えてくれない(研究や対応策)ことで子供の「イジメ」は解決することなく深刻化していけば良いだろ!。
もちろんそういう「劣下人」のガキンチョがそのまま大人になるわけだから、大人社会でも「イジメ」は深刻なわけだ。
クサレだってその容姿に向けられる嫌悪なんて大学や大学関係は、(マネーロンダリングをもじって)education launderingして考えもしないだろうし。
で、こういう否定的なことをぬかしていると拒絶反応的クレームごとだろうが。
「自分は言ってない」とか「愛」だとか「優しさ」だとかにすがるだとか。
「イジメ」とか「障害者」でもそうだが、「側にいない」「関わらない」時にはぬかせるんだよ。
「愛は地球を救う」とか。
そういう時には肯定的にしている方が自己肯定感ちゅぅもん。
が、「身近にする」「関わる」となったときには、労力・時間的損失を被ることで、ばかりか否定的な意味付けも付加してまで豹変・牙を剥くっちゅうのが人間っつうもん。
それは誰しも分かっているだろうに。
が大学や大学関係はこういうところの啓蒙活動はしないわけだ。
「側にいない」「関わらない」時にはこういう問題は肯定的に言ってる方が自己肯定感とか保身・自身の対外的優位性にできるといったところだけど、「身近にする」「関わる」となれば、攻撃・不当感・否定的・・・等々を正当化・・・ならまだましだが、フツーにできることにしてしまう(人もいる・・・というところだが)。
もちろん悪質に、攻撃・不当感・否定的にすることを正義・正当に振りかぶる輩もいるわけだが・・・「顔が悪い(化物顔)から、頭が悪くて考えも無い」どころか、変質者か頭がおかしいと決めつけられておうじょうこいたぜ。
そういう輩はそれこそ頭がおかしいのだから、大学や大学関係で詳らかにしてもらいたいものだが、education launderingして考えてくれるわけも無い。
で、だけれども、「側にいない」「関わらない」時と「身近にする」「関わる」時のギャップくらい大学や大学関係は詳らかにしとけ!、つーの。
そういうことだから、「イジメ」の「教員教育」がまるで役立たずで学校現場で先生が自殺するくらい苦しめば良いごと。
しかも、いくら「側にいない」「関わらない」時に綺麗事ぬかしていたって、攻撃・不当感・否定的・・・等々を正当化・・・ならまだましだが、フツーにしていることなので、その「フツーを普通ではないことをしていると理解させる
」のはまず無理なこと。

「炎上」なんて正にそういうことでっしゃろ?。
「子供のSNS炎上」を「子供のネットイジメ」と言い換えて安心してろよ→大人。
で、ふと思ったのに、「炎上」というと、ディープスペクターがTLやTVでかましているのに怒り心頭したが、「油」な奴がいるのが問題。
「火に油を注ぐ」・・・「身近にする」「関わる」となれば、攻撃・不当感・否定的なことになるわけだが、その「火」を大きくしてやろうという奴がいると話題が大きくなるとか期間が長くなるわけだ。
そこへ「風」の一群、「炎上」人が集まって「大きな炎」にしてしまうわけだ。
したがって、「イジメ」「障害者」とか社会問題が起きたときには、「当事者」の問題であるが、「油」になる奴がいるなら即刻排除しなければ「風が吹き荒れる」ことになって「炎上」もやむなし、ということだ。
「池中玄太80キロ」とかすでに「油男子」はあったことだが・・・あのまま「油男子」がいる「クラス荒廃池中玄太80キロ自殺ドラマ」にしてやるとか。
まぁ、幸い、こういうことではおいらは「油」の輩には巡り合わせがなかったが、「油」に巡り合わせることになった「炎上」(もちろん子供の間でのSNS炎上も含む)被害の皆様方はご愁傷様。
ということなどなどのことで、「炎上」(もちろん子供のSNS炎上も含む)被害の皆様方はご愁傷様、を大学や大学関係の人間理解が当て糞が無い、を蹴り飛ばすくらいに大学や大学関係が詳らかにしてくれるかだな。
「障害者」とかを「身近にする」「関わる」となったときには豹変・牙を剥いている時でさえ「愛は地球を救う」的なことをぬかしていられるんだよ人間は、ということと、「イジメ」てないとか否定・虐待していないとか「自分が子供の頃にはイジメはなかった」とかそれこそ「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」しているわけだ。
「側にいない」「関わらない」時には「愛は地球を救う」とぬかせるんだよの一方で「身近にする」「関わる」となったときには、豹変・牙を剥くかつ否定・虐待している、というのは一貫性が無い心性と言うか、その時々で違わせている(いたい)わけだけど。
こういう人間の心性と言うか性分を、大学や大学関係の人間理解は詳らかにしてくれるのかよ?。
もちろん、「いずれかからの立場が逆転した時」にはそれこそ「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」ことは極大ごとになるわけだが。
「認知・認識・理解等々には断層(ずれと隔たり)がある」ことが見て取れる人間性を持っての、アイデンティティだとか自分らしさはなんなんだよ、え?「自分らしさ」「アイデンティティ」を標榜だか宣伝している大学や大学関係さんよ。
人間、そこにあるのは利害というか利益を得る(失うことから守る、失ったことで攻撃する)、立場を守る(できる奴は攻撃したいよね~、できないというか負担させられような奴は排斥すべし!)ことをしたいわけで。
そうした状況は様々に多様性なことで、しかも状況は刻一刻と変わっていくのだから、その対応で人間性とか心性も変化させていかなければならない。
が、悪い表出と言う時には、部外者には悪とか虐待とか排斥とかが目に付くというわけで、それを攻撃することでの「我こそは正義だ馬鹿」は溢れるけれども。
だから、「身近にする」「関わる」ことになって悪とか虐待とか排斥とかが目に付く状況になれば、アイデンティテイとか自分らしさとかいったものは喪失している常態になっている、ことを詳らかにして周知しなければならないということだ。
もちろん、虐待と排斥が目に付く状況にしている者達がその状況であっても、アイデンティテイとか自分らしさとかがある、ということを思っていたいと執着していたいのだから、虐待と排斥が目に付く状況を変えていくというのは困難なわけだ。
おいら化物顔も「いなくなれ」圧力が常だが、別段おいらだけではなく、人間種は誰彼かまわず「いなくなれ」圧力を向けているもの。
これで平和だとか優しさだとか愛だと上辺並べたってアホらしい。

「大人社会」と「子供のイジメ」を並列にして考えたくない大人が子供の「イジメ」考えられなくて今までに至るが当然ごと。
公共放送の受信料の無駄遣いイジメ番組で、放射脳イジメ同窓会やってみろちゅーねん。
なんで身の安全に「福島難民イジメ」から逃れるために「ひきこもり」を選択したのに、身の危険にさらすために「福島難民いじめてやろう」者共の社会に出て行かなきゃならないんだよ?。
こう言うことは福島難民に限った分けではないが。
「子供のイジメ」にフォーカスしとけば、大人は安心して自己正当のネタにできる。
その程度ごと。
大人側が正義正当の自己中で「子供のイジメ」をネタにしたいだけだから、おいらが「イジメ」にあって半世紀とかもちろんそれ以前からのことで、大人が子供の「イジメ」に無力なままでかわりばえしてないじゃないか!。
まぁ、おいら生後9ヶ月で化物顔になって以来、「人間の化物心」には思い知らされてきたけどな。
化物顔は一目瞭然に世情から排斥対象に決めつけられるが、「人間の化物心」は直接には見えないことで「化物顔」に嫌悪の憤怒を向けて餌食にする人間の集まりが善良な社会であると掲げとけ!。
そんな社会だから「ひきこもり」を選択する!。

一方で、「イジメ被害者は悪くない」たって、周囲の人間が入れ代わり立ち代わりしても「イジメ」を受けるってのは「イジメ被害者」側の人間性の関わりがあるのは自明、だけど大人も大学もeducation launderingして考えない。
子供の時には「イジメ被害者がイジメられるような悪いところがあるからいじめてやる」と正当化していたのに、大人になれば「イジメ被害者は悪くない」と掌を返すゲラゲラ大笑いごと。
大人は文句有るかい?。

オマケ。

実話としては35年前とか、当時小6女児が「なんとかちゃんはおどくさーけー石ぶつけちゃるんじゃ」とか。
そういうのは今の大人が子供の頃そこかしこであったことだろうに。
それを「悪い」と言っても今の子供は(つまり今の大人が子供の時に、でもある)納得せーへんて。

以下はツイッターでの返信。

女性地位運動家かなんだかに返信。
「職場」=企業や会社、つまり職場は「選別の場」ということが欠落しているんだよね。
今はどうかしらんが、QCだっけかあるとすれば、不出来な労働者は仲間内で爪弾き。
そういうことせんと会社自体が潰れる。
閑話休題・・・QCで弾かれた労働者は「ひきこもり」になれ!・・・・おい。

エスカレーターでの関東関西での右より左寄りは障害者とかは状況によってはそうはできない、というのに返信。
「主導権(選択・進路・歩調)」・・・すなわち愚か者の執着心が問題。
どこに行っても「歩調を乱される」・・・つまり自分のペースとは違うことをされるのはキレルごと。

文学関係者のやり取りに割り込んで返信。
情報をおくる側、マスコミとか評論家とか煽動とかは「受けとる側の考え方の先取りと代弁」が常套手段。
が、「人間は自分が決める存在」であることで、自分の中で求める理解と「情報」は必ずしも一致しない
人間の個々の脳味噌内での処理系は千差万別だから、同じ情報を同じように理解するというわけではなく、極端に違った理解も横行するだけのこと。

ロボット開発の人だったっけか?に返信。
R・田中卓志・・・これでタカアシガニ物真似させるとか・・・、ツイッターTLから自撮り削除指定されるほどの化物顔が考えるのに、結局「人間が見て好感が持てる」ことがロボット開発の基準になるはず。

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自分も回りも皆コミュ障

4才くらいの女の子が拳振り上げて「たたくぞ~」かわいいかわいい。
世間を知らないことに乾杯!。

前置きはともかく。
「自分の考えとは違うから、それは間違いだ」つまり「自分は正しい」と思い込むのは神ごと妄想ごと。
「他人が自分の考えでなければならない」はコミュ障。

「心理学」は子供の頃から好きで劣等生高卒ノータリンだけど今までずっと読んでる。
が、「自分の考えとは違うからそれは間違いだ」「他の人が自分の考えでなければならない」なんておいらの読んでる心理学本で見たことも無い。
それこそ「心理学」にオイ!、と突っ込みたい。
上記二つのことは、本来は「心理学」が説明するもん。
「経済」では「価値観の共有」がコミュニケーション・・・インスタグラムとかアニメとかだが。
そういうのは、そこに物を置いて、自分の感想提示しているだけで、コミュニケーションの体を成してない。
北朝鮮はどーでも良いが、嫁姑戦争と言う時に、前記それぞれお互いに言い合っていたらどーしようもできんじゃん。
そこを「折り合いの付かないことを折り合いを付けるようにする」というのがコミュニケーションというところ。
言うべきことは言うとしても、自分が折れることがなければコミュニケーションできない。
実際自閉症とか、若くても年寄り予備軍なコミュニケーションを取れない者もいる・・・つーか、自分がコミュニケーション取りづらいとされる方にされたらどーすんだよ?。
相手が「こちらの言うことを聞いてくれている」時にコミュニケーションできている、と思うのは良いが、相手が「自分の言うことを聞いてくれていない」つまり、自分にとって「相手が自分の言うことを聞いてくれていない」ことを「コミュニケーションを取る」と言う時にどう評価するんだい?。
つまり、「相手が自分の言うことに折れてくれている」ということと、「自分の言うことに相手が折れてくれている」と言う関係性だ。
が、これでも実践としては問題がある。
最初に上げた二つのことに限って言うなら、って程度のこと。
つまり「心理学」が「折れない心理」を解説していて当然だと思うんだけどね。
ねぇ、どこかにいるであろう心理学の「老害教授(こういう人が一番「折れない」ことで適切そう)」さん。

ついで、「わしがお前に合わしてやっているんだ」と言う馬鹿がいたけれども、こっちがあんたの話題に合わせてやっているのは分かってんのかよ?。
相手のことが分からないコミュ障丸出しじゃん。
もちろん、「私がこんなに尽くして(理解して)あげているのに」も一方通行。
で、当然だけど、これらのことから、相手&自分がコミュ障なら暖簾に腕押しごと。
まずもって、そこでの暮らし・生活・働く等々がお互い・周囲などなどでスムーズに経過していかなくちゃ。
ただし、これでも問題を内包・外の不協和音、とか有ったりする。
コミュニケーションは難しい・・・。

ついでごとだが。
ナチス支持非難が合ったのに突っ込んだ。

人間は「自分が決める」生き物だからね。
「自分が決める」ことをした人を礼賛・憧れる人はたいがいいる。
北朝鮮のロシアのアメリカの日本の中国の・・・トップに立ちたい人は「自分が決める」わけだ。
そうして、「自分が決める」強度と、北朝鮮のロシアのアメリカの日本の中国の・・・トップに立ちたい人は「自分が決める」の強度は同じようなもんだからね。
もちろんヒットラー信奉にしても、それを非難否定する人と「自分が決める」とした人も、人間は総じて「自分が決める」ことに執着する厄介な生き物でしかない。

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人気学生アニメで年少者自殺者を増やそう

繰り返しごとだが、「感動は悪だ」というのがおいらの結論。
公共放送の45年前とかの少年ドラマシリーズで、宇宙人だったか人間を無感動にして問題に無関心にする侵略とかやっていたけれども。
「感動は現実から目を背ける害悪がある」・・・「現実を忘れるために感動を求めている」とかだろうけど。
この問題頻出のご時世に、「マスメディア真理教」の「視聴者の考え方の先取りと代弁」右の耳から左の耳に抜けるごとで、問題解決することも無しで良いじゃん。
そういや、夏休み明けの自殺、とツイッターで賑わせてる学生アニメのコラボしやしょうよ。
とか言っても社会の関心事ではないことだし。
ジブリ映画が自分の子供の時の恋愛振り返って惨めになるとか。
あるいは、孤立しているのだから、誰かとなにかして盛り上がることもできずに自殺したりするわけだし。
「学校」というの枠組みの「異常」なことは、社会と違って同年齢を括り付けてわずかの大人で管理していること。
で、ツイッター賑わせてる映画とて、その「同年齢の括り付け」だろうし。
そういうところで、「仲間になって盛り上がる」ことでは人気の「学生アニメ」に反映されているんだろうけど、そうでないところでは現実自殺していくのだから、それはそれで人気の「学生アニメ」は現実を反映しているとも言えるが。

一つには、「年齢の多様性」とか、だが生徒にしてみればって、結局「気の合うことが仲間」ということで、子供の自殺が防げるはずもないか。
「経済」は「価値観の共有」が利益必須で、こういう人気取りのアニメとかもてはやすけれども、結局「価値観」の多様性を認めない風潮ということで、話題に乗れなくて夏休み明けに年少者自殺で良いじゃん。
だいたいもって、おいら化け物顔は社会的に化物顔は不審者と決めつけて110番!とか広島県広島市牛田新町小学校に通報されて警察に不審者対応されたし、大人でさえ気に入らない者は側にいて欲しくないというのは思い知らされているが。
当然、子供にしたって、仲良くしたくもないクラスメイトのいるクラスになんで毎日行かなければならないんだよ?、というのが憤激なところ。
で、大人が子供に言うところでは「子供は子供同士仲良くしましょう」・・・子供にとって大人がいかに鬼畜な信用ならない人間か。
そういうところで考えるに、自殺するような子供の「生前性格」はどうなんだろう?。
周囲にしてみれば、メンドクセー性格だったりしなかったのだろうか?。
ツイッターで話題の学生アニメのような登場人物とは真逆のような大きく隔たった人物像ではなかったのか?。

そういう人物像で、なぜ回りの子供は救いの手を差し伸べなかったのか?、と大人は問えるのか?。
「子供は子供同士仲良くしましょう」・・・子供にとって、鬼畜な信用ならないことを大人は抜かしてようぜ!。

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コミュニケーションを求めるのは創作の中だけのこと

気がついたのに創作系がロリコンを増長している、だけでなく、子供を育てる親にも悪影響をあたえている。
が、「人間は、悪い・不当なことと自分は違う、という結論を持って考えようとする」し、平和ボケ思想的なことで言っても政治家のごとく聞く耳は無いのだから、創作系の人が問題意識は持つことは無いだろうが。

おいらは実践ロリコンしてきたが。
まぁ、繰り返しだがキスとかSEXとかしてないから娑婆暮らしだが。
そういうところで、一般的なロリコン者の要求というところで否定的。
また、「子供を育てたことの無い者に、子供を育てる苦労は分かりゃーせん」というところだが、子育てしている親には子供の無理解さが不満なところ。
昨今の大人対子供問題でも、創作系が片棒を担いでいることも愚痴るが、まぁ性描写が子供の教育に問題と言うのなら、今の若者が永井豪片手に今の大人を糾弾すれば良いことだが。

で、全方位アニメ脚本家に提案した。

ふと、三つ目がとおるのポゴでロリSMストーリー書いたら脚本書く?。
流血とか・・・。
いや、こういうのでロリ系でもユーザーはいるのだろうけれども、メイドとか結局のところ、知的水準は「大人女性(で言いなりになってくれる)」というのフツーのロリ系嗜好というところのはずだが。

もちろん反応は無かったが。
こういうところだと、同ピノコの様な人間性というのもロリ系の人間では扱うことがでけんことで、興味対象外か?。
キャプテンハーロックのマユの様な人間性だと硬すぎるか?。
結局のところ、「限られた」というか「創作者が紡ぎ出してくれた好みの少女」をロリコン者は求めている、というところだろう。

で、当然のことだが、「創作」の中の子供と現実の子供は違う。
ではロリコン者にしても子供の親をするとしても、「現実の子供を知り・理解する」のはどこでするんだい?。
現実、たいがいは仲睦まじく過ごしている関係に目がいきがちだが。
子供を叱り付ける・手を焼いている、と言うのは人事だろう。
「人間は、悪い・不当なことと自分は違う、という結論を持って考えようとする」
たいがいの人は、自分が、子供を叱り付ける・手を焼いている、ような否定的なことは思いたくないものだ。
というところで、自分が子供を叱り付ける・手を焼いていることになると、呆然としてしまうことになるわけだ。

創作の中の子供、代表的なところで「くれよんしんちゃん」とか。
だがあれは、文体をそれっぽくしているだけで、そのそれぞれの登場人物と併せてストーリーでの会話を、フつーの言葉にして並べてみれば、フツーの会話文になるはずだ。
いや、そうでなければストーリーにならない。
だけれども、「現実の子供」は必ずしもそうではない。
自閉症とかADHDとか障害・病的でなくてもだ。
問題は、「子供はコミュニケーションをとるのに適切な能力を獲得していない」ということだ。
なのに、子供にコミュニケーションが取れると期待をする。

下駄を鳴らして~奴が来る~~女房子供に手を焼きながら~生きている~・・・というのはたいがいの女房子持ちの男の愚痴というところだろう。
これは、伴に暮らす上で、お互いの好き嫌いと生き方の食い違いから避けてはと通れないことだ。
で、ロリコン系の考え方からすると、カワイイ少女が自分と生活を伴にしたい、ということだろうけれども。
そもそも、カワイイ少女が身近にしてカワイイのか?。
で、創作系・・・アニメでも実写でもだが、現実の子供ということでは、「突き放し言葉」とか「大人に媚びる言葉遣い」とか「他の話を聞きもせず一方的に話す」とか「丁寧な言葉遣い」「困っている」とか。
で現実の子供はそういうところで大人を困らせてしまうところだが、そういうところをそのまま「物語」にすれば「ストーリー」を構成する会話にはならないはず、を「ストーリー」にするために変えているわけだ。
そういうところで、だいたい大人になれば子供の頃のことは忘れていると言うか変質させていることで、創作されたものばかりに浸っていることで、ロリコンの妄想に執着しているとか拡大させているというのは、創作側にも問題があるとか。

通常、子育ては大変ということで、その家庭の事情や生活習慣、親の子供の扱い方の手慣れなど、「子供が育つ」環境が必ずしも整っていない、いや、子供を育てる環境が整っている家庭の方が珍しいはずだ。
となれば、親は子供を育てるのに手を焼いている、のがフツ-ということで、それがカワイイ少女ということで、ロリコンが自分の生活に引き込んでカワイイ少女なのか?、しかもたいがいロリコンは生活ということでは他者と生活を伴にする生活形態ではない印象だが?。

先のかまやつひろしの歌ではないが、生活を伴にする、というのは、自分以外の「自らの世界を持つもの」と生活を伴にすることだ。
この意味では、性のマイノリティでも否定的においらは思っているが。
つまり、「自らの世界を持つ者」は違った「世界」を認められないし、それが違えば違うほど相入れないということだ。
そのことは、ロリコン者の「自らの世界を持つ者」と「自らの世界を持つ者」であるカワイイ少女はまるで相入れないということだが。
残念ながら、となれば、ロリコン者は「自らの世界を持つ者」であることでその齟齬が理解できないことになる。
だから、「現実の少女」を知るということが必要だが、「自らの世界」に執着していることで、また「子供は大人に媚びる」ことで、つまり、身近な子供ということでは子供同士の関係での自分らしさではない違う人間性を子供は装うということで、ロリコン者は相手にできる子供の生活の実態は知るということは容易ではない。。

で、「創作」では、「突き放し言葉」「大人に媚びる」「他者の話を聞かず自分のことばかり言う」「丁寧な言葉遣い」「困っている」その他有るだろうが、こうした「子供の実態」をそのままに描写していたのではストーリーにならないので、「大人の会話を子供らしく」してストーリーをなりたたせている(「大人に媚びる」というのは、ストーリーの薬味てきには反映させるものだろうが・・・)。
したがって、「創作」ばかりで「子供の実態を体験」しているのであれば、「現実の子供」とロリコン者が伴に生活するとしても破綻して当然のことでしかない。
だいたい、子供の(突き放し言葉の)声を聞くだけで苛つく親はいくらでもいように。
実際、日常のシーンでは、子供が「困っている」ことで、親のシーンが堂々巡りの停止状態にはいくらでもでくわすものだが、「創作」でシーンが堂々巡りの停止状態は許されない。
すなわち子供の有り様は日常と「創作」では180°違うともいえるわけだ。

そういう「創作」でもこういう「親の共感」を得るものもある。
「明日の食卓」 椰月美智子
作者が冬休みだったか春休みだったか子供の愚痴を言われてたから、「・・・を殺し損ねたのは私です」と返信したら返信があったなぁ。

おいらは子供の扱い(「相性」は重要だが、最近年取ったのと社会の変容で「相性が悪い」が)は手慣れているけれども、親が「育てる」のと「遊び相手」ではまるで違うことだから、おいらがカワイイ少女と「生活を伴にする」など論外、をしなかったことで娑婆暮らしができている。
ふと、実際問題、おいらが遊んだカワイイ少女はどこの親も育てるのには手を焼いていたぜ。
それで、ロリコン者がカワイイ少女と伴に生活するなんて笑っちゃう。
少し、問題になる心理状態、大学や大学関係の人間理解は当て糞が無いが、そういうエライセンセイは「自分がすれば上手くいく」という心理・・・気の持ちようについて、どれぐらい理解されておられるのだろうか?。
カワイイ少女を相手にしたことも無いロリコンが、「自分が少女と伴に生活すれば上手くいく」とか言っていればキモイというところだが、それ以外、世の中多様なところでのその個人個人の思うところで「自分がすれば上手くいく」と思うのはフツーのことだろうに。
なんでも鑑定団とか、あるいは、スポーツとか娯楽ごとの入門だとか策略だとか、とかく人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい。
ただ、カワイイ少女、と言う時には、カワイイ少女が「人間」であることとその親がいることで、それを勝手に所有というのは非難轟々だが基本「自分がすれば上手くいく」と思いたい。
「自分がすれば上手くいく」と思いたい、時には、たいがいその反論異論というのは耳に入らない。
つまり、ロリコンと言うことが問題なのではなく、人間が「自分がすれば上手くいく」と思いたい、ことが問題だということなのだ。
当然のことだが、ロリコンと言っても、実際に行動に移ることも無く、ほのかに憧れてそういう欲求があったことも消え去る人がほとんどだが。
つまり、一般論として、人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい、ということなのだから、犯罪に走った結果としてのロリコン者の矯正・糾弾はするとしても、まずは、その一般の軽度な「自分がすれば上手くいく」と思いたい、ことを修正する方法を確立することが必要だということだ。
その上で、より強く「自分がすれば上手くいく」と思いたい、人の修正方法を模索していくような段階的方法を踏む必要があるということだ。
だけれども、人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい、のがフツーのことなので、どのような状態になれば修正が必要だとかの線引きは難しいところだし、そもそもフツーにあることを修正する必要があるのか?、ということになる。
というところで、「犯罪」となったときに、糾弾して矯正ドーノコーノとかお祭り騒ぎ話題程度ごとだが、そもそもに、犯罪に走る前に矯正・修正する方法をもちえないことが問題だろうに。
人の命は帰ってこない、のなら殺人に至らないようにしていかなければならないだろうに。
だけれども、人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい、のだが、それが個人・身内であれば、あるいは損失の回復を図れるものなれば、問題が差ほど大きくない・・・ただ色事芸能関係は馬鹿がお祭り騒ぎしたいところだが。
が、ロリコンの犯罪性となると、その回復といことが途絶ごとなのでより深刻ということになるから騒ぐところだが。
そうなったときには他の、人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい、こととは隔絶の差だが、
そうなる前であれば、他の、人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい、と同様のことでしかない。
もちろん異論はあるとしても、それは一部のことでしかない。
なにせ、日本人の彼女を求めたいとする男性の大部分ロリコンとか。
それぞれ物事の形容や理解があるとしても、人間は「自分がすれば上手くいく」と思いたい、ことを一般論として理解した上で、その軽微なところからの修正・矯正の方法を手探りしていかなければ、ロリコン犯罪という深刻な問題に対処できる方法論も導き出すことはできない。

さらば~ロリコン~向かう~先は~・・・おい。
元ネタは宇宙戦艦ヤマトの主題歌だが。
人間、欲求あるいは目的を持ったときには、いかなる困難があろうとも克服して成そうとするものだ、という前置きだ。
それが善・悪ということで、一般論が意味を違えさそうとして、理解を偏重させていく。
そんなんでロリコンとか理解できるわけねーじゃん。
欲求・目的と言う時に、美化というか崇高というか、とにかく肯定的な意味を持たせるというときには賞賛賛美で、それが悪の美学でも賞賛はあろうが、否定的に受け止めるとしたときには「なんであんなことするんだ」とか理解したくないのが人間。

エベレスト登るぜ~とかいう人にロリコン問題とか振ってもしゃーないが、欲求・目的を持ったときに、いかなる障害・傷害があろうとも(人によるが)諦めないのが人間というものだ。
凍傷・酸欠・滑落、つまり酷い目に遭おうと「そこに山があるから」。
これも肯定的意味合いなら人間は理解するが。
ロリコンがいかなる障害・傷害を克服してロリコンしても賞賛されない・・・当たり前だが。
だが、いかなる障害・傷害を克服して、ということでは同じ文脈なんだよ。
だけれども、否定的なことでは、いかなる障害・傷害を克服してとは一般論では理解したくない。
で、そうしたなら「厳罰で対処」や「特定して監視」とかはロリコン側には意味が無い。
被害者とその周辺では報復の代わりとしては多少の意味があろうが。
うんでもって、「第3者」にしてみれば、「厳罰」は享楽ごとであって、その話題をすることは正義とかの自己肯定勘違いや精神安定剤的な空虚なものでしかない。
要はVR。
最初の方で愚痴ったが、ボーダーラインというか、犯罪とは言えない軽微なところでロリコンの修正ができるかがロリコン犯罪抑制の要であって、犯罪になったことを空論したところでな~んにも解決もなければロリコン犯罪の抑制にもならない。
でもって、大人社会から距離をとっている(この前の子供見守りの殺人犯はどうだったんだろう?)ことで、その素性というのは犯罪にならなければ分からない。
分からないんだから防止のしようないじゃん。

結局のところ、ロリコンと一般社会がそれぞれに認知の歪みを抱えていることで、ロリコン犯罪は撲滅できないことになる。
つまり、このままロリコン犯罪のリスクを抱えたままの社会でいくしかないということだ。

「他の人が劣っている」確信とそのことに基づいた対人関係、つまり「自分のいいなりにならなければならない」と言う確信も研究してもらいたいものだ。
おいら化物顔は、こういう「健常者キチガイ」にヒデェー目に遭わされて甚だ迷惑。
TLでも咲きまくってるなぁ。
って、「ロリコン」と言う時には「劣っている確信」とそのことに基づいた対人関係、つまり「自分のいいなりにならなければならない」だろうに。
ということは、ロリコンでないところ一般社会で日常茶飯事、つまりロリコンは解決できないという証左。

すでに言っているが、子供はたいがい「突き放し言葉」。回りの大人が言葉遣いを強要することでそういう言葉遣いをしないとしても、「自他」というところでの関係性ということが分化とか成長していないことで、他を必要としていることの理解に偏りがある。

で、当然だけれども、「子供は警戒する」もの、当然だけど、その対象とはコミュニケーションを取りたくない。
警戒心から・・・これは大人でもすることだが、「丁寧な言葉遣い」つまり言葉を選ぶわけだ。
で、勝手の良い者は「丁寧な言葉」をコミュニケーションが取れていると思いたいわけだ。

で、子供の性として、「大人に媚びる」のは日常茶飯事こと。
子供にすれば、大人が総じて主導権・決定権を持っているのだから、自分の思うに任せることができなければ、大人を動かすようにしむけるしかない。
当然こういう「疾しい」(というと語弊だが)気持ちではコミュニケーションにはならない。

で、子供に相対する上での最大の障壁は「困っている」状態。
問題が起きて、その問題のことに子供が動かなくなるのはよく有ることと。
親とか周囲にすれば、子供がそのことで動かないというのは、答えがあるのにそうしない、ということの苛立ち。
この「子供が困っている」のに、「児童心理学」はどれくらいの理解と回答を用意してくれるのやら。
もっとも、そこに相対する「大人の心理学」の方でも大人の理解と回答が必要だが。
だが、「困っている子供」の方は、「コミュニケーション」ということでは閉ざしてしまっているわけだ。
だから「言い聞かせる」という「大人同士の手法」・・・たって大人同士でも無効なことは有ろうに。
というところのなどなどで、子供虐待とか殺人事件になるのではと、おいらは思っている。
特に「困っている」子供に長期あるいは繰り返し対峙していれば「切れる」とか暴力的になるなという方が無理解でしかない。
いや、おいらもそういう子供だったから、親も子育てには難渋していたが。

というところで、「現実の子供からかけ離れた子供」を視聴者に見せている創作系は、ロリコンや児童虐待からその殺人に片棒を担いでいるとおいらは思っている。

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小説目次の一次メモ。

自作晦渋小説 イン・ブルーhttp://ossann.cocolog-nifty.com/innburuu/
海との決別を宣言するために書いています。

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テレパシーとか脳と脳を繋ぐ、のは寝言事

繰り返し事だが、BMIとか脳と脳を繋ぐと言う時に「大量の情報」は「検索(AI技術添加)」ですでに時代遅れ。
「高速の思考」とかも株のAIだかプログラムだかの電子取引のコンマウン秒ほどのインパクトもあるまい。

さて、そうした現実の実態を参照できるとしても、創作のプロの方々がそれはすばらしい、BMIとか脳と脳を繋ぐ作品を提示してくださることでしょう。
ということで、テレパシーとか脳と脳を繋ぐことの不合理さを愚痴垂れよう。

BMIつーか、おいらの妄想(構想)ではBSCとしてさんざん愚痴足れているけれども、テレパシーの専門家(ペテン師の専門家?)やBMIや脳と脳を繋ぐ専門家には疑懐の眼差しを向けずにはいられない。
だけれども、テレパシーとか脳と脳を繋ぐ、とした場合に、「声を聞く」ということはどのような現象になるのだろうか?、ということは考えてみることにしよう。
「話し声を聞く」と言う時には、対人関係的には表情・・・は置いといて、喉・口・鼻の発声器官によって合成された発声を聞くということになる。
それがテレパシーとか脳と脳を繋ぐと言う時にはその発声と同一のものを聞くということのはずだが、おかしいではないか?。
物理的な(?)現象によって物理的に伝達されるものと、「信号(というのも不可思議だが)」として伝わるものが同一の現象として「脳が同じ理解をする」のか?。
つまり、そのことを、特定のことを「聞いた」として「脳」が処理して同一の結果になるとはどういうことなのだ?。
当然のことだが、「誰かの声」を聞くというのは、直接電気的伝達・物真似(おい)とか聞いても同定できる。
「直接の音」でなくても聞けば認識できることもあれば直接その音を覚えてもいる。
だが、テレパシーとか脳と脳を繋ぐ、ことで「それを聞く」というのはどのように理解すれば「できる」ことになるのだ?。
でもって、「人の声を聞く」というのは、日常事なので誰も気づかないが、かなり厄介なことなのだが。
当然のことだが、「聞く」のではなくなんらかの方法で「伝達」ー「受信」するわけだけど。
糸電話(オイ)から携帯電話(コサイン使って計算とかおいらの脳味噌がポーン)まで、そうしたモノは、なんらかの方法で喉・口・鼻の発声器官によって合成された発声をのせていることで「聞く」ことができる。
それが、テレパシーとか脳と脳を繋ぐ、と言う場合には喉・口・鼻の発声器官によって合成された発声を乗せないのは自明、それを「聞く」とはどういうことなのだ?。

その上で、テレパシーとか脳と脳を繋ぐ、と言う時に、「誰」ということが特定できる、とはどのような条件付けによってなされることなのだ?。
「話し声を聞く」というのは日常であるし、どの様な「脳」処理かはともかく、その「話し声」を聞けば「誰か」あるいは「知っている誰でもない」ことは判然とする。
でもって、「脳の中で記憶している声を再生する」こともできるわけだが、これは「今聞いている声」とどこまで合致しているものだろうか?。
「聞き違い」「覚え違い」さらには捏造的なものや改竄していることもある。
「声の質」を言っているのにしては突飛な例示だが、要は「その人を特定できているのか?」ということだ。
その人が言っていないことを言っているとして「その人を特定している」・・・うーん・・・。
「脳の中で記憶している声を再生する」ということでは、アグネスチャンが英語・日本語・中国語で夢を見るから疲れる、というのがあるが。
さて、話変わってここで問題なのは、テレパシーとか脳と脳を繋ぐことでの「伝達」と言う時に、喉・口・鼻の発声器官によって合成された発声を聞く、ことをなんらかの方法を使って「脳の中」で再生させるようにする、ということになるはず。
ではその方法は?。
ボイスロイドを脳内常駐・・おい・・・非現実的。
つーか「携帯」で話すよりお手軽・便利になるのかよ?。
アグネスチャンの場合は記憶による、と想定しておいた方が波風立たないが。
別の事例として、双極性障害・精神分裂病(敢えて旧差別表現)の「誰かが(特定の誰かが)言っている(頭の中で言う・聞こえる)」はどの様に参照されるのだろう?。
「人間は、悪い・不当なことと自分は違う、という結論をもって考えようとする」生き物だが、自分が求めたいことには肯定的なことばかり求めて、否定的・損なうものは無視・認識しないのが常だが。
現状で、「現実に」「脳の中で」人の話し声を聞いていることは、テレパシーとか脳と脳を繋ぐ、ことにどの様に参照されるんだい?。
と言っても詮ないこと。
たいがい、少なくともテレパシーに関しては、その専門家とかが「脳の中」で人の話し声を聞いていないのだからお話にならないが。
テレパシーに関しては、その専門家とかが「脳の中で」人の話し声を聞いていないのだからお話にならないが←聞いていたら臨床心理?とかに診てもらってください。
さて、「病んでる(敢えて差別的表現)」人からすれば、日常を苛まれる、あるいは周辺の人が被害を被るのが「頭の中で話し声が聞こえる・言っているのが聞こえる」ことだが、これを健常者が日常的にするというのはどの様な状況だ?。
実際問題、すでに携帯に向かって話し続ける人はいる。
が、こと「聞く」というのはたいがい辟易するもの・・・つーことは「話し続けているが聞いていない」ということ?。
「話す」ということは、「話せない」人には苦渋なことだけれども、「話したい」人は、思いつくままの下痢垂れているのが好きなわけで。
が、聞くというのは、意味の理解や参照や正否の処理がいるわけで、「聞き捨てる」ならば労もいらないが、「聞く行為」をしようとすれば「聞き続ける」ことで疲労困憊・辟易してしまう、ことになる。

さらには、「病んでいる」人にすれば、「脳内聞こえる・誰かが話している、ことで命令される」ことが深刻な問題の引き金にもなりうる。
それを、テレパシーとか脳と脳を繋ぐ、ことで可能なようにするのか?。
うんでもって、テレパシーとか脳と脳を繋ぐ、時には、「何を送るか」の選択はどーすんだい?。
たいがいの創作は「電話」程度の設定のコピペでテレパシーとか脳と脳を繋ぐことを殴り書きにしているが、人間の「思う」はそんな単純なことやない。
「言いたいことも言えず」「聞きたいことも聞けず」「思わず言ってしまった」等々「言う」も「聞く」も一筋縄ではいかない。
それを、テレパシーとか脳と脳を繋ぐ、と安易・安直・短絡に言うのは、いかに「脳」あるいは「人間」の理解の無さを宣伝しているかだ。
そういえば、「脳の中で誰かが言っている」ことが、テレパシーとか脳と脳を繋ぐ、ことで誰かに伝わる、ことは「想定外」なのだろうか?。

「11人いる」萩尾望都 でガニガスがケガをするところ、タダ(としか覚えてなかったが「タダトスか)にテレパシーというところだが。
そういうことを、テレパシーとか脳と脳を繋ぐ、と言う時にどの程度想定しているのやら?。
自作晦渋小説・・・では当面書く予定にできんが、2エピソード妄想ってる。
一つの方だけ愚痴ると、施設孤児ワンルーム家に兵隊崩れが乱入して家の出口を閉ざして、手りゅう弾を弄んで脅す。
がテレパシー使いがいて「ピンを抜け」で投げ出すところがなくてチュドーン!。
蛇足だが「人間は、自らを傷つけ、死に至らしめるために、力や武器を持つ」・・・まぁ否定した輩は否定してチュドーン!してやってください・・・「人間は、都合が悪くなると、事実・現実おも無視・否定・排除しようとする」
もう一つは、間接作用だがメンドクセーからいいや。
「差し迫っている状況」の認識の強化といったところ。
そこに引き金を引く「誤解」でチュドーン!。
キュウーバ危機とか差し迫っている状況に引き金を引く「誤解」で核戦争に突き進んでチュドーン!すれば良かったのに。

で、ちょっとずれごと。
最近思い至ったのに、障害者とか老人問題とか、そういう負というか否定的なことは社会(の人々)にとってVR(仮想現実)でしかないということ。
日常の生活・あるいは生活の向上・さらにはエンターテイメント等の享楽などなどを追い求めることがリアリティだということ。
そのことは、「現実理解を誤認している」ことなんだけど、これは一般論で否定さるわな。
が、自分が障害者とか老人問題とか、そういう負の「リアル」になった時に、社会が障害者とか老人問題とか、そういう負のことをVR(仮想現実)でしかないということを思い知れば良いこと。
これはつまり、「現実理解を誤認している」と言う以前に、それぞれの人によって何がリアリティで何がVR(仮想現実)か相入れない「現実」があるということだ。
その状況に立脚して、テレパシーとか脳と脳を繋ぐ、関係性ではどのような状況を「想定」するのだ?。

まぁ、こんなところだ。
だいたいさ~あ。
「現実」の対人関係とかコミュニケーションがままならんのに、な~にが、テレパシーとか脳と脳を繋ぐ、だか。
「現実」の対人関係とかコミュニケーションからすれば寝言事。

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宇宙人が地球を侵略してきた!

宇宙人の地球侵略を少し考えてみたので愚痴る。
が、宇宙人ということでは科学者とか評論家とか創作とかのエライセンセイは当て糞が無いので自分で考えた。
結論は、宇宙人は地球に来ない
創作系だと、「人」がその解決ができるとかあるいはその代行があるとかとか、いずれにしても「人」が関わることが必須。
まぁ、解決してくれるのには「なんらかの人格」という場合も有ろうが。
自然現象・・・というのも有った・・・そんな御都合主義でええんか~?。

アメリカ軍・・・ロシアでもユーロでもどこの軍でも同じことだが、当然ということがクエッションなことだが、対抗できる武器を想定して、というのがお笑いごと。
これも当然のことだが、宇宙関係の専門家のエライセンセイというのが、「宇宙人」ということに科学的理解があるとも思えん。
宇宙人は地球に来ない、で理由は愚痴っている。
「軍」ということでは、もし宇宙人が攻めてくるとすれば、「宇宙人」とは遭遇しないと考えるのが妥当だが。
それを「宇宙人」が来て戦争すると想定するのは「軍」関係者が戦争の素人ということになる。
今時、それ戦争開始、と言うときに、敵陣とか戦地に兵員即刻送り込むわけもあるまい。
まずミサイル、なるべく高々度とか夜戦の戦闘機の奇襲。
それで人的損失の評価の後で兵員侵攻。
まぁクリミアの類のように、速攻占領下にしないところなら話は別だが。
いずれにしても、「宇宙人」つーか不測の事態、つまり何がおこりえるか分からない上に、人間が好戦的でコミュニケーションということがまるでなってなくて諍うばかりの信用ならないもっとも下劣な知的生物なのだから。

先の「現代の戦争は、まず人的被害の軽減が最優先」ということからしても、「宇宙人」が地球を侵略するとしても、「宇宙人」が直接に攻めてきはしないと断言できるあ。
だって、それだけの頭数そろえること事態がムカシイズイはず。
だいたいもって、戦争ができるだけの頭数揃えて数光年を越えて来るような相手に対して、人間が対抗できる戦略兵器なぞ、科学的技術からして造りだせるはずもない。
宇宙人は地球に来ない、のは愚痴っているけれども、それでも「宇宙人」が地球侵略をすることを妄想ってみた。
まず前提は「地球文明(技術)」とは接触しない、のが良策と言うかセオリーというのが前提となる。
宇宙~戦艦~ヤーマート~とか「中間子爆弾」なんてよーわからんが、イデオン 準光速ミサイル・・・コストがなぁ・・・。
破壊とか殺戮とかと言うのは知的水準が低い証左なので、やっぱり「宇宙人」の侵略は「想定外」だと思うが。
それでは話が進まんので、妄想った「宇宙人」の侵略を愚痴垂れる。
だいたいもって、スパイつーか、適地の情報収集はしていくもの。
だいたいやな~、地球のことは宇宙に向けて地球放送局大々的に放送中・・・情報ダダ漏れやちゅうねん。
ということからすれば、おいらが常々言っているが、モンジュとか六ケ所村とかあるいは世界の使用済み核燃料貯蔵施設爆破・・・隕石でいいな・・・だからこういうのは知的水準が低い。
まぁ、いずれにしても、人間は破滅的なことを自ら抱えながら綱渡りしていると言うのが地球の状況なんだけど、その当事者の人間にはその意識が無いという無責任で恐ろしいもっとも下劣な知的生物と言ったところ。
まぁ、いずれにしても、「宇宙人」が破壊的・殺戮の行為をしなくても、人間側の方でそういう事態を起こしうるのだから、「宇宙人」側も破壊的・殺戮があることを「想定」して地球を侵略する、と「想定」すべきか。

さて、もっとも下劣な知的生物である人間が姑息にも科学技術なんぞ持っていることで、接触をすれば糞面倒臭いことは「宇宙人」には分かりすぎるほど分かるくらいの戦争・殺し合い・騙し合いの宇宙拡散放送している。
その事実からすれば、「宇宙人」が人間に直接会いに来ると「想定」するのはクエスチョンでしかない。
当の人間は、人間がしていることの事実関係を誤認していたくて、平和だとか自らは知的生物として高位だとか思い込んでいたいところだが。
ということなどなどで、「宇宙人」が地球を侵略するのは「想定」できないが、それでも人間に接触、つまりセンシングされずに侵略する方法を妄想ってみた。

さて、直接に物資あるいはエネルギーそのそれぞれを大量に投入するというのは無駄なこと。
となれば戦争映画でダムを壊して下流の橋を壊すような「現象」を最小限の方法で最大限に発揮するような。

そういうことから参照すれば、地球の現状ということになる。
件の地球温暖化・・・まぁおいらは物質の地球温暖化には懐疑的で、熱エントロピーかなんかしらんが、人間の廃熱によって地球が滅ぶと思っているが。
まぁ、ここは温室効果ということで妄想しておくか。
となれば、地球に向けての太陽エネルギーを増やせば、より加速的に地球を滅びに向かわせることができるということだ。

ということで、そういうシステムを太陽表面・・・まぁ水星公転軌道よりも内側の地球に対して太陽の向こう側に設置すればいいじゃん。
具体的に考えれば、太陽に近い場所ということで、数mから数十mの装置数個でできるんでない?。
現状地球温暖化とか疑わしいことで騒いでいるが、太陽エネルーギーを数%・・・0.数%の加減とかでかなり変動すると思っているが。
アニメだと巨大装置だけど。
太陽に近づければ近づけるほど、装置は小型化・・・。
ま、700年先行した文明を持つ「宇宙人」にはするとすれば可能だろうな。
あとは経年ほっとけば良い。
なにせウン光年越える技術があるのだから、たえず地球に対して太陽の向こう側に位置するようにすれば人間には「大型宇宙船」であってもわからん。
まぁ、ステルスというよりも、人間の知っている技術では形外有人宇宙旅行船は造れないはずで、ならば「電波の反射」つまりこちらのレーダーに対する反応も不確定ということになる。
で、地球侵略システムとしても、人間技術でも、昔は大電流を扱うのは大事で、大きな筐体を必要としたけれども、USB3の大電流とかメッチャ小型化。
ウンtの核爆弾も数十kgだし。
そういうことで、おいらとしては想定700年先行した文明をもつ「宇宙人」ということで、地球侵略システムもメッチャ小型化していれば、地球からの距離とあいまって人間には発見されにくい。
たとえ人間が「太陽がおかしい」と気づいたとしても、現状水星にたどりつくのは「アカツキ」よりムズイ。
しかも水星公転軌道の内側、太陽により近いところなど、地球技術の粋を集めた宇宙船を造っても、そうそう近づけるものではないはず。
ということで、人間には解決策も無く地球滅亡。
チャンチャン。
まぁこんなところ。
「宇宙人」は地球に来ない、から地球侵略も無い。
が、どーせ地球侵略考えるなら、人間が手出しできないことを考えないと現実味が無い。

さて、「宇宙人の侵略」で愚痴ったけれども、「人間が関わることのできる宇宙人の侵略」は全てデマとか創作の類。
考えてもみなっせ~、700年前の先祖様が、今の現代兵器や技術を理解できると思うかね?。
「宇宙人」は地球に来ない、で愚痴っているけれども、我々人類が知的生物のいる形外惑星にたどり着けるのに必要な年月は700年と想定。
だからもし「宇宙人」が地球に来るとすれば文明が700年先行していると想定できる。
まぁ、ほんの2,3百年で行けると言う輩は現状の宇宙開発の知見があるとは思えない。
ま、「良い(できる)思うてなら、やってみてなら良いでしょうがの」ごと。

だいたいもって、地球の地上には沢山の地雷が埋められていて、沢山の人が苦しんでいるって宇宙に向けて放送しているんだよ。
これで「宇宙人」が友好的に来訪してくると考えられる人間のオツムがおめでたいよ。

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「宮崎駿3DCG激怒」と「この世界の片隅に」と「イジメ」について

手足使わないで蠢くって、ナウシカで使えね?。
聖都シュワの城(?)のヒドラの博士だっけ?。
「脳味噌を食べると痛みが和らぐんだよ」・・・ゾンビ映画で頭と背骨だけになったようなゾンビが背骨動かしながら言っていたなぁ。
「生命」で一番の「冒涜」は死んでも「繰り返し生き返る」ことだとおいらは思うのだが。
「人魚の森」はかるんじる方向性ではないし。
ドラゴンボールとか、何度殺そうが死のうが生き返ればいいじゃん。
面白ければ。

「この世界の片隅に」たって。
読めたもんじゃないが、自作晦渋小説「焦土に漂いて」で30年くらい前に戦争の悲惨さについて書いたところがある。
「帰ってこないの?、命って・・・」
「戦争が神様を必要としたのなら、命が奪われることに、なにもできないよね」
今現実に起きている戦争、シリアとか目を逸らす・眼中に入れたくない・理解しない、ために見に行くのならどーぞ映画館に行ってやってください。
「享楽」というか、「エンターティメント」の弊害は「現実に向き合うこと(時間・情報・理解)」を奪うことが致命傷なんだが誰も言わない。
多くの人が見てくれて金を出してくれて金儲けできればそれで地球もお仕舞いで良いじゃん。
映像表現の面白さたって、全裸の川谷拓三さんを山城新伍さんともう一人だったか足蹴りにしまくれば見てて面白いじゃん。
子供の時にだって、イジメっ子が徒党をくんで弱い者をからかってイジメているのを見れば面白かったじゃん。
まぁ、今時の御時世が「暴力」を面白がることは無くなった。
たとえば、「無視」というのが今時の陰湿な「イジメ」ということだが、あるいは過去には陰湿・暴力や残酷な「イジメ表現」もされていたが、今時の「エンターテイメント」はアッカル~イとか楽しいとかハッピーエンドとかを視聴者が視聴したいという好みに先鋭貸してしまったことでほとんど見ることも無い。
「イジメ報道」ということもあるが、このことは下述する。
「戦闘」ものは今も好まれることで創られているが、過去のように「陰惨」な表現というモノは好まれない。
このようなことで、戦後と今時では表現も違うし、子供の方とて今時面白いものは学校・・・子供同士の外にあるので、面白くもない子供相手にしているより、「大人が与えてくれる」面白いもの話題にしていたい。
話題にはいれなければ「無視」という「イジメ」。
ツイッター・・・SNS全般、「面白い」ことを求めて、あるいは「面白くない」ことは排除して加入しているんだろ。
そういうところで、「現実」に向き合う機会というものを「エンターテイメント」は奪っている。
そのことは、子供においても「面白いこと」を選択していたものだということ。
子供同士だって、「面白い」奴はそばにいて欲しいが、「面白くない」者は相手にしたくない。
「子供同士仲良くしましょう」・・・大人同士でやってみせろや!、子供の手本に!。
「面白い」ことを求めたいのに、「面白くない」のは「面白くない」奴が悪いんだろーが?。
仲間であるのに「面白い」ことになれや。
「面白くない」のは「面白くない」奴が悪いんだろーが!。

「宮崎駿3DCG激怒」の言うところも分かるが、場面・状況によって物事の意味というのは人間都合良く変えていくもの。
「イジメられる者は悪くない」たって、「イジメ」る側にすれば理由があるから攻撃(無視)する。
まぁ、おいら化物顔の天敵「健常者キチガイ」は認知の歪みがあることでとか「イジメ」加害者側に一方的な問題もある場合があるが。
こと集団になると、多数決言ってもしゃーないが、その集団のかなりの人間がその人に否定的になる理由があるから、ということになる。

まぁ、偏見的に言えば、大人社会はたいがい「イジメ加害者」サイドということだ。
それが、「イジメ報道」という時には、正義正当あるいは「イジメ被害者」に同情ってんだから大笑い。
結局、話題性の「イジメ」は大人にとって自己の肯定とか正当性とかに利用している「エンターテイメント」事なのだから、繰り返し「イジメ」がおきればいいじゃん。
「エンターテイメント」で生命の「倫理」とか「冒涜」とか言ったところで、造って金儲けできなければそれで終わりじゃん、ごと。
観る者がどのようなモノを求めているか?、そのことを無視して生命の「倫理」とか「冒涜」とか優先で言っても意味無い。
当然、子供の「イジメ」たって、その「話題」を受けとる大人は好きなように「エンターテイメント」にするだけだし、子供は子供同士で好き勝手にして好きな者を求めて好きでもない者は相手にしなければ・それができなければ「 イジメ」てやれば良い。
「嫌いな者といろ!」大人同士がね。

「この世界の片隅に」・・・アニメか。
観て現実は核戦争突入で良いじゃん。
この地球は繰り返し戦争に塗れているのに、現実は知ったこっちゃない虚構に埋没していたいが「平和」、で良いじゃん。
トランプで戦争世界に拡大で良いじゃん。
そん時誰かが悪い!でなく、現実を考えもしなかった者が悪いんだよ。

で、こういう「エンターティメント」が「イジメ」に関係あることは、それこそ「エンターティメント関係者」は言われたくないこと。
昔で言えば、ヒーローつうかごっこ遊びの主役の取り合い。
さらにはヒーローなりきりで弱い者とか嫌われ者を悪に決めつけて攻撃・・・充分すぎるほど「イジメ」じゃん。
今時で言えば、古い話だが8時だよ全員集合の会場には入れなかった者のコンセント引き抜き停電。
求めている者が得られないことで破壊的・暴力的な行動に走る・・・これも矛先によっては「イジメ」になる。
でVRというかARというか、埋没していたい虚構に対して現実が受け入れないことでの凶行とか。
「イジメ」の引きこもりたって、現実の大人社会はそれこそ「イジメ」の加害輩がわんさかいるし、「友達」というものが理想と言えば言いすぎだろうが、求めたい友達間でないのが現実の友達関係。
いずれにしても、「エンターティメント」は虚構であり、現実に対して虚構を求めるのは相いれない。

日本評論社 こころの科学 P101~現場を変えるいじめの科学(10)教師が傍観者から脱するためにーいじめ対策の前提 和久田学 子供の発達科学研究所 大阪大学大学院連合小児発達学研究科
の連載読んでいるが、おいら化物顔は「イジメ被害」も受けたし「イジメ加害」もしたことから思うに、書いてある内容に納得できない。
教師側についてはすでに他で愚痴っているが。
結局のところ、「自分が子供頃にはイジメは無かった」とか、大人が自分達がしてきた「イジメ加害」を参照しないことが最大の問題という一言に尽きる。
「イジメの専門家」という時に、「子供の味方」として壇上に上がるのではなく、「大人の代弁者」として壇上に上がっているような気がしてならない。
「自分が子供頃にはイジメは無かった」
つまり、大人が子供の時にしてきた「イジメ」をつつみくらまそうというのなら、おいらの知っている限りでも半世紀の間「イジメ」問題が解決することもなかったのは当然のことになる。
だいたいもって、子供の時に「イジメ加害」をしていたものが先生になって生徒の「イジメ問題」に苦慮しているのであれば笑い話にもならん。
そのへんの指摘をまずもってするべきだろ?→和久田学
でもって、「ごっこ世代」はすでに孫がいる歳だが、現状ファミコン世代とか、ゲームに関わる「イジメを実戦」してきた大人の子供の「イジメ問題」だろうに。
そうしたことは、「前例」として「参照できる親の知見」だろうに。
もちろん、「アニメ」とか「ドラマ」や「スター」とか話題に入れないとか異端的思想とかの「イジメ問題」も今の大人はすでに体験済みだ。
そういうところで「イジメの知見の参照」ということをしないから、「子供のイジメ理解」暗中模索で理解が進まない。
だけれども「自分が子供頃にはイジメは無かった」と大きい顔で言うのが大人であり大人社会の常識・良識というもの。
で、ここに書いて有る「モデル」のところで「モデルが無い」と読み間違えの早とちりでカチンときて上記書き足したのだが、読み返すと「モデルが有る」だった。
で、「次回」ということになっているが、結局のところ「カチンときた」に変わりない。
繰り返し事だが、「子供を育てている親が子供時にしていたイジメ」が格好の「モデル」になるだろうに。
そのことは包みくらまして「子供のイジメ」を論述するとか、今回と次回の記事で「現状の先生のあり方」を咎めるだけで「イジメのモデル」にしようってんなら、今までの「進展しないイジメ問題の理解」の轍を踏むだけじゃねーか!。
うんでもって「イジメ被害者は悪くない」というのは「自分が子供の頃にはイジメは無かった」と言うときには意味があるように取りたいところだが。
今「イジメ被害」を受けている者に救いになるのかい?。
さらに、子供の時に「イジメ」ていた者に対して「イジメ被害者」は悪くないといえるのかよ?。
「それならなんでイジメていたんだよ!」と言い返されるのが落ちで、その上に納得できる答えも用意できるはずもなかろうに。
それらのことから、「イジメ被害者は悪くない」というのは「自分が子供の頃にはイジメは無かった」と言う者の手慰みでしかないんだよ。
さらに、上述したように、「イジメ被害者」と「イジメ加害者」は「力関係」の問題で状況によりどちらにでも逆転する。
そのことからも「イジメ被害者は悪くない」と一方的に決めつけるのは間違いでしかない!。
繰り返し事だが、「大人は自分が子供の頃にしていたイジメをモデル(事例)として詳らかに提示しろ!」これに尽きるし、大人は「自分が子供の頃にはイジメは無かった」と断じてしておきたいことで、大人が子供の「イジメ」を理解することは無い!。

今の時代、「まともなことを言う」ことの方が間違っている・・・・案外「まともなことを言ってなかったトランプ」は正しいことを言っていたのかもしれない。
「正しいことを言っている」ヒットラーを信じて戦争突入・・・またそういう人が出てきて戦争しないかなぁ~・・・おい。
まぁ、現状「正しい」ことにたてつくことを言ったて、誰も理解はしないっと。

某大物お笑い芸人の嫌な人の対処方・・・役に立たねーなぁ。
逆に言うと、おいらを子供の時にイジメていた奴が「イジメ防止とか言っているのは聞きたくもないし、いまさら年取って老いぼれて常識論でも言っているようならそれこそ、その厚顔無知ひっぺ剥がしてやる!。
「自分が不快な相手だと思われている」・・・ココロノビョーキならともかく、自信過剰な者が多いからなぁ・・・。
出会われて相手がどう思っているかなんざ知ったこっちゃないさ。
つまり「対処方」以前に無意味。
そういや「あかめだか」だな。
嫌な相手に望んで身を寄せるとか。
愚痴ってもしゃーないが、おいら化物顔は「健常者キチガイ」とかその他相性が悪い人にはそれこそ相性がコテンパンに悪い。
一方で、相性が良ければ、若い女性と馴れ親しく話していると「恋人同士」に見えるらしい。
けっきょく「相性」しだいなんだよなぁ。
大概の人はスチーブンジョブス(はっきり覚えてない)とはまるで相性悪いはずなんだよ。
ウオズニアックだっけかよーしらんが、たまたま相性が良かったというだけのこと。
そのへんわっかるかな?、わっかんね~だろうなぁ。

化物顔がお買い物~。
自転車の駐輪違反常連スーパー、小学5年前後の女子がその違法駐輪自転車のとこで髪を結わえてた。
一目、こいつ、「不出来な人間」だなぁ。
案の定、おいら化物顔を見つけると、スーパーの壁側へ逃げて不審者を見る目をする。
「イジメ」たって、おいらの経験的には誰かを「不審者」「敵」と決めつけて攻撃・排除したがる輩がいる。
まぁ。おいらの化物顔がまったくダメな人間も数人いたが。
「イジメ」論議たって、こういう「不出来な人間」というのは、誰かを「不審者」「敵」と決めつけて攻撃・排除したいということが「正義」「正当」にすることが当然できて当たり前なことで、自分が「イジメ」あるいは不当・間違ったことをしているなどとは思いもしない。
当然、「不出来な人間」が大人になっても、子供の時に「イジメ」をしていたと思いもしないし、大人になっても誰かを「不審者」「敵」と決めつけて攻撃・排除したいということが「正義」「正当」にしてすることが当然できて当たり前なこととしてするわけだ。
それで、子供、に限らず大人社会も含めて、「イジメ」をなくしましょう・・・誰かを「不審者」「敵」と決めつけて攻撃・排除しようとする実行者がいる上に、誰かを「不審者」「敵」と決めつけて攻撃・排除したいということが「正義」「正当」にすることが当然できて当たり前なことを問われることがないのだから「イジメ」がなくなるわけないじゃん。
「イジメ加害者の言い分の無いイジメ論は評価しない」がおいら化物顔の持論だが、「イジメの方法論を実行している者」の社会的認知もなければその指摘も特定もしないのだから、「イジメ」の理解も無ければ解決もできるわけないじゃん。
「イジメ」というのは力関係の問題なので、逆に、こういう「不出来な人間」が返り討ちにあって反撃を食らうと、「回りにイジメられた~」と騒ぐことになる。
「不出来な人間」であることで、それこそ迷惑大騒ぎな目も当てられぬ状況になる。
こういうのは遺伝といっちゃぁー偏見だが、似たもの親子ということで学校に怒鳴り込むとかモンスターペアレンツだったりすることもありえよう。
福島避難生徒イジメ・・・ああやっぱり「不出来な人間」が「イジメ」たか、ごと。
もちろん、こういうのは「イジメ」の一要素でしかない。
で、役にも立たない繰り返し糞理屈を言うのは「イジメ被害者は悪くない」、で半世紀の繰り返し。
永遠に「イジメ被害者は悪くない」を繰り返してろ!。
蛇足だけれども、どこぞの国で富裕者が貧乏人は見たくないと富裕者だけの街を造って回りに対して壁を築いたとか。
まぁ、「不出来な人間」の成せること。
「経済は切り捨てる」
まぁ、富裕層たって破産も有れば認知症も有るわけだから、そうなると「富裕層の立場から切り捨てられる」ことになるだろうが。
「社会」は貧・富、健常者・障害者そうした様々な人を綯い交ぜにして成しているものであって、「選択」あるいは「選別」することを前提にしない。
なぜなら、誰でも障害者や貧乏人に成りうる運命を背負っているのだから。
このことは、現状、特に民間宇宙開発の構成人間が「金持ち」ということで、「宇宙への永住」と言うことの目標ということであれば、「イジメ」と「障害者」の問題で「宇宙への永住は暗礁に乗り上げる」ことは確定しているということだ。
このことは、「金持ち」ばかりの問題ではなく、上述の「不出来な人間」はどこにでもいて、誰かを「不審者」「敵」と決めつけて攻撃・排除しようとする実行者がいる上に、誰かを「不審者」「敵」と決めつけて攻撃・排除したいということが「正義」「正当」にすることが当然できて当たり前なこととして、そのことをスペースコロニーでするのは確実なことだと断言できる。
JAXAとか「閉塞環境での集団生活」だっけか実験しているが、そういう「地上の現実の集団の問題」は当面想定した「閉塞環境での集団生活」はすることはないことで、「宇宙への永住」の知見は当面得られることはない。
上に、そのような想定は、「自分が子供の頃にはイジメは無かった」というのは大人社会の常識・良識であることで、「閉塞環境での集団生活」によって「宇宙への永住」の「イジメ」とかの否定的な事実関係の知見を得ることが無いことによって、「宇宙への永住」が実現できるとしても、実現した頃に深刻な問題が噴出することになるのは自明。

で、「宮崎駿3DCG激怒」だが、人によっては、上記の「不出来な小5女子」のように、おいら化物顔、だけでなく「嫌なこと」「癇に障ること」は拒絶・排除したいものだということだ。
「宮崎駿3DCG激怒」と言うときに、そのことは一般社会だけでなく子供同志でもありふれていることだし、今大人だって子供の時にしてきたことだろうに。
そういうところで、大人になれば「子供同士仲よくしましょう」。
「大人が大人同士仲よくして見せろ!」
子供は「嫌なこと」「癇に障ること」は仲よく話しあってそういうことを気にしないようにしましょう。
大人が大人同士でしてみせろや!、なぁ宮崎駿!。
できるか!。
そういうことで、「子供のイジメ」を無くしましょう。
どこのイジメを専門とするエライセンセイが言っているんだよ?、社会の大人たちがいっているんだよ?。

「イジメ被害者は悪くない」
これでふと思うに、じゃぁ「子供の頃にイジメを受けた」者が「イジメ加害者」に対して、「じゃぁなんでイジメたんだよ?」と問い詰められたら言い返せるのかい?。
結局、「自分が子供の頃にはイジメは無かった」と言うのが大人社会の常識・良識であるところの手慰みなんだよ。
イジメ被害者サイド以外で、「自分が子供の時に"イジメが有った"」とした時には、「イジメ被害者は悪くない」と言った時に、「じゃぁなんでイジメたんだよ?」と問われれれば躊躇するしかないだろう。
現実に、おいらも化物顔というばかりでなく人間性も悪かったことで、「おまえが悪い」と言い返されることにもなろうが。
が、「イジメ被害者」はそのような返答は受容しまい。
したがって、「同情」の一点張りでは「イジメ論議」も「イジメの解決」に美ならん。

ツイッターTLに、先生がイジメを隠蔽するとか有ったが、「自分が子供の頃にはイジメは無かった」は大人社会の常識・良識つうのはイジメを隠蔽するということだろうに。
でもって、隠蔽したときには厳罰化とかほざいているが、こういう攻撃的な輩はイジメをしていたのではないか?。
あるいは、そういう言動からイジメの標的にされていたのではないのか?。
こういう輩の小学校の時のクラスメイトを面接してみてみたいものだ。

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日の丸宇宙開発宇宙肥溜を造って有人宇宙機に下を撒こう

中国宇宙開発が莫大な資金をかけて最先端の宇宙開発技術で宇宙開拓していくとかで、日の丸宇宙開発系がツイッターでギャァーギャァー騒いでたけれども。
順を追って考えると、騒ぐほどのことでもない。

すでに、旧ソ連の宇宙開発の没落という現実がある。
アメリカであっても、「探査」の次に「有人」ができるかというとそうでなく、有人火星探査が危うい=当然月長期居住も危ういことになる。
月での居住と言った場合には、何ヶ月周期で往復ロケットを打ち上げれ現実的なのか?。
ということからすれば、中国の宇宙開発がこれから先行していくとは思えない。
一方、ロケットの大型化は「相乗り」も多くできることで、市場競争力も強化できるということになる。
大型化と言うのは、大きな衛星が打ち上げられる、だけでなく、相乗りから費用対効果が大きくなるということだが。
が、衛星の過密化やスペースデブリ対策から、これからうなぎ登りに衛星打ち上げが増えていくとも思えない。

しかも中国の宇宙開発は、「マンパワー」ということが、どれだけ考慮されているのかは未知数。
彗星着陸なんて30年仕事。
つまり「引き継ぎ」が必須。
笑い話にもならんが工場でダンボールを発注したら、縦と横を間違えて裁断したのが届いて、箱に組み上げるのに往生こいた。
ダンボール会社が規模縮小で社員切り捨てで担当者を交替させたことで起きたミスだ。
当然、商機として他国に売り込む・他国の衛星を打ち上げるわけだが、これを経年どこまで責任を負えば良いのやら。
地球周回の人工衛星の打ち上げは3年周期とからしいが、それもその衛星と打ち上げに関わるスペースデブリの処分できればの話。
一方、「コウノトリ」のNASAとの共同シュミレーションでは、日本は酷い目に遭ったとか。
いや、そういうことをやりとげたから、今の「コウノトリ」が有るわけだが。
さらに、ではこの延長線上で、日の丸宇宙開発が宇宙ステーションを持って有人宇宙船でドッキングのシュミレーションすれば良いじゃないか?。
言うのは簡単だが、これはウンビャクマンエンとか、あるいはセンマンエン単位の金が飛ぶことになるかもしれない。
シュミレーションするだけで。
で、こういうことの予算右から左へ?。
実際にどこまで役に立つことか証左が取れると?。
で、「宇宙大国」のためには、それだけの人員を揃えることが前提になる。
中国は現段階ではできている。
が、地上では大企業病とか、聞いた話、エフピコとかトレーでは1000品種越えると会社がおかしくなるとか、はたまた企業買収はしたものの結局反りが合わなくて売りに出すとか。
「宇宙産業」というのは結局分野がそれぞれにあるわけで、「宇宙開発」と言ってしまうと、その全てを包括しているように思うのだが。
そういうところで思いに耽るのに、結局「マンパワー」の問題を克服しないとダメなんだなぁ。
だいた組織というものは、大きくなるとおかしくなる。ゼネラルエレクトリックとか、巨大企業は有るけれども、IBMも分野で敗退・・・つまり組織の切り捨てしているし、今後マイクロソフトが個人ユーザーを確保し続けられるとも思えない。
日本企業なんて散々たるもの。
「莫大な予算をかけた」からといって、必ずしも運営母体が安泰にはならない。
「商機」とか「シェア」もあるが、「マンパワー」つまりそれだけ組織を維持し続けるのが難しいのが人間というもの。
このことからすれば、日本が「宇宙大国」になれるというのは否定的にしか思えない。
現実問題、日本大企業の趨勢をはそのまま日本の宇宙産業にもあてはまることだ。
そのことは、組織運営の問題が露呈して止まない中国での宇宙開発組織が経年健全であり続けるとも思えない。
「予算」がなければ「日の丸宇宙開発」は進展しないというのは厳然たる事実だが、「マンパワー」についての理解が無ければ、厳しい宇宙開発は頓挫するのは火を見るより明らか。
近視眼的には、パワハラとかイジメとか残業とか、そうした組織・集団を病む良薬が無いのに、「宇宙開発集団」をまとめていく未来像が有るのだろうか?。
「莫大な予算がありさえすれば、日本は宇宙大国になれる」というのは幻想だよ。

で、「有人」というか宇宙ステーションだが、これはすでに「日本」がその高額の負担に「?」、ということになっているのではないのか?。
それはつまり、中国が今後どれだけ宇宙ステーションに注力するか?、あるいは他国のと協同運営がどれだけとりつけられるのか?、ということになる。

だいたい、宇宙飛行士の1日食の費用が100万円オーバーのはず。
一食あたりの質量は300gよりも多いはずだから、1日では軽く1kgはオーバーしているはずで、今の打ち上げ費用は1kgあたり100万円らしいのだから。

もう一つの問題は、食べたからには出す、つまり「排泄物」をどうするのか?。
現状、お空から宇宙飛行士のウンコ・シッコが降ってくる・・・オイ・・・のはずだが。
「宇宙機」は「質量保存の法則」でなければならない。
これは、「燃料」というこが今の問題だが、将来的に長期宇宙旅行となると、「パッケージの保存食」では缶詰を含む鋪装容器が往復の質量となって莫大な燃料の無駄ということなる。
缶も含めて包装容器が宇宙環境で消滅するようにすればだが、宇宙空間に漂えば秒速20km前後とかのスペースデブリ撒き散らかし続けることになる。
当然、排泄物は有人宇宙機に溜まるわけで、その保管場所・・・宇宙に捨てるならそれで良いが。
が、遠距離となれば「補給」が可能ではなくなるのだから自給サイクルが必須な分けで、「宇宙肥だめ」を用意して宇宙機内に下を振ることで植物を育てて食物サイクルを構築しなければならないということだ。
が、この「宇宙肥だめ」をするようにして宇宙機内に下を振る、というのは言うのは簡単なことだが、実現するとなると並大抵のことではない。
現状、ISSで日本人宇宙飛行士が、船内のあちこちの壁面とかから綿棒でサンプル採っていたが。
自然(「当然」だけど・・・)だけど、「肥だめ」というのはかなり複雑・多様な生態系になるはず。
病気からすればウイルスからだが、細菌・真菌・昆虫がわんさか蠢くことになる。
そうやって、「下」になっていくわけだ。
あんまし詳しくはないが、「屎尿」を直接撒くと強すぎて土壌・植物はダメージか・・・ミミズにオシッコをかけると腫れるよ。
ということは、そうしたものが宇宙船内にどのように飛散・拡散していくか、そのコントロールはどうするのか?。
飛散・拡散した場合の影響はどうなのか?。
そういう様々な基礎研究をしておかなければならないということだ。
最初は単種・・・って、地上での「肥だめ」の生態系を詳細にデーターにしてあるのやら?。
それを最初は単種類で、その次に複合にして、さらにどのような組み合わせが最適なのかを研究して、さらに宇宙船内での飛散・拡散の状態とコントロールを研究して・・・と~っても長い期間の研究をして、「長期宇宙滞在の目処が立つ」というもの。
もちろん、今の「補給」方式でも「宇宙滞在」はできるが、「宇宙に永住」あるいは補給無しのウンヶ月を越える宇宙滞在には、「宇宙肥だめ」は必ず必要になってくるし、補給にはいずれ限界を感じるようになる。
でもって、こういう実験を、宇宙ステーションの順番待ちでするというのは現実的ではない。

で、だいたい「肥だめ」というもの・・・つーか、今も土壌そのものが研究中というか、地球環境そのものが全世界の研究者で研究中という現状。
さらに悪いことに、人間が地球環境の構築の部位をしだいに削除していっている。
環境破壊・種の滅亡・開発による地域的な自然の剥離・・・。
テラホーミングとかスペースコロニーといったところで、それらが実現される頃には、地球環境そのものが理解できる状況に無い可能性だってある。
つまり、人間は地球環境に対して敬意も持たなければ地球環境の中で生きている一員であるという理解も無い。
にもかかわらず、地球のことには関心もたいして向けることなく宇宙へ向かおうというのはどういう気だ?。
「経済」からすれば、地球なんて金儲けの踏み台でしかないし、そのような気構えでさらに宇宙を踏み台にしようというところか。
「経済」というのは、まだ夢心地にしがみついていたいところだろうが、「経済」では物事は長続きしないのは歴史で繰り返されている。
「ブロイラー」は経済効果抜群らしいが、将来的には絶滅危惧種らしいし。
宇宙でプランクトンとかオキアミの類が養殖できるようになればだが、養殖物は地球環境でも継続してするには骨が折れるとか。
しょせん、いかに自然環境が人間の模倣を許さない優れたものか、だ。
一方で、O157とか、巨大イノシシとか、雑交種の猛毒のハブとか日本猿と台湾ザルの混血の凶暴ザルとか、自然の中で、あるいは人間行為の産物として、遺伝の変移のした種が現れても来る。
そのようなものは、テラホーミングやスペスコロニーなどの長期計画性の必要なものの細目の中ではでは「想定外」でしかない。
「宇宙を目指す」という割には、近視眼的視野狭窄すぎるというのが「宇宙開発」なのだろう。

一番現実的ではないのは、「宇宙肥だめ」つまり「生態系の循環」がもっとも必要になるのは、バンアレン帯の外に出てから、ということだ。
現状、NASAとか火星探査の障害の一つとして、「被爆量」に悩んでいる。
つまり、これと同じことで、「宇宙肥だめ」はバンアレン帯の外で機能しなければならないということだ。
したがって、このための実験にはバンアレン帯の外でしなければならないということになる。
が、そういう費用が各国、あるいは一部の協力国で出し続けることができるのか?。
方法は有る(妄想だが)が、「日の丸宇宙開発」はそこまで考えてはいないと思っている。
結局、そのようなことを考え合わせると、遠い未来の「宇宙」においても、「バンアレン帯」の中だけの覇権争い、ということになる。
まぁ、それでも「覇権」を持っていることにこしたことはないが。

そういうことからすると、「一国(あるいは一部の国が)」「宇宙開発」を先行したとしても、「宇宙開発」は将来的には進展しない。
「技術」ということからすれば、たとえば1企業だけが独占・・あるいは多くのシェアを持っていた場合、その企業が問題を起こせば世界的に混乱するというのは今も大問題になっている。
「覇権」として見た場合は「独占」に執着したいところだが、「産業」としてみた場合は、広範に技術を持ち合うことが安全策になるということか。
ん?、そういうところからすると、中国宇宙ステーションの「ハッチ」が「独自」の規格というのは将来的に問題にも成り得るか?。
そこのところはどうなんだろう?。
では、世界一丸となって、といったところで、アメリカはアメリカの諸行でアメリカを嫌っている国はわんさかある。
中国・ロシアにしても同様。
では、日本はどうするのか?。
「金」を出せば信頼関係が得られるというものでもない。
結局、人類「宇宙開発」の「マンパワー」はどうするのか?、という問題が根底にあって、これが払拭されないことには、「宇宙開発」は夢と終わることもありえる。
江戸時代の、屎尿と米を交換、が良いとは思わないが、まずは、「人間理解」と「地球理解(昔の人はその科学的知見の無いところでも自然を理解しようとしていたはずだが)」が進展しなければ、どんなに予算を確保したところで、「宇宙開発(特に有人)」は頓挫することになるだろうとおいらは展望している。


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宇宙人は、人間は意地汚いブタと見做す。

なぜ、いじめに「やりがい」をみつける人がいるのか、ネイチャーの報告←ま、大学や大学関係の人間理解はあて糞が無いからね。別の方向で、人間が宇宙人に嫌われる理由がまた一つ見出せたので勝手に愚痴る。

人間は知的生物であるという自認は有るけれども、「認知の歪」を抱えていることは認知しない。
おいら化物顔は「健常者キチガイ」に散々な目に遭わされたが。
ま、こういう輩は僅少だと経験的に思うが。
「イジメ」ということは、第三者としては理解するとしても、その渦中にいるときには「加害者・被害者」双方で現実的理解をしているかは怪しいもの。
「自分が子供の頃にはイジメは無かった」なら「今の子供もイジメは無い」と言っておけ!。
話しはそれるが、幼少期「これ僕んだ~」はよくあること。
そんなこたぁ誰も「無い」とは言うまい。
が、このことが大問題になりえるとは誰も言わない。
泥棒とか詐欺とかになれば言うが。。
だけど、これに「優劣」、つまり「自分は優れている」とか「自分の方が優れている」という認知の歪が肥大していくと「健常者キチガイ」とかになる。
ただし、これは力関係の問題で、このことが「イジメ加害者」だけの問題ではなく、「イジメ被害者」側の問題にもなりえるが。
それはおいといて。
「自分は優れている」とか「自分の方が優れている」という認知の歪は、それが自分のモノだとか指図するとか自分の理解でなければならない、とか思い込みたいわけだ。
例示が古いが、ダンガードAのドップラー総統のように「自分は優れているから他者が優れた考えたことも自分のモノでなければならない」とかそりゃあんたが劣っているんだろ!、と突っ込みどころだが。
だけれども、世の中子供同士から会社からはたまた大学でもこいうことはありふれていることでっしゃろ?。
ツイッターTL上で大学院生だかしていた頃に論文書いたら教授とかが書いたことにしといてくれとかあったが、論文盗用とか日常茶飯事と言っちゃぁ言いすぎだろうけど。
それが国同士でも、「自分は優れているぞスパイ合戦」とか。
優れているならスパイとかせずに相手以上のモノを創れ!。
で、よそ様に良いモノがあれば力づくで奪うとか。
で、おいらとしては、宇宙人が来訪するとすれば想定700年先行した文明をもつはずだが、相対する人間は「自分は優れている」とか「自分の方が優れている」という認知の歪に執着していたいわけだ。
その上で、「宇宙航行技術」「延命医療」は自分たちのモノでなければならない、とか妄信するわけだ。
そんな人間を700年先行した文明を持つ宇宙人が研究も認識も持たずに安易に人間に接触してくるとは思えない。

話しを中途に戻すけれども、そういう理解が大学や大学関係の人間理解にあるとも思えないし、国の従属機関である大学や大学関係が国のしていることを否定する立場になれるはずもない。
つまり、宇宙人が来訪してきたとしても、今まで、しかも今している人間行為、その「自分は優れている」とか「自分の方が優れている」という認知の歪を修正して宇宙人と対峙することができるはずもない。

とにかく大学や大学関係の人間理解はあて糞が無い。
天文学講座の講義によると、インドージンノクーロンボーのチャンドラーがノーベル受賞が遅れたのが「優れた師」の酷評だったとか。
まぁ、定かではないだろうが。
だいたい、教授職とかそういう方向性は「自分は優れている」とか「自分の方が優れている」という認知の歪をモチベーションにしているところだろう。
いや、「老害教授」とか一部の人と信じたいところだが。
師弟関係で師が弟の論文で・・・ってなら、あんたが教授として教えている者より劣っているんだろ!、と突っ込まねばなるまいが。
いや、今時、インドージンノークーロンボーといったところで、学業的には日本の学問人より優れているインド人はざらにいるというのが世界的世情ではない9のか?。
英語も数学も苦手な日本人が日本に来ているインド人を見下すと言うのは滑稽なことだが。
いまだにインドージンノークロンボー。

こういう「見ため問題」は「知的生物」としては原始的な反応でしかないことが、なぜに大学や大学関係から一般人におりてこない?。
それが国家主導で「知的生物」としては原始的な反応を全面に「自分は優れている」とか「自分の方が優れている」という認知の歪を露にする。
繰り返し言うけれども、「見ため問題」からすれば、来訪してきた宇宙人がワイアール星人とか毒々しい色合いのホヤのような姿をしていたら人間は必ず見下すんだよ。
宇宙人が地球に来訪するとすれば、想定700年先行した文明を持っているとしても。
いや、来訪してきた宇宙人がワイアール星人とか毒々しい色合いのホヤのような姿でなかったとしても、人間は「自分は優れている」とか「自分の方が優れている」という認知の歪をモチベーションにしていたい。
まずもって、自分は「劣っている」と見做される・思い知らされるのは受容できない。
ということで、日本評論社 私たちは宇宙から見られている?(仮題)予価2800円+税 をこぞって買ってやってください。内容は知らないが、おいらが愚痴ていることからすれば、読む価値はなさそう。

んでもって、人間は「何かをしているから」、「自分は優れている」とか「自分の方が優れている」という認知の歪をモチベーションにしようとする。
宗教は最たるものであり、宗教大学は醜悪の根源以外のなにものでもない。
700年先行した文明を持つ宇宙人が来訪してきても、宗教や宗教大学は「自分達の神が優れているから宇宙人は我々に従え」と妄信していれば良し。
先進文明の我々と原住民はどっちが優れている?、とした時に先進文明は「得る方法を沢山持っている」というアドバンテージがあるだけで、それを「優れている」指標にすれば「優れている」と言えるだけのこと。
家族を大事にしているということが宣伝文句ではないはずのホリエモンが「優れている」とは思えない。
だいたい、金持ち連中は地球環境に多大な悪影響を及ぼしているのは自明(自然保護してま~すという宣伝文句は掲げるが)。
原住民はその生活を変えないことで連綿と暮らしてきたが、我々が彼ら以上の期間連綿と生活できれば「優れている」だろうが、この3000年程度(どこまでも先進文明とするかはおいらには理解できないが)からどれだけ「先進文明」を続けていけるかだ。
当然「短命」に終われば「劣っていた」ことになる。
ふと、3000年前・・・インカ帝国の末裔が原住民というと本末転倒だが。
「3000年程度からどれだけ「先進文明」を続けていけるかだ。当然「短命」に終われば」←ただ、地球環境の変動とか理由は様々にあるのだけど「人間は、悪い・不当なこと自分は違う、という結論を持って考えようとする」ことで、「先進文明」が起こしているであろう地球環境の悪化はどんな理由も「先進文明の人間は悪くない」ことにする。
これが正に、「自分は優れている」とか「自分の方が優れている」という認知の歪の証左であり人間が劣っていることを如実に表しているが、しょせん「人間は、悪い・不当なこと自分は違う、という結論を持って考えようとする」ので理解できない。

「得る方法を沢山持っている」ことが「優れている」根拠にするというのは700年先行した文明を持つ宇宙人に対しては致命的で、当然人間の方が「劣る」ことになる。
もちろん「神」なんぞ原住民の呪術ほどの威厳程度事なのは自明。
そういう状況であっても、人間は「決めたい」つまり「主導権」に執着していたい。

話しは前後するが、「自分は優れている」とか「自分の方が優れている」という認知の歪、あるいは「神」というのは、「自分が決める」ことができる根拠にしたいわけだ。
「自分が決める」つまり「他がいる」ことに対して「主導権」を持ちたいのが人間と言うものだ。
当然のことだが「他に決められてしまう」のは状況的に置かれている立場が否定的にされると言うことになる。
得るものも得られなければ、生存・存在・存続を脅かされかねない。
さらには人間は生存・存在・存続以上の欲求を持ち求めようとする。
これが国家や金持ち連中的に地球壊滅に向かわせるであろうから、人間は頑張って無管理無制御に欲求を肥大させて地球壊滅に向かわせれば良し。
ただ、人間は「他が決める」ことには、「不当化」と「自身の被害者化」で「自分が決める」ことに執着する。
このへん大学や大学関係は見極めができるはずだが、自国が他国とかに「不当化」や「自身の被害者化」を指摘して水をさせる立場には無い。
「不当化」と「自身の被害者化」で「自分が決める」ことに執着する←この方法論では、「相手が弱く自分が強い」ことで「自分が決める」ことを「正当化」できるが、逆に「相手が強く自分が弱い」立場では相手には相手にされない、当然。
では、700年先行した文明を持つ宇宙人は、当然我々人類が持ち得ない「得る方法を沢山持っている」はずであるが、生存・存在・存続以上の欲求を持ち求めようとする人間は、「得る方法を沢山持っている」ことを求めずに宇宙人と友好的に対峙していくのか?。
生存・存在・存続以上の欲求を持ち求めようとする人間は「得る方法を沢山持っている」ことを求めずにはいられないのは自明であり、当然700年先行した文明を持つ宇宙人にその譲渡を迫るのは火を見るより明らか。
だが、人間の行為と地球の惨状を見れば、700年先行した文明を持つ宇宙人は、その譲渡をためらわずにいられないのはそれこそ自明。
その時に人間は、来訪してきた宇宙人を「不当化」と「自身の被害者化」で相対していこうとするのか?。
するだろ?、当然。

人間側の問題なんて、人間側の人気取りの宇宙関係者や宇宙人の専門家は言いやしない。
熊が人里に・・・たって、「自然」からすれば人間が勝手に熊をおいやる、つまり「人間がここで生活すると決めた」ためだろうに。
これは、ゴキブリとかそれこそカビとかから像やら竹とかの植物まで言えるし、人間同士でも「自分が決める」ことで個人から国家間まで争いあっている。
とにかく人間は「自分が決める」ことをせずにはいられない。
これから宇宙開発だって?。
月は人間が「自分が決める」。
小惑星は人間が「自分が決める」。
火星は人間が「自分が決める」。
ずーっと先に行って系外惑星は人間が「自分が決める」。
当然、700年先行した文明を持つ宇宙人のことも人間が「自分が決める」ことにしたいわけだ。
ファイナルファンタジーの道化師の攻撃のように笑い死ぬか?。

700年先行した文明を持つ宇宙人・・・って、宇宙人の専門家が来訪してくる宇宙人があるとするならば、どの程度人間より文明が進んでいるかということを「想定」しているのか甚だ疑問だが。
現状の地球文明であっても「リモートセンシング技術」「電波の利用技術」は相応のもん、ということがなぜに参照されていない?。
人間が「自分が決める」ことに執着していること・争いあっていることは電波で・地上つまり「リモートセンシング」で情報収集できることであり、我々人間が未知のモノを観測・観察・分析している以上に700年先行した文明を持つ宇宙人は観測・観察・分析するのは自明。
人間は、他の知的生物からどのように見られるか?・どのように理解されるか?、という視点が無いというか、自分たちは平和で高度な知的生物という自認の元に「自分は優れている」とか「自分の方が優れている」という認知の歪に執着していたいわけだ。
「自分は優れている「自分の方が優れている」という認知の歪に執着している、つまり700年先行した文明を持つ宇宙人が来訪してきたとしても、その宇宙人は人間にとって人間より下にみなせなければならない。
なぜなら人間は「自分で決める」ことを阻まれたくないのだから。
しかし来訪してきた宇宙人が700年でなくても人間以上に先行した文明をもっているとすれば、「宇宙人が決める」ことは多々有ると「想定」できるわけだが。
人間にとって、「自分が決める」ことができない、あるいは「自分が決める」ことにそぐわないことは、対テロ(もちのろんで人間側がテロリストとみなされるだろう)の収拾のつかない争いを人間はしていくことになるのは確実、だって今やってるじゃん人間同士で。

ということで、宇宙人は、人間は意地汚いブタと見做す、のは確実。

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